第19話 失敗は許されない?
文字数 2,920文字
コロナウイルス流行後、ますます相互監視のギスギスした世のなかになっているような気がします。
自粛 警察、マスク警察、ということばもたびたび耳にします。
なんとなくの印象ですが、正義感からというより、
「自分がこんなに我慢して自粛(マスクを)しているのに、あのひとは好き勝手なことをしている。許せない」
という抑圧された感情から、他人への監視が厳しくなっているように見受けられます。
なにをいう、そんなことはない、と反論される方もおられるかもしれません。
たんにわたしがそう感じてしまうというだけの話ですので、さらっと聞き流していただけたらと思います。あくまでも一個人の意見ですので。
もちろん、ルールは守るべきです。自粛やマスクは、これ以上、お互いに感染を広げないためのもの。わたしも家から外へ出るときはマスクをしますし、仕事と買いもの以外での外出はほとんどしていません。もともと出不精 なせいもありますが。
あ、コロナの話をしようとしているわけではありません。
今回は、他人への厳しさ、についてお話ししたいと思います。
これは、かつてわたしが上司からいわれたことばに端 を発します。
「桐乃さんは、できないひとに対して厳しい」
といわれたことがあります。
心外でした。そんなつもりはない、と瞬時に反発心が沸きあがり、しかしそれと同時に、いや待てよ、と冷静な自分が表に現れました。
たしかに、そういうとこ、ある。
血の気の多い桐乃の腕を掴み、冷静なもうひとりの桐乃が淡々と諭 します。
「ほら、きみさ、自分ができることは他人もできてあたりまえ、って思っているところあるでしょ」
これは、
わたしごときができることが、あなたにできないはずがない。
うわあ、いやなやつですね。自分ですが。
とたんに怒りはしゅるしゅると治まり、代わりに身悶 えんばかりの羞恥の嵐に呑み込まれました。
面と向かって
「あなた傲慢なやつですね」
といわれたようなものです。
はい、そのとおりでした。
自分ではまったくそんなつもりはなかった、というのがまた、くせ者です。無自覚にやらかしていたわけですから。
わたしは自分をものすごく低めに評価していて、実際そんな大した能力などないので、その評価自体はさして間違っていないのです。ただ、自分のものさしで他人を測ることの危うさに気づいていなかった、それだけです。
なんというか、暗闇から突如現れたなに者かに袈裟懸 けに斬りつけられた、くらいの衝撃を受けました。かなり瀕死 の状態です。よく生きていたな、自分。けっこう図太い。
余談ですが、その上司も、自分ができることは他人もできてあたりまえ、と考えるタイプです。わたしと決定的に違うのは、天才型だということ。
つまり、できないひとの気持ちがわからないタイプです。なんでできないの?と心底ふしぎそうに首をかしげるひとなのです。
わたしにいったことばも、たぶんもう覚えていないでしょう。
その事件以降、わたしはなるべく一歩退いて、他人を見るようになりました。
わたしは不器用で、覚えるまでにひとよりも時間がかかるのです。その代わり、いちど覚えたらほとんど忘れません。
見ていると、たしかにひとそれぞれ、やり方は違います。
聞いてすぐに理解してさくさくできるひと。
メモを取って、復習しながら覚えるひと。(わたしはこのタイプです)
何回も同じことを聞いてくるひと。
理解していないのに「わかりました」といって、あとでやらかすひと。
困るのはもちろんいちばん最後のタイプ。しかもやらかした本人は「自分のせいじゃないです。教わってなかったんで」としれっとほざいたりします。
ほんま、ええころしいや。(意訳:いいかげんになさいませよ。)
こういう、最初から覚える気のない人間に対しては、わたしは相変わらず厳しいですが(あからさまな塩対応)、そうでなく、やる気はあるのにうまくできない、というひとには「なんでできないの」とは思わなくなりました。
そのひとなりのペースがある。そう思えるようになりました。
わたしは外国に行った経験はないので、日本のことしかわかりませんが、日本人は生 まじめというか、失敗を許さない。成功してあたりまえみたいな考えがあるように思います。
人間だから、なにかしらのミスをやらかすのはあたりまえ。それなのに、失敗は許されない、みたいな無言の圧力を感じます。
これを失敗したら何十億円の損害とか、あるいは人命にかかわるような、あきらかにリスクが大きな場合はもちろん徹底してミスを防ぐ必要があります。けれど、そうではない、やり直しがきくレベルの些細 なことでも、
「失敗する=迷惑がかかる(迷惑をかけられる)」
と白い目で見られることがあります。
はい、わたしもそうでした。反省しております。
さほど被害の出ない日常レベルのことで、ぜったいに失敗してはいけない、というプレッシャーをお互いにかけあうより、失敗しても仕方ない、すぐにフォローできるから大丈夫、とある程度、余裕をもたせておくほうがギスギスしなくてやりやすいなと、感じるようになりました。
なにかの本で読んだ記憶があるのですが、建築だったか、コンピュータの設計だったか、作るときに、はじめからあえて弱い部分を残しておく、という意味の文章に出会い、目から鱗が落ちました。
いずれどこかに歪 みや故障が出てくるので、それが致命的なものとならないよう、あえて修復しやすいところにあらかじめ歪みを誘導しておく、みたいなニュアンスだったと思います。
完璧を求めすぎるとうまくいかない。
ミスはお互いさま。
そう考えると、すこしは楽になれるような気がします。
もちろん、やらかしたあとの尻拭いをすべて他人にやらせる、というのは論外ですが。
やさしさとか、思いやりとか、そういう気持ちは、まず自分に余裕がないとなかなか難しいと思います。逆にいえば、いつもギスギスしているひとはつねに自分に余裕がない状態、ともいえるかもしれません。
これもずいぶんまえになにかで読んだのですが、例えばこどもに飲みものを運んでもらうとき
「こぼさないで」
と声をかけると、こぼす確率があがるといいます。
こぼさないで、ということばから、実際にこぼすイメージを頭に浮かべてしまうからだそうで。
受験生へマイナスのイメージを与えることばをいわない、というのと同じ原理でしょうか。あれはたんに縁起 の問題かもしれませんけど。
ひとになにかをお願いするとき、声のかけ方ひとつで結果が変わる可能性があることを胸に置いて、ことばを選ぶようにしたいと思います。
自分自身が完璧を求めるのは自由ですが、それを他人へ強 いるのは酷 というもの。
自分と他人はまったくべつの存在であり、考え方も異なる。それがあたりまえという前提で他人と接すると、すこし気持ちに余裕ができる気がします。
世界の中心は自分ではない、ということを肝に銘 ずる今日このごろです。
なんとなくの印象ですが、正義感からというより、
「自分がこんなに我慢して自粛(マスクを)しているのに、あのひとは好き勝手なことをしている。許せない」
という抑圧された感情から、他人への監視が厳しくなっているように見受けられます。
なにをいう、そんなことはない、と反論される方もおられるかもしれません。
たんにわたしがそう感じてしまうというだけの話ですので、さらっと聞き流していただけたらと思います。あくまでも一個人の意見ですので。
もちろん、ルールは守るべきです。自粛やマスクは、これ以上、お互いに感染を広げないためのもの。わたしも家から外へ出るときはマスクをしますし、仕事と買いもの以外での外出はほとんどしていません。もともと
あ、コロナの話をしようとしているわけではありません。
今回は、他人への厳しさ、についてお話ししたいと思います。
これは、かつてわたしが上司からいわれたことばに
「桐乃さんは、できないひとに対して厳しい」
といわれたことがあります。
心外でした。そんなつもりはない、と瞬時に反発心が沸きあがり、しかしそれと同時に、いや待てよ、と冷静な自分が表に現れました。
たしかに、そういうとこ、ある。
血の気の多い桐乃の腕を掴み、冷静なもうひとりの桐乃が淡々と
「ほら、きみさ、自分ができることは他人もできてあたりまえ、って思っているところあるでしょ」
これは、
このわたしができるくらいだから、ほかのひとにもできるに違いない
という、自分を卑下するあまり、かえって傲慢になる典型的な考え方です。わたしごときができることが、あなたにできないはずがない。
うわあ、いやなやつですね。自分ですが。
とたんに怒りはしゅるしゅると治まり、代わりに
面と向かって
「あなた傲慢なやつですね」
といわれたようなものです。
はい、そのとおりでした。
自分ではまったくそんなつもりはなかった、というのがまた、くせ者です。無自覚にやらかしていたわけですから。
わたしは自分をものすごく低めに評価していて、実際そんな大した能力などないので、その評価自体はさして間違っていないのです。ただ、自分のものさしで他人を測ることの危うさに気づいていなかった、それだけです。
なんというか、暗闇から突如現れたなに者かに
余談ですが、その上司も、自分ができることは他人もできてあたりまえ、と考えるタイプです。わたしと決定的に違うのは、天才型だということ。
つまり、できないひとの気持ちがわからないタイプです。なんでできないの?と心底ふしぎそうに首をかしげるひとなのです。
わたしにいったことばも、たぶんもう覚えていないでしょう。
その事件以降、わたしはなるべく一歩退いて、他人を見るようになりました。
わたしは不器用で、覚えるまでにひとよりも時間がかかるのです。その代わり、いちど覚えたらほとんど忘れません。
見ていると、たしかにひとそれぞれ、やり方は違います。
聞いてすぐに理解してさくさくできるひと。
メモを取って、復習しながら覚えるひと。(わたしはこのタイプです)
何回も同じことを聞いてくるひと。
理解していないのに「わかりました」といって、あとでやらかすひと。
困るのはもちろんいちばん最後のタイプ。しかもやらかした本人は「自分のせいじゃないです。教わってなかったんで」としれっとほざいたりします。
ほんま、ええころしいや。(意訳:いいかげんになさいませよ。)
こういう、最初から覚える気のない人間に対しては、わたしは相変わらず厳しいですが(あからさまな塩対応)、そうでなく、やる気はあるのにうまくできない、というひとには「なんでできないの」とは思わなくなりました。
そのひとなりのペースがある。そう思えるようになりました。
わたしは外国に行った経験はないので、日本のことしかわかりませんが、日本人は
人間だから、なにかしらのミスをやらかすのはあたりまえ。それなのに、失敗は許されない、みたいな無言の圧力を感じます。
これを失敗したら何十億円の損害とか、あるいは人命にかかわるような、あきらかにリスクが大きな場合はもちろん徹底してミスを防ぐ必要があります。けれど、そうではない、やり直しがきくレベルの
「失敗する=迷惑がかかる(迷惑をかけられる)」
と白い目で見られることがあります。
はい、わたしもそうでした。反省しております。
さほど被害の出ない日常レベルのことで、ぜったいに失敗してはいけない、というプレッシャーをお互いにかけあうより、失敗しても仕方ない、すぐにフォローできるから大丈夫、とある程度、余裕をもたせておくほうがギスギスしなくてやりやすいなと、感じるようになりました。
なにかの本で読んだ記憶があるのですが、建築だったか、コンピュータの設計だったか、作るときに、はじめからあえて弱い部分を残しておく、という意味の文章に出会い、目から鱗が落ちました。
いずれどこかに
完璧を求めすぎるとうまくいかない。
ミスはお互いさま。
そう考えると、すこしは楽になれるような気がします。
もちろん、やらかしたあとの尻拭いをすべて他人にやらせる、というのは論外ですが。
やさしさとか、思いやりとか、そういう気持ちは、まず自分に余裕がないとなかなか難しいと思います。逆にいえば、いつもギスギスしているひとはつねに自分に余裕がない状態、ともいえるかもしれません。
これもずいぶんまえになにかで読んだのですが、例えばこどもに飲みものを運んでもらうとき
「こぼさないで」
と声をかけると、こぼす確率があがるといいます。
こぼさないで、ということばから、実際にこぼすイメージを頭に浮かべてしまうからだそうで。
受験生へマイナスのイメージを与えることばをいわない、というのと同じ原理でしょうか。あれはたんに
ひとになにかをお願いするとき、声のかけ方ひとつで結果が変わる可能性があることを胸に置いて、ことばを選ぶようにしたいと思います。
自分自身が完璧を求めるのは自由ですが、それを他人へ
自分と他人はまったくべつの存在であり、考え方も異なる。それがあたりまえという前提で他人と接すると、すこし気持ちに余裕ができる気がします。
世界の中心は自分ではない、ということを肝に