第12話 不言実行、そして言霊
文字数 4,988文字
口にしたことをかならずやり
たとえば「大会で優勝する」「○位以内の成績をおさめる」「締め切りの一週間まえまでに仕上げる」「一ヶ月で三㎏痩せる」といったふうに。
周囲に宣言することでモチベーションの維持に繋がり、簡単に引くに引けない状況をつくりだすことで成功率を高める効果が期待できます。
では、
有言実行とは反対に、ことばにせず、やるべきことをただ黙ってやる、という意味です。有言実行は、この不言実行ということばから
耳馴染みがあるのは、有言実行のほうかもしれません。
ちょっと検索してみたところ、どうやら
有言実行は、目標を周囲に公言するので結果もわかりやすく、そこに至るまでのさまざまな努力もアピールできます。目につきやすく、パフォーマンスとして他人に
努力の過程や結果がわかりやすい(あのひとは目標のためにああやってがんばっているのだな、という視点が生まれる)ので、評価がされやすいという
不言実行はどうでしょうか。
そもそも、周囲に対してことさらに目標を伝えていないので、努力していても、なかなかそれと気づかれません。そして、晴れて目標を達成したとしても、自分以外にはそれがわかりません。
とても地味なのです。
わたしは、この不言実行のほうを好ましく思います。
これはあくまでもわたし個人の意見であって、有言実行を否定するつもりはまったくありません。有言実行ですばらしい成績を残されたかたや、宣言したとおりに目標を達成されたかたは、ほんとうにすごいなと思います。
ただ、わたしの性格上、不言実行のほうがしっくりくる、というだけなのです。
夢はことばにすると叶う、口にすることで幸運を引き寄せる、というフレーズをよく耳にします。そういった書籍も見かけます。
きっとそうなのでしょう。
なぜなら、ことばには力があるからです。
わたしが不言実行を好ましく思うのは、このためです。
ことばには力がある、とわかっているからこそ、大事なことはことばにしない、したくないのです。
古事記のなかで、とある山の神を討ちに出かけたヤマトタケルが白猪に遭遇したさい、
「これは神の使者に違いない。いまは殺さず、帰りに殺そう」
と言挙げをする場面があり、しかし、この白猪こそが神であったため、ヤマトタケルはこの神の祟りに遭い、それがもとで命を落とします。
言挙げとは、
自分の意志を声に出していうこと
であり、もしそれが慢心によるものであった場合、悪い結果がもたらされる、といいます。言挙げには言霊が宿ります。
声にすることは、よくも悪くも力があるのです。
以前、わたしは一匹の、ガリガリに痩せた、ずいぶん人懐こい仔猫に出会い、はじめて自分が選んだ家族として迎え入れていっしょに暮らしていました。
すくすくと成長して七㎏近くまで大きくなったその子は、わたしにとってとくべつな存在でした。その子に出会うまで、わたしは自分が動物を飼うことなど考えたこともありませんでしたし、出会ったときに、その子があんなにガリガリでふらふらヨタヨタしながらも、わたしの足にすり寄ってかわいらしい声で鳴いて甘えてこなかったら、連れて帰ることはなかったと思います。
その子だから、わたしは家族として迎え入れることを決めたのです。
ある年の瀬も迫った十二月下旬。
わたしは体調不良で寝込んでおりました。
ようやく元気になってきた、やれやれ、とほっとしたのもつかのま。
入れ替わるようにして、今度はその子のようすがおかしくなったのです。
なんの前触れもなく、とつぜんに。夜になって呼吸が荒くなり、朝を待って獣医さんに駆け込んだときには、もう手遅れで。
1日じゅう、酸素室で苦しみ、のたうちまわって、その夜。最後の最後まで苦しんで苦しみぬいて、その子は息を引き取りました。決して、安らかな最期ではありませんでした。
いったいなにが起きたのか、頭がついていかず、茫然自失状態で。
あと数日で年明けというあわただしい年の瀬に、
「あの子、わたしの身代わりになってくれた気がする」
友人はあっさりとうなずきました。
「うん、そうだと思う」
友人は、その職業柄もあり、超がつくほどのリアリスト、現実主義者です。小学校からのつきあいですが、オカルトめいたことを口にしたことはおそらくない、と思います。その友人が、わたしの
もし「そんなことない。考えすぎ」と返されていたら、わたしはひとりでずっと自責の念にかられていたと思うのです。
自分を責める気持ちはもちろん消えませんが、
「あの子が身代わりになってまで助けてくれたのかもしれない」
と思うと、ずっと泣き暮らすわけにもいきません。
あの子が亡くなったあと、わたしはいわゆるペットロス、軽い抑うつ状態になり、こうして復帰するまでに数年かかりました。あまりの喪失感に耐えきれず、それまでずっと暮らしてきたアパートを引き払い、いまの家に引っ越してきたほどです。めんどくさがりのわたしが、よくあんな電光石火のごとく、引っ越しのための一連の手続きや作業をてきぱきと進められたものだと驚きです。
なぜ、身代わりだなんて
みなさんは、
わたしはこの人形というものがどうにも苦手で、自分で自分のために購入したことがありません。
ひとのかたちを模したものには命が宿りやすいといいます。
古代、人形のそもそもの成り立ちがひとの代わりにその身に厄を受けるためのものであったり、現代でも、ひとがたに切り抜いた紙を川に流したりする風習もあるようです。
ひな祭りに飾るひな人形は、持ち主である女の子の厄を代わりに身に受けるものとして飾られ、そのため、ひな祭りを過ぎても飾ったままでいると、その厄のためお嫁にいきそびれる、などともいわれています。
わが家にひとがたのものはなく、命あるちいさいもので
わたしがなにより大事にしていた存在
が、あの子でした。だから、あの子がわたしの身代わりとなったのだ
、と思いました。思い過ごし、考えすぎ、というにはあまりにタイミングがよすぎました。それに、わたしはあの子をかわいがるあまり、
「この子がいちばんかわいい。もしいなくなってしまったら、どうしていいかわからない」
と公言していました。
いわゆる厄や魔というものはもっとも狙いやすく、もっとも大事にされているものにその手を伸ばしてきます。
大事なものをことばにしてしまうとそれを狙われるということを、わたしはあの子かわいさのあまり、うっかり失念していたのです。
わたしにとって、大事に思っていることをことばにして声にのせるのは、むざむざと弱味をさらすことと
大事なことはあえて口に出さずに胸に秘めておくことが、わたしにとっては最善なのです。
だから、成し遂げようとする目標もあえてことばにはせず、もくもくと、
ことばにしてしまうと、それを達成するまえに邪魔が入ると思い込んでいるのです。
つまり、これもひとつの呪い。
おいおいオカルト系かよ、いまどきそんなの信じているのかよ、と思われるでしょう。
決して信じたくはないのですが、
もしかしたら
とわずかでも揺らいだわたしはすでに、この呪いを身に招き入れてしまいました。
呪いという漢字は、口に、兄を足したもの。この「兄」という字は「口」と「ル」が合わさったもので、ひざまずいて祈りを捧げるひと、つまり
祈りも、
呪いとは、ひとがことばを口にすることで現れる事象なのです。
たとえば、大事な発表会などを
「もし失敗したらどうしよう」
と気持ちを
「大丈夫、きっとうまくいくよ」
と返す場面があります。
この場合の「大丈夫、きっとうまくいくよ」ということばは、「失敗するかもしれない」という呪いを打ち消す、呪いに上書きすることで呪いの効力を弱める作用があります。
英語圏でいう、くしゃみをしたときにそばにいるひとがいってくれる「God bless you」と似たような意味合いなのかもしれません。
「大丈夫だよ」と返されて「気休めをいわないで」と突っぱねるひとがいますが、決して気休めではないのです。
一時期、「大丈夫」ということばを安易に使うのはよろしくない、というような風潮があったように思いますが、どうしてだろうと不思議でした。
口にすることでよい方向へ作用することばだと思うからです。
わたし自身、もし自分が不安なときに、だれかが「大丈夫だよ」といってくれたら、なんの根拠もないことばでも、とても心強く感じられます。
よくも悪くも、ことばには力が宿ります。呪うも祝うも、ことばしだい。読んで字のごとく、どちらも、ひとがことばを声にのせて行うものなのです。
現在、わが家には二匹の猫がおります。
この子たちは、職場のアルバイトの子が神社で見つけてきた野良猫でした。ガリガリに痩せ細った仔猫たちで、目ヤニで目が開かないくらい悲惨な状態だったのを見かねて、その子がわたしに連絡してきたのです。
その神社には野良犬や野良猫が居着いているという噂は聞いていました。仔猫の状態から、周りに親猫や世話をしているひとはいないのだろうと判断して、保護してひとまず獣医さんに診てもらうことにしました。
そのアルバイトの子は飼えないというので、そのまま見捨てるのも忍びなく、わたしが引き取ることにしたのです。
わが家には当時、最初に保護した最愛の猫がいたので、不安はありましたが、仕方ありません。
はじめのうちは住み分けをして、
あの子をうしなってから、わたしは、この残った二匹を名前で呼ぶのをやめました。もとの名前がわからないような愛称をつけて(わたしのなかでは繋がりがあるのですが、ひとにいうと「なんでその呼び方?」と不思議がられます)、そのあだ名で呼んでいます。
名前を知られると魂をつかまれる
。ここまでくると、もはや病的と思われるでしょうが、この子たちまで犠牲にならないよう、
『真夏の夜の夢』という未完の拙作があるのですが、そのなかで、主人公をある呪いから遠ざけるために、彼の母親は彼に女の子の格好をさせて育てます。
わたしはあの母親と同じような気持ちだと思うのです。
もちろん、いつかかならず別れは訪れる。それは理解しています。ただ、それがあんなふうに理不尽なかたちであってほしくないと、そう思うのです。