第22話 映画は字幕派
文字数 2,101文字
映画には、字幕版と吹き替え版が存在します。これは主に、外国の映画で、俳優のみなさんが日本語以外で演じられたものに限定されるかと思います。
わたしは断然、字幕派です。
ですが、すくなくともわたしの周囲では、吹き替え派が多数を占めておりまして、字幕派はごく少数なのです。とても肩身がせまいのです。
基本的に、映画はひとりで観に行きますが、友人から誘われたときには、字幕・吹き替えの選択は相手に合わせます。
とはいえ、わたしや友人が観る映画のほとんどは、邦画かアニメなので、そもそもその選択肢に頭を悩ませることもありません。(わたしは邦画が好きです)
なぜ、字幕が好きなのか。
それは単純に、台詞がうまく聞き取れなくて「え、いまなんて?」と考えているうちに物語が進んでしまい、置いてきぼりにされることが多々あるためです。
そういうこと、ありませんか?
わたしだけでしょうか。
耳で聞くより、目で見たほうが圧倒的に理解しやすいのです。
これは、日常会話でもよくあることで、相手がなにをいっているのか理解できない、漢字変換に時間がかかる、そういう場面がたびたびあります。わたしの脳に異常があるのかもしれない、と思い、よくよく気をつけて話を聞くようにしてみたところ、どうやらそれだけではなさそうだと気づきました。
日常会話で、相手がなんの話をしているのかわからない、という場合、たいてい、主語がないのです。そしてとつぜん話がはじまる。
だれが、いつ、どこで、なにをしたか。
この、なにをしたか、の「なにを」の部分だけを藪から棒に告げられて、
「は?」
と聞き返すと、相手が
「いや、だから、○○があるでしょう」
いや、○○はわかる。○○がどうしたというのだ。
そこから勝手に相手が話を続けて、最終的に、ああ、つまり、だれそれが○○をどうこうした、それが自分はおもしろくないのだ、という話をしたいのだな、とわかるのです。
なぜ最初から、順序立てて話してくれないのか。ほんの数秒で伝わる話なのに。
一単語ごとにいちいち聞き返さなくてはならないのがストレスだし(いちいち聞き返されるほうもイヤでしょうに)、話を理解するまでの労力に反して、内容はさほど重要ではない。徒労 といってよい。
ものすごく疲れます。
わたしの感覚では、年輩の方に多いように思います。
自分が知っていることは相手も知っている、という前提で話しはじめるので「いや、それだれやねん。知らんがな」となります。
これが通用するのは、家族間や仲間内など、ある程度の共通認識がある場合のみです。第三者になにかを伝えたいのなら、ことばを惜しんではなりません。
わたし自身、これを自戒 として、口頭 でひとになにかを伝えるときにはじゅうぶんに気をつけようと思いました。
わかりやすく、簡潔に。
情報の伝達で重要なのは、この二点だと思っております。
それができてはじめて、その情報に対する反応が生まれるのです。
話が逸 れました。いったん字幕の話に戻ります(またすぐに脱線します)。
洋画を字幕で観るのは、もうひとつ理由がありまして、演じている役者さんの声を聞きたい、というものです。
といっても、わたしは恥ずかしながら英語そのほかの言語はちんぷんかんぷんで、聞いたところで理解はできないのですが、台詞というのは、役者さんの演技そのものだと思うのです。なにをいっているのかわからなくても、声のトーンや、口調で、なんとなく伝わるものがあります。あくまでもなんとなく、なので、物語の内容そのものは字幕がないとついていけませんが。
画面を観ながら字幕を追い、耳で台詞を聞く。
とても忙 しない状況ですが、これがわたし好みの映画鑑賞なのです。
ここからふたたび脱線します。
冒頭で、「映画の台詞がうまく聞き取れなくて物語から置いてきぼりにされる」という話をしましたが、おそらくですが、もしこういう状況に陥ったとき、「なんとなく雰囲気で理解して流す」という対処法がもっともメジャーなのではないでしょうか。
この文章を書いていて思い出したのですが、知り合いの元男子高校生(現在は社会人)の交友関係はほぼ100%ヤンキーで、そのなかであまりにも成績がかんばしくないため、学校側から退学を余儀なくされた友人たちが何人かいる、という話を聞いておりまして。
その友人のうちのひとりが、当時、いち早く自動車免許を取得したそうで。
でも、その子、漢字がほとんど読めないというのです。ペーパーテストの漢字はなんとなく雰囲気でクリアした、と恐ろしいことをいっていたそうで。彼は漫画をよく読むそうですが、わからない漢字はぜんぶ飛ばして読むとのこと。それでも内容はなんとなく雰囲気で理解できる、と。
ペーパーテストを雰囲気でクリアというのはいかにもまずいけれど、物語の内容を雰囲気で理解できる想像力は才能のひとつかもしれない、と思いました。
わたしはそれができないので。
物語のなかで、ひとつのことばにつまずくと、ちゃんと自分の頭でそれを理解するまで話に追いつけなくなるのです。融通 がきかない石頭なのです。
わたしは断然、字幕派です。
ですが、すくなくともわたしの周囲では、吹き替え派が多数を占めておりまして、字幕派はごく少数なのです。とても肩身がせまいのです。
基本的に、映画はひとりで観に行きますが、友人から誘われたときには、字幕・吹き替えの選択は相手に合わせます。
とはいえ、わたしや友人が観る映画のほとんどは、邦画かアニメなので、そもそもその選択肢に頭を悩ませることもありません。(わたしは邦画が好きです)
なぜ、字幕が好きなのか。
それは単純に、台詞がうまく聞き取れなくて「え、いまなんて?」と考えているうちに物語が進んでしまい、置いてきぼりにされることが多々あるためです。
そういうこと、ありませんか?
わたしだけでしょうか。
耳で聞くより、目で見たほうが圧倒的に理解しやすいのです。
これは、日常会話でもよくあることで、相手がなにをいっているのか理解できない、漢字変換に時間がかかる、そういう場面がたびたびあります。わたしの脳に異常があるのかもしれない、と思い、よくよく気をつけて話を聞くようにしてみたところ、どうやらそれだけではなさそうだと気づきました。
日常会話で、相手がなんの話をしているのかわからない、という場合、たいてい、主語がないのです。そしてとつぜん話がはじまる。
だれが、いつ、どこで、なにをしたか。
この、なにをしたか、の「なにを」の部分だけを藪から棒に告げられて、
「は?」
と聞き返すと、相手が
「いや、だから、○○があるでしょう」
いや、○○はわかる。○○がどうしたというのだ。
そこから勝手に相手が話を続けて、最終的に、ああ、つまり、だれそれが○○をどうこうした、それが自分はおもしろくないのだ、という話をしたいのだな、とわかるのです。
なぜ最初から、順序立てて話してくれないのか。ほんの数秒で伝わる話なのに。
一単語ごとにいちいち聞き返さなくてはならないのがストレスだし(いちいち聞き返されるほうもイヤでしょうに)、話を理解するまでの労力に反して、内容はさほど重要ではない。
ものすごく疲れます。
わたしの感覚では、年輩の方に多いように思います。
自分が知っていることは相手も知っている、という前提で話しはじめるので「いや、それだれやねん。知らんがな」となります。
これが通用するのは、家族間や仲間内など、ある程度の共通認識がある場合のみです。第三者になにかを伝えたいのなら、ことばを惜しんではなりません。
わたし自身、これを
わかりやすく、簡潔に。
情報の伝達で重要なのは、この二点だと思っております。
それができてはじめて、その情報に対する反応が生まれるのです。
話が
洋画を字幕で観るのは、もうひとつ理由がありまして、演じている役者さんの声を聞きたい、というものです。
といっても、わたしは恥ずかしながら英語そのほかの言語はちんぷんかんぷんで、聞いたところで理解はできないのですが、台詞というのは、役者さんの演技そのものだと思うのです。なにをいっているのかわからなくても、声のトーンや、口調で、なんとなく伝わるものがあります。あくまでもなんとなく、なので、物語の内容そのものは字幕がないとついていけませんが。
画面を観ながら字幕を追い、耳で台詞を聞く。
とても
ここからふたたび脱線します。
冒頭で、「映画の台詞がうまく聞き取れなくて物語から置いてきぼりにされる」という話をしましたが、おそらくですが、もしこういう状況に陥ったとき、「なんとなく雰囲気で理解して流す」という対処法がもっともメジャーなのではないでしょうか。
この文章を書いていて思い出したのですが、知り合いの元男子高校生(現在は社会人)の交友関係はほぼ100%ヤンキーで、そのなかであまりにも成績がかんばしくないため、学校側から退学を余儀なくされた友人たちが何人かいる、という話を聞いておりまして。
その友人のうちのひとりが、当時、いち早く自動車免許を取得したそうで。
でも、その子、漢字がほとんど読めないというのです。ペーパーテストの漢字はなんとなく雰囲気でクリアした、と恐ろしいことをいっていたそうで。彼は漫画をよく読むそうですが、わからない漢字はぜんぶ飛ばして読むとのこと。それでも内容はなんとなく雰囲気で理解できる、と。
ペーパーテストを雰囲気でクリアというのはいかにもまずいけれど、物語の内容を雰囲気で理解できる想像力は才能のひとつかもしれない、と思いました。
わたしはそれができないので。
物語のなかで、ひとつのことばにつまずくと、ちゃんと自分の頭でそれを理解するまで話に追いつけなくなるのです。