第15話 わたしはそうは思わない

文字数 1,530文字

 たとえば、だれかが発言したことばが自分の考えとは百八十度ちがうものであったとき。自分のなかで、にわかに緊張感が生まれます。
 わたしはそうは思わない。
 けれど、いまそれをここで口にするべきかどうか。

 これが議論の場であれば、なんの気がねもいりません。挙手(きょしゅ)するなり、自分の発言の順番が回ってくるのを待つなりして、淡々と、自分の意見を口にするだけです。
 しかし、これが日常のなかでの場面であった場合。
 どのように対応するかは、その場の状況、話のテーマ、そしてその相手との関係性によってさまざまに変化するのではないかと思います。

 気心の知れた仲ならば「わたしはこう思う」と伝えるのはそう難しくありません。相手も「そうなんだ」くらいに軽く受けとめてくれると期待できるからです。
 相手が目上(めうえ)や自分よりも上の立場だった場合、おとなしく相手の話を拝聴し、意見を求められたらそのときにやんわりと自分の考えを伝える、くらいがベストかと思います。仕事上の取引先や、こじれるとめんどうな相手の場合は、自分の考えは表に出さず、上手に相手に合わせるのもひとつの手でしょう。

 ときどき、自分と違う意見は認めない、という独裁者めいたひとに出会うことがあります。
 自分と違う考えを示されると、とたんに不機嫌になり、自分の意見を押し通そうと感情的なものいいで突っかかってくるひとや、自分の正統性ばかりを主張して、相手の意見を「ありえない」と(さげす)むひと。
 自分と違う意見はすべて敵という過激派も散見(さんけん)されます。

 自分の意見を否定されること=自分の人格を否定されると思い込んでいるひとがいます。どうしてそうなった、と不思議ですが、そういう価値観の持ち主なのでしょう。
 これは裏返すとそのまま、相手の意見を否定する=相手の人格を否定することとなるのですが、往々(おうおう)にして、そちらに関しては無関心であることが多いように見受けられます。

 自分を大事にすること自分の考えに固執することはまったくのべつものなのですが、たまに混同しているひとがいるようです。
 十人十色というように、ひとはそれぞれ違う人間なのだから、考え方も違ってあたりまえなのです。それがよっぽどひどい、だれかに害を及ぼすようなものでない限り、尊重されて(しか)るべきでしょう。

 ひとにはそれぞれ、思考パターンというものがあります。
 自分のなかに、さまざまな性格を持った複数の人格がいる場合などを除いて、ある程度、考え方の方向性は決まってきます。自分を完全に客観視して、全方位からの思考を試みる、というのはなかなかに至難(しなん)(わざ)だと思うのです。
 そこで、他者の意見こそが、得難(えがた)いものとなってくるのです。

 自分では思いもよらなかった方向からの視点、自分では考えつかなかった意見。
 自分と異なる意見とは、新たな視点の発見なのです。
 自分とは違うからと、頭ごなしに否定してしまうのはもったいない。どれどれ、どうしてそう思うのか、もっと詳しくお聞かせ願いたい、と食いついていくくらいでもよいかもしれません。相手にはドン引きされるかもしれませんが。

 もし、反対に、自分と近しい、もしくは同じ意見を持つひとと出会えた場合、それは奇跡にも等しいと思うので、大事に信頼関係を築いてゆくことをおすすめしたいです。
 共感というのは、自己肯定感に直結すると思うのです。しかも互いにそれを得られるならば、これほどのことはありません。
 まったくそっくり同じである必要はありません。似たところがあれば、同時に、相容(あいい)れないところもあるでしょう。それでよいのだと思います。

 大事なのは、互いにべつのひとりの人間である、という認識。

 自分を尊重してほしいのなら、まずは相手を尊重することです。
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