第36話 欠片だけで生きている

文字数 3,166文字

 このところ災厄に見舞われております。

 ことの起こりは、二週間ほどまえのこと。
 お昼寝をしていたところに宅配便が届き、横着(おうちゃく)にも眼鏡をかけずに階段を降りていたら、足を踏み外して転落。
 右足首を軽く捻挫(ねんざ)し、親指の爪がぱっくりと割れてしまいました。
 いやもう、痛いのなんの。
 捻挫は大したことなかったのですが、爪があまりに痛くて。たぶん、階段の滑り止めに引っかかってしまったのだと思います。
 病院で診てもらうと、幸いにもヒビや骨折はなく、爪も生きているので()がさなくてよいとのことで。

 先生、生爪を剥ぐつもりだったんですか。
 いや、実際、「どれどれ」と軽く剥がされそうになって
 「痛い!」
 と泣きそうになったんですけど。
 痛いながらも歩くことはできるので、翌日からふつうに仕事に出ました。

 そして、数日まえの夜。
 仕事帰りに交差点に差しかかったところ。
 横断歩道の信号が点滅しはじめて、おとなしく止まればよかったのですが、無謀(むぼう)にも「間に合う」と思ってしまったのが間違いで。
 そのすこしまえ、信号に着くまえに、背後からものすごいスピードで車が近づいているのはなんとなく聞こえていたのです。
 横断歩道を渡ろうとしたわたしの、ほんの数センチまえを、うしろからものすごいスピードで走ってきた車が、減速せずに左折して通過。びっくりして止まったのでギリギリ接触はしませんでしたが、あのまま渡っていたら確実にはね飛ばされていたと思います。

 注意一秒、怪我一生。
 わたしの
 「点滅しはじめたけど、たぶん行ける」
 という無謀な判断が事故に繋がるところでした。あの車もかなりの暴走車でしたけど。

 その翌日。
 夕方、あたりはもう暗くなりはじめた、黄昏(たそがれ)どき。
 自転車で職場へ向かう最中、向かいから自転車の集団が近づいてきたので、左側へ()けようとしたところ、うっかり車道側の縁石(えんせき)にぶつかり、その反動で自転車の集団へと突っ込んでしまい。
 幸いにも、集団の最後のお兄さんがブレーキをかけて止まってくれていたので、わたし単体で歩道側のガードレールにぶつかり、転倒。ガードレールに頭と顎を打ちつけて衝撃で眼鏡が吹っ飛び、足は自転車の下敷きに。

 すぐに自転車の集団のお兄さんたちが駆け寄ってきて、自転車を起こしたり荷物を拾ったりしてくれて
 「大丈夫ですか」
 と口々に声をかけてくれました。
 「すみません、すみません、大丈夫です」
 とずっとぺこぺこ謝りながら、なんとか身体を起こして自転車のハンドルを受けとると、手が血まみれで。
 明らかにわたしの過失なのですが、集団のお兄さんたちは、どうやら、自分たちを避けようとしたせいでわたしが転倒したと思っているらしく、お互いに「すみません、ごめんなさい」と謝ることに。
 いや、避けようとしたのはそうだけど、単純にわたしが下手だっただけなので。
 お兄さんたちを巻き添えにせずに済んでよかったと、どっと冷や汗が吹き出しました。一歩まちがえたら大惨事になるところでした。

 痛くてしばらく動けないでいたわたしをまえにオロオロしているお兄さんたち。
 「そちらは大丈夫ですか、すみません」
 と謝ると、お兄さんたちは
 「大丈夫、大丈夫」
 といってくれました。いいひとたち(涙)
 警察に届けるとか、相手の連絡先を聞くとか、その場ではまったく思いつかず、お互いぺこぺこしながら別れて、とりあえず怪我の確認をしました。ひとことでいうと満身創痍(まんしんそうい)でしたが、いちおう歩けるし、奇跡的に眼鏡も自転車も無事で、ふつうに動きます。
 血まみれの手を、持っていたハンドタオルでぐるっと巻いて、そのまま仕事に向かいました。
 いつもならとっくに来ているはずの桐乃が来ない、とザワザワしていたらしいところにフラフラと現れたので、ちょっとした騒ぎに。しかも血のついたタオル。
 お手洗いに入って服の下を確認すると、あちこちに擦り傷や打撲(だぼく)の気配。

 そのときになって、震えがきました。
 他人を巻き添えにして怪我をさせたりしなくてほんとうによかった。
 縁石にぶつかってガードレールに突っ込むまでの記憶がよみがえってきて、冷や汗がにじんで手が震えます。

 階段から落ちたあと、あのときの衝撃が何度もフラッシュバックして、階段をまえにすると一瞬、足がすくむのです。降りるときだけでなく、のぼるときにも。わが家の階段には手すりがあるので、それを(つか)んで、ようやくのぼり降りできている状態で。
 自転車も、向かいから徒歩のひとや自転車が近づいてくると、手に冷や汗がにじんで、ものすごい徐行するか止まってしまいます。
 そのくらい用心(ようじん)するのが、わたしにはちょうどよいのだと思います。

 立て続けに思わぬ怪我を負う羽目になったけれど、なんとかひとさまには傷を負わせずに済んだし、吹っ飛んだはずの眼鏡も衝撃を受けたはずの自転車も無傷で、わたし自身、怪我はしたもののどれも致命傷には至らず、そのまま仕事に行ける程度の傷で。

 わたし、めちゃくちゃ強運の持ち主だな、としみじみ思いました。
 この程度の怪我で済んでありがたい。

 どの事故も、わたしの不注意が原因なので、災厄に見舞われているというか、

のだと思うのです。

 とつぜんこんなことをいうと、気はたしかか、と正気を疑われるかもしれませんが、ときどき、ほんとうにときどきなのですが、わたし、ほんとうはもうとっくに死んでいて、それに気づかずに生活しているんじゃないのかな、と思うことがあります。
 そういう主人公の小説を書いた記憶があります。

 頭がおかしい、と思われたかもしれません。
 そう、ちょっとおかしいのかもしれません。
 わたしはわたしをふつうだと思っているけれど、ほかのひとから見たわたしが「ふつう」で「まとも」に見えているかどうかは、わたしにはわかりません。

 こどものときから、ときどき、そういうことがありました。
 そういうこと、というのは、
 ああ、いま、わたし死んだのかも。
 と感じる瞬間、そういう場面が何度かありました。
 肉体的にも、精神的にも。
 このたびの一連のアクシデントを経験して、そのことを思い出しました。

 痛い、と感じるということは、たぶん、まだ生きているということ。
 ちょっとずつ、なにかが死んで、すり減って、その残りの欠片(かけら)で生きている。そんなかんじがします。
 だれかやなにかに期待しない、あるいは瞬間的に怒りがわくことがあっても、それが恨みとなってあとあと引きずるまでには至らないのも、おそらく、わたしという人間が欠片でしかないからではないかと思うのです。そういった感情を抱えるだけの容量が、わたしにはもう、すでにない。
 幼馴染みのひまわりちゃんが
 「ある日とつぜんふらっといなくなりそう」
 と以前わたしにいっていたのも、わたしの中身がもはや欠片でしかないのをうすうす感じとっていたのかもしれません。

 失ったものを取り戻したいとは思いません。
 わたしはたぶん、足りないくらいがちょうどいい。
 欠片がなくなったら、そのときはほんとうにおしまい。
 それでいい。
 欠片しかなくなってもこうして元気に暮らしていられるなんて、わたしほんと運がいいなと思います。しぶといというか、やっぱり強運の持ち主かもしれない。
 もし、神さまや仏さまご先祖さまといった目に見えないなにかが守ってくれているのなら、いつもありがとうございます、これからもよろしくお願いいたします、なるべくお手を煩わせることのないよう気をつけて暮らします、とお伝えしたいです。



 あとは余生(よせい)、ということばは、たしか江國香織さんの初期のエッセイに出てきたもので、それを読んだときに、すごくいいなと思って印象に残っています。

 あとは余生。
 そう思って生きています。

 
 
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み