第26話 ひまわりの記憶
文字数 2,572文字
小学生のころから、付かず離れずの関係が続いている幼馴染みがいます。
名前を仮に「ひまわりちゃん」とします。
ひまわりちゃんは小柄で華奢 で、あかるくて物怖 じしない、だれとでもすぐに打ち解けるコミュニケーション能力の高い女の子です。
成人した女性を「女の子」や「女子」と呼ぶことに違和感がある、という意見をときどき目に(耳に)します。わかります。わたしの場合、不快とまでは思いませんが、なんだかむずむずします。座りが悪いといいますか。
この時点でのひまわりちゃんは小学生なので、女の子、という表現にしたいと思います。
そんな魅力的な女の子のひまわりちゃんとは反対に、小学生のころのわたしはずんぐりむっくりで無口でどんくさい、冴えない女子でした。
いまもですが(苦笑)。
そんなわたしとひまわりちゃんが、なぜ仲良くなったのか。
いまだに不思議です。
たぶん、ひまわりちゃんから話しかけてきてくれたのだと思います。わたしからアプローチすることはありえません。むかしからものすごく人見知りなので。
そんなこんなで、わたしとひまわりちゃんはなぜかすっかり意気投合し、学校が終わってからも互いの家を行き来して遊び、帰ったあともさらに夜遅くまで長電話をするという、いったいなにをそんなに話すことがあったんだ、といま振り返ると不思議なくらい、とにかく四六時中いっしょに遊んでいました。
いまも交流のある友人のなかで、このひまわりちゃんだけが、わたしの両親に会ったことがあります。
同じ中学校に進学したものの、クラスが別れ、お互いにべつの友人ができて、一時期、なんとなく疎遠 になったりもしました。それでも、校内ですれ違ったりすると、もちろん挨拶くらいは交わします。
本格的に交流が復活したのは、やはり、わたしの父親が亡くなったのがきっかけだったと思います。
父親が末期の肺癌で入院して、それから三ヶ月もしないうちに他界しました。そのころの記憶はあいまいで、ところどころ、なんでそんなことだけはしっかり覚えているんだろう、というような、まだらな記憶だけははっきりと残っていたりします。
この三ヶ月で、ずんぐりむっくりだったわたしは、おそらく十キロ近く痩せました。やつれたというべきか。アルバイト先でも、お客さんから「あんたどうしたん? 大丈夫?」と声をかけられたほどです。
父親が入院してからはアパートにひとりで、病院に洗濯ものを取りにいったりアルバイトに出かけたりと忙しく、まともにごはんを食べたような記憶はないので、やつれるのは当然です。
そんなわたしを見て、きっとひまわりちゃんは「こいつこのまま放置していたらヤバイな」と思ったのでしょう。なにかと声をかけてくれるようになりました。
さて、前置きが長くなりました。
おとなになってから、あるとき、ふと、ひまわりちゃんがいいました。
(細部はうろ覚えなので、一部、脚色が入ります。)
「うち、ひまわりが好きじゃん?」
「うん?」
そうなのです、ひまわりちゃんは、ひまわりの花がお好き。
「まえにさ、桐子ちゃんにその話をしたらさ」
「うん」
「ひまわりちゃんは、ひまわりっていうより、太陽だよね、っていってくれたの」
「えっ、わたし?」
「うん」
ぜんぜん覚えていませんでした。ごめんよ、ひまわりちゃん。
「それが、めちゃくちゃうれしかったんよ」
「ほんまに? ごめん、覚えてないや」
友だち甲斐 のないやつでごめんよ。
そして、またべつのときの話。
わたしにもいろいろゴタゴタがあったように、ひまわりちゃんにも、わたしの知らないゴタゴタが起きていたようで。
基本的に、無精者 のわたしは、自分からだれかに連絡を取ることは、緊急時を除いてほとんどないのですが、たまにふと、思い立って連絡をしてみることがあるのです。
ひまわりちゃんいわく、
「桐子ちゃん、いつもほんとに絶妙なタイミングで連絡してくれる」
とのことで。
なんでしょう、野性の勘、というやつでしょうか。
あるとき、ひまわりちゃんがしみじみといいました。
「桐子ちゃんが男だったら、桐子ちゃんと結婚してたのに」
え、マジで?
こんなにかわいくてキラキラしていて頼り甲斐があってバリバリ仕事もできる、大好きなひまわりちゃんがわたしと結婚してくれたら、そんなのしあわせすぎて怖いくらいだよ。
相変わらずずんぐりむっくりで口下手で人見知りという、まじめ以外なんの取り柄もない、もちろん甲斐性もないわたしは、のんきにそんなことを思いながらも、そういってもらえて、とてもうれしかったのです。
ひまわりちゃんは、もう覚えていないかもしれませんが。
ひまわりちゃんは、その後、結婚して、現在もバリバリ働いています。
コロナが流行しはじめてからは、会うことも滅多になくなりましたが、いまでもときどき連絡を取り合っては近況報告などをしております。わたしがしょっちゅう寝込むので、そのたびに玄関先に大量の差し入れを届けてくれたりします。ありがたい限りです。
こどものころからずっと、助けてもらうばかりで、わたしがひまわりちゃんのためになにか役に立てたことはほとんどないのが心苦しいのですが、それでもひまわりちゃんは愛想を尽かすことなく、いまでも仲良くしてくれています。
わたしはいま、ひまわりちゃんが紹介してくれた美容師さんのお世話になっていて、二ヶ月に一度くらいの割合でその美容室に通っているので、行くたびに、ひまわりちゃんの話題が出ます。同様に、わたしの近況はすべて、ひまわりちゃん経由で美容師さんに共有されています。
先日、冷蔵庫を買い替えたことも、すでに筒抜けでした。
わたしは結婚願望というものがまるでないので、おそらくこの先も独り身を貫くと思いますが、気持ちのうえでは、一度ひまわりちゃんと結婚したかのような心持ちがしています。
ヤバいやつやん、と思われそうですね(汗)。
わたしにとって、ひまわりの花は、大好きな幼馴染みの記憶が刻み込まれた、とくべつな花なのです。
わたしがいままで、自分を不幸だと思わないでのんきに生きてこられたのは、彼女のおかげかもしれません。
恋ではないけれど、恋よりも深いような。
この感情をなんと呼ぶのか、その名前をわたしは知りません。
名前を仮に「ひまわりちゃん」とします。
ひまわりちゃんは小柄で
成人した女性を「女の子」や「女子」と呼ぶことに違和感がある、という意見をときどき目に(耳に)します。わかります。わたしの場合、不快とまでは思いませんが、なんだかむずむずします。座りが悪いといいますか。
この時点でのひまわりちゃんは小学生なので、女の子、という表現にしたいと思います。
そんな魅力的な女の子のひまわりちゃんとは反対に、小学生のころのわたしはずんぐりむっくりで無口でどんくさい、冴えない女子でした。
いまもですが(苦笑)。
そんなわたしとひまわりちゃんが、なぜ仲良くなったのか。
いまだに不思議です。
たぶん、ひまわりちゃんから話しかけてきてくれたのだと思います。わたしからアプローチすることはありえません。むかしからものすごく人見知りなので。
そんなこんなで、わたしとひまわりちゃんはなぜかすっかり意気投合し、学校が終わってからも互いの家を行き来して遊び、帰ったあともさらに夜遅くまで長電話をするという、いったいなにをそんなに話すことがあったんだ、といま振り返ると不思議なくらい、とにかく四六時中いっしょに遊んでいました。
いまも交流のある友人のなかで、このひまわりちゃんだけが、わたしの両親に会ったことがあります。
同じ中学校に進学したものの、クラスが別れ、お互いにべつの友人ができて、一時期、なんとなく
本格的に交流が復活したのは、やはり、わたしの父親が亡くなったのがきっかけだったと思います。
父親が末期の肺癌で入院して、それから三ヶ月もしないうちに他界しました。そのころの記憶はあいまいで、ところどころ、なんでそんなことだけはしっかり覚えているんだろう、というような、まだらな記憶だけははっきりと残っていたりします。
この三ヶ月で、ずんぐりむっくりだったわたしは、おそらく十キロ近く痩せました。やつれたというべきか。アルバイト先でも、お客さんから「あんたどうしたん? 大丈夫?」と声をかけられたほどです。
父親が入院してからはアパートにひとりで、病院に洗濯ものを取りにいったりアルバイトに出かけたりと忙しく、まともにごはんを食べたような記憶はないので、やつれるのは当然です。
そんなわたしを見て、きっとひまわりちゃんは「こいつこのまま放置していたらヤバイな」と思ったのでしょう。なにかと声をかけてくれるようになりました。
さて、前置きが長くなりました。
おとなになってから、あるとき、ふと、ひまわりちゃんがいいました。
(細部はうろ覚えなので、一部、脚色が入ります。)
「うち、ひまわりが好きじゃん?」
「うん?」
そうなのです、ひまわりちゃんは、ひまわりの花がお好き。
「まえにさ、桐子ちゃんにその話をしたらさ」
「うん」
「ひまわりちゃんは、ひまわりっていうより、太陽だよね、っていってくれたの」
「えっ、わたし?」
「うん」
ぜんぜん覚えていませんでした。ごめんよ、ひまわりちゃん。
「それが、めちゃくちゃうれしかったんよ」
「ほんまに? ごめん、覚えてないや」
友だち
そして、またべつのときの話。
わたしにもいろいろゴタゴタがあったように、ひまわりちゃんにも、わたしの知らないゴタゴタが起きていたようで。
基本的に、
ひまわりちゃんいわく、
「桐子ちゃん、いつもほんとに絶妙なタイミングで連絡してくれる」
とのことで。
なんでしょう、野性の勘、というやつでしょうか。
あるとき、ひまわりちゃんがしみじみといいました。
「桐子ちゃんが男だったら、桐子ちゃんと結婚してたのに」
え、マジで?
こんなにかわいくてキラキラしていて頼り甲斐があってバリバリ仕事もできる、大好きなひまわりちゃんがわたしと結婚してくれたら、そんなのしあわせすぎて怖いくらいだよ。
相変わらずずんぐりむっくりで口下手で人見知りという、まじめ以外なんの取り柄もない、もちろん甲斐性もないわたしは、のんきにそんなことを思いながらも、そういってもらえて、とてもうれしかったのです。
ひまわりちゃんは、もう覚えていないかもしれませんが。
ひまわりちゃんは、その後、結婚して、現在もバリバリ働いています。
コロナが流行しはじめてからは、会うことも滅多になくなりましたが、いまでもときどき連絡を取り合っては近況報告などをしております。わたしがしょっちゅう寝込むので、そのたびに玄関先に大量の差し入れを届けてくれたりします。ありがたい限りです。
こどものころからずっと、助けてもらうばかりで、わたしがひまわりちゃんのためになにか役に立てたことはほとんどないのが心苦しいのですが、それでもひまわりちゃんは愛想を尽かすことなく、いまでも仲良くしてくれています。
わたしはいま、ひまわりちゃんが紹介してくれた美容師さんのお世話になっていて、二ヶ月に一度くらいの割合でその美容室に通っているので、行くたびに、ひまわりちゃんの話題が出ます。同様に、わたしの近況はすべて、ひまわりちゃん経由で美容師さんに共有されています。
先日、冷蔵庫を買い替えたことも、すでに筒抜けでした。
わたしは結婚願望というものがまるでないので、おそらくこの先も独り身を貫くと思いますが、気持ちのうえでは、一度ひまわりちゃんと結婚したかのような心持ちがしています。
ヤバいやつやん、と思われそうですね(汗)。
わたしにとって、ひまわりの花は、大好きな幼馴染みの記憶が刻み込まれた、とくべつな花なのです。
わたしがいままで、自分を不幸だと思わないでのんきに生きてこられたのは、彼女のおかげかもしれません。
恋ではないけれど、恋よりも深いような。
この感情をなんと呼ぶのか、その名前をわたしは知りません。