第14話 青い鳥のゆくえ
文字数 2,083文字
自分探しの旅にでる、ということばをときどき耳に(目に)します。
知らない場所に旅にでて、その先で見るもの、触れるもの、そして出会うひと、そういったものを通して、あらためて自分を見つめなおす。
そういう意味での「自分探し」なのだろうなと解釈しております。
たしかに、旅先ではかならずなんらかの新たな発見がありますし、刺激を受けます。
この、刺激。
これこそが「自分探し」に必要不可欠な条件なのだと思います。
外界 からの刺激を受けて、自分のなかに、これまで知らなかった一面が表れる。はじめて知る世界、はじめて知る感情。そうして新たな自分を知る。
旅にでて見聞 を広げるのはとてもよいことだと思います。知らないことを知るのは単純に楽しいですし、いつもと違う景色を眺めるだけでも楽しい。
では、日常の暮らしのなかで「自分探し」が難しいかというと、決してそんなことはありません。
いつもと同じあたりまえの風景、代わり映えのしない毎日。
ほんとうにそうでしょうか?
もし、自分の目に見えているものが世のなかのすべてではない、といわれたら、どのように思われるでしょうか。スピリチュアルな意味合いではなく、文字どおり、
簡単にいうと、目のまえに存在しているのに、いまの自分にはそれが見えない、認識できないということです。
たとえば、鍵を探していて、鞄 のなかにもない、どこに置いたっけ? と焦ることがあります。部屋じゅうをひととおり探して、もとの場所へ戻ってくると、なんと、そこに鍵があるではありませんか。自分がいないあいだにだれかがそこに置いたわけではなく、それははじめからその場所に存在していたのです。それなのに、自分の目にはそれが映っていなかった。
そういう状況を経験したことはありませんか。
わたしはあります。
妖精がいたずらをして隠していたんじゃないの、という意見もあるかもしれませんが、いまはその可能性を省 きます。
余談ですが、妖精というのはいたずら好きで恐ろしいもの、というイメージがあります。わたしがこどものころに、妖精は人間の周囲のものを隠すのが好きで、しかしその妖精の姿を見てしまうと命を奪われる、というお話を読んだせいでしょうか。チェンジリング、取り替え子、ということばもあります。これは妖精が人間のこどもを連れ去り、その代わりにそっくりなべつのこどもを置いてゆく(もちろん人間のこどもではない)という現象をいいます。
そういうイメージが強いせいか、妖精ということばを聞くと、物語に出てくるような愛らしい小さないきもの、ではなく、なにやら得体 の知れない未知の存在、を想像してしまいます。
閑話休題。
話をもとに戻しましょう。
目のまえにあるのにそれが見えていなかった、ということは案外あることです。あまり難しいことはわたしにはわかりませんが、人間の目や脳は、わたしたちが思っているほど精確ではない、ということでしょうか。脳の錯覚 というのか。
同じものを見ていても、ひとそれぞれに見えているものは違う、というのはよく聞く話です。
人間は自分が見たいものだけを見て、自分が信じたいことだけを信じる。
ところが、ある日とつぜん、いままで見えなかったものがふいに見えてくることがあります。まさしく目から鱗が落ちるということばのように。
これは、周りに変化が起きたのではなく、多くの場合、自分の側になにかしらの変化があった、ということです。たとえば、だれかとの会話のなかで、ふと、
外界からの刺激を受けて、はじめての世界を知る。
新たな世界、新たな自分との出会いです。
化学反応のようなものでしょうか。
いつもと同じあたりまえの風景、代わり映えのしない毎日。
ほんとうにそうでしょうか?
いまわたしの目に見えているものが世界のすべてではない。
真理はつねに目のまえにある。
いまの自分にそれが見えるか見えないか、ただそれだけ。
『青い鳥』という物語をご存じでしょうか。
チルチルとミチルという兄妹が「しあわせの青い鳥」を探すため、夢のなかや過去、未来へと旅をする物語です。
最終的に、青い鳥はふたりの家の鳥籠のなかにいた、という結末を迎えるのですが、この青い鳥というのはもちろん隠喩 であり、すぐそばにあるのに気づかない幸福または希望を表すといいます。
灯台もと暗し、というわけですが、だからといって、このチルチルとミチルの旅路が無駄なものであったかというと、決してそんなことはないと思うのです。そこに至るまでに必要な過程であったと思います。
「自分探し」の旅も、あるひとにとっては、それが必要な道のりなのだと思います。
真理へたどり着くためのアクセスの仕方はひとそれぞれ違います。どれが正解というものではなく、もちろん優劣などもありません。早ければよいというものでもなく、ショートカットキーも必要ありません。
探し求めること。自らに問うこと。ただそれだけです。
知らない場所に旅にでて、その先で見るもの、触れるもの、そして出会うひと、そういったものを通して、あらためて自分を見つめなおす。
そういう意味での「自分探し」なのだろうなと解釈しております。
たしかに、旅先ではかならずなんらかの新たな発見がありますし、刺激を受けます。
この、刺激。
これこそが「自分探し」に必要不可欠な条件なのだと思います。
旅にでて
では、日常の暮らしのなかで「自分探し」が難しいかというと、決してそんなことはありません。
いつもと同じあたりまえの風景、代わり映えのしない毎日。
ほんとうにそうでしょうか?
もし、自分の目に見えているものが世のなかのすべてではない、といわれたら、どのように思われるでしょうか。スピリチュアルな意味合いではなく、文字どおり、
自分の目に見えているもの
がすべてではない、という意味です。簡単にいうと、目のまえに存在しているのに、いまの自分にはそれが見えない、認識できないということです。
たとえば、鍵を探していて、
そういう状況を経験したことはありませんか。
わたしはあります。
妖精がいたずらをして隠していたんじゃないの、という意見もあるかもしれませんが、いまはその可能性を
余談ですが、妖精というのはいたずら好きで恐ろしいもの、というイメージがあります。わたしがこどものころに、妖精は人間の周囲のものを隠すのが好きで、しかしその妖精の姿を見てしまうと命を奪われる、というお話を読んだせいでしょうか。チェンジリング、取り替え子、ということばもあります。これは妖精が人間のこどもを連れ去り、その代わりにそっくりなべつのこどもを置いてゆく(もちろん人間のこどもではない)という現象をいいます。
そういうイメージが強いせいか、妖精ということばを聞くと、物語に出てくるような愛らしい小さないきもの、ではなく、なにやら
閑話休題。
話をもとに戻しましょう。
目のまえにあるのにそれが見えていなかった、ということは案外あることです。あまり難しいことはわたしにはわかりませんが、人間の目や脳は、わたしたちが思っているほど精確ではない、ということでしょうか。脳の
同じものを見ていても、ひとそれぞれに見えているものは違う、というのはよく聞く話です。
人間は自分が見たいものだけを見て、自分が信じたいことだけを信じる。
見えないものは存在しないもの
となります。ところが、ある日とつぜん、いままで見えなかったものがふいに見えてくることがあります。まさしく目から鱗が落ちるということばのように。
これは、周りに変化が起きたのではなく、多くの場合、自分の側になにかしらの変化があった、ということです。たとえば、だれかとの会話のなかで、ふと、
それ
に気づく。外界からの刺激を受けて、はじめての世界を知る。
新たな世界、新たな自分との出会いです。
化学反応のようなものでしょうか。
いつもと同じあたりまえの風景、代わり映えのしない毎日。
ほんとうにそうでしょうか?
いまわたしの目に見えているものが世界のすべてではない。
真理はつねに目のまえにある。
いまの自分にそれが見えるか見えないか、ただそれだけ。
『青い鳥』という物語をご存じでしょうか。
チルチルとミチルという兄妹が「しあわせの青い鳥」を探すため、夢のなかや過去、未来へと旅をする物語です。
最終的に、青い鳥はふたりの家の鳥籠のなかにいた、という結末を迎えるのですが、この青い鳥というのはもちろん
灯台もと暗し、というわけですが、だからといって、このチルチルとミチルの旅路が無駄なものであったかというと、決してそんなことはないと思うのです。そこに至るまでに必要な過程であったと思います。
「自分探し」の旅も、あるひとにとっては、それが必要な道のりなのだと思います。
真理へたどり着くためのアクセスの仕方はひとそれぞれ違います。どれが正解というものではなく、もちろん優劣などもありません。早ければよいというものでもなく、ショートカットキーも必要ありません。
探し求めること。自らに問うこと。ただそれだけです。