4-12 面影

文字数 5,909文字

「そうだ。リュイーシャの事で他に聞きたい事はないか? あの男は君に彼女のことを一切話さなかった。私が知っていることも限りがあるが、またとない機会だぞ?」

 眼鏡の奥で紫水晶のような光をたたえる目を細め、ツヴァイスがくすりと微笑する。一瞬迷ったシャインは、その場に立ちつくしてツヴァイスの背中を見送った。

 ツヴァイスが艦長室の扉を開けて、誰かと一言二言言葉を交わす。二分とたたないうちに、彼は再び扉を閉めて、シャインの顔色をうかがうように視線を向けた。

「やはり少し動揺しているのだな。無理もないと思うが。何、また淹れたてのシルヴァンティーを飲めば、落ち着いて考える事ができるだろう」

 ツヴァイスにうながされて、シャインは再び応接椅子に腰を下ろした。

「確かに……閣下のおっしゃる通りかもしれません。お話は理解できましたが、実は、まるで自分の事ではないように感じるのです……」

 シャインは両手で顔をなぞるように前髪をかき上げた。ぱらぱらと淡い金糸が指の間に流れ落ちていく。その一房を右手にからめ、つと放す。

「何故そんな風に思う?」

 ツヴァイスの問いに、シャインはきまり悪そうに目を伏せた。

「俺は母の事を全く知りません。顔すらも。どんな口調で話して、どんな表情をしていたのか。お話して下さった範囲で考えても、それは俺が抱いた想像であって本物ではない。母の人物像がぼやけているせいか、余計に実感が湧かないのです。ですから……」

 いら立ちに似た感情を噛み潰し、シャインは肩をすくめた。

「母の事を教えて頂いても、そうなのかと思う事しかできません。それが、たまらなく虚しいのです。申し訳ありません、ツヴァイス司令。折角ご好意でお話下さるというのに……」

 ツヴァイスはシャインの左隣に立ったまま、じっと言葉に耳をかたむけていた。

「なるほどな。見た事のない人間を想像するのは、実に難しいことだ。自分の想像通りであるという保証も全くない」

 ツヴァイスは腕を組んで、室内をゆっくりと歩き出した。ウインガード号が船体に横波を受けて、大きく左右に揺れるが、ツヴァイスはふらつくことなく部屋の隅まで足を運ぶと、再びシャインの座っている椅子まで戻った。

「リュイーシャの絵姿は私も持っていなくてね。アドビスが持っているのは知っているのだが。けれどあることを思いついた。根本的にまったく違うとは言い切れないから、少し付き合ってくれ」

「……ツヴァイス司令?」

 ツヴァイスは身ぶりで、シャインにそのままでいるよう指示した。自分は右手にある執務机に向かい、身を屈ませると一番下の大きな引き出しを開けて、何かを探しだす。木の箱同士が擦れ合うような、硬い音が聞こえてきたかと思うと、ツヴァイスは右手に長方形の本のような物を取り出していた。

 色褪せた緑色のそれは箱で、ツヴァイスがそっと蓋を開ける。薄い金属の板が見えて、それをシャインへ差し出した。

「持ってくれ」
「あ、はい……」

 ツヴァイスから手渡されたそれは、長方形の顔見用の鏡だった。縁飾りは絡み付く蔦のような植物の細工がされていて、金と銀の葉が美しい。

 シャインは言われた通りに鏡を持ってツヴァイスへ向けた。するとツヴァイスは、一瞬あっけにとられた表情を浮かべ、そして、可笑しそうに口元へ右手を添えながら、空いた左手を軽く振った。

「違う、私じゃない。君の顔を映すんだ」

 シャインは息を飲んでまばたきした。仕方なく鏡の面を自分へ向け直す。そこにはやや青ざめた、生気のない顔が映っているだけだ。

 ここ数日忙しく働いていたので、目元は落ち窪んで黒ずんでいるし、ぽつぽつと赤い吹き出物が口の右下の方へできているのが見える。シャインはげんなりして鏡から目を背けた。

「ちゃんと鏡を見るのだ、シャイン」

 とがめるような口調で、傍らに立っていたツヴァイスが、シャインの座っている応接椅子の背後に回ったかと思うと、白いシャツの腕を伸ばして鏡を掴んだ。再びシャインの顔が鏡の面に映し出される。

「君は本当に……二十才の頃のリュイーシャと似ているんだよ」
「……えっ?」

 ため息混じりにそうつぶやくツヴァイスの言葉を聞いて、鏡の中のシャインの顔が意表を突かれて強ばった。驚きのあまり、鏡から手を放しかけたそれをツヴァイスが間一髪の所で素早く支える。

「君が女だったら、きっとリュイーシャにそっくりだろうな。さあ、よく見たまえ。ゆるやかな顎のラインは一見温和そうな印象を与えつつ、すっきりとした鼻筋と小さめの口元が上品で、まったく彼女そのものだ。瞳の色も同じ青緑だが、君の目の方が鋭くてきつい。ここはアドビスから譲り受けたのだろう。そこが唯一の不満だが。……それに、ちょっと失礼」

 シャインは、鏡から放したツヴァイスの手が、首の後ろで編まれた三つ編みに触れるのを感じた。束ねている緑の細いリボンを解く、鋭い小さな音が聞こえたかと思うと、首筋にほどけた髪がまとわりつくように流れ落ちた。

 肩を覆う程度のその髪を、ツヴァイスがそっと手ぐしで整える。鏡の面に、満足げに薄く微笑する彼の顔がシャインの頭越しに映った。

「ほほう。長さも大体一緒じゃないか。どうかね?」

 『どうかね?』と聞かれても。ツヴァイスの言いたい事は理解した。
 シャインは三つ編みを解いた自分の顔を、しばらくじっと眺めてみた。そこに母親の面影を見い出してみようと努力してみた。だが、鏡に映っているそれは、いつも見慣れた自分の顔――。

 落ち窪んだ目だけが妙に光っていて、自分で言うのも何だが、早く休んだ方がいいと思うほど青ざめている。シャインは先程よりも一層げんなりして、鏡を見る事に耐えられなくなりうつむいた。

 背後でツヴァイスが小さく嘆息するのが聞こえる。彼は親切心で言ってくれたのだろうが、こればっかりはどうしようもない。


 と、艦長室の扉をノックする音がした。ツヴァイスがシャインの肩を軽く叩いて戸口へ向かう。

「ああレイフ、待ってたぞ」
「遅くなってしまい、申し訳ありません。ツヴァイス様」

 扉が開いた途端、部屋の中に再びシルヴァン・ティーの甘酸っぱい香りが広がってきた。シャインはその匂いを吸い込むだけで、肩から力が抜けるような、くつろいだ気分になるのを覚えた。

 給仕係から受け取った新しい茶を入れたティーポットを持ち、ツヴァイスが執務机まで戻って来る。

「……まあ、いくら似ていると言ってみても、これは君の顔だからピンと来なくても仕方ないな」

 隣に立ったツヴァイスが空いた左手を差し出したので、シャインは鏡を返した。
 ツヴァイスは鏡を無造作に執務机の上に置き、そして、新しいティーポットからカップへ黄金色の茶を並々と注ぐ。

「……そんなに、似ているんですか?」

 ツヴァイスの気分を害しただろうか。黙って目の前に差し出されたカップを受け取って、シャインはおずおずとつぶやいた。

「君は男だから完璧にそうではない。もっと広い範囲のイメージで捉えるのだ。立ち居振る舞い、ふと見せる顔の表情、物憂気な雰囲気……。彼女を知る者は皆、君の中に、在りし日の彼女の姿を見い出すだろう。正直、私は辛いがね」

 ツヴァイスが身ぶりで紅茶を飲むように勧める。
 冷めてしまっては、折角の香りと味が落ちてしまうからだ。

「何故です?」

 シャインはツヴァイスに尋ね、シルヴァンティーを口に含んだ。先程より、ずっと濃厚な香りと味が一気に押し寄せ、嗅覚と味覚を刺激する。思ってもみなかった渋みに、シャインはむせそうになった。

 きっと給仕係が蒸らしすぎたのだ。まろやかさが消えて、とげとげしい後味だけが口の中に残っている。シャインはしかめっ面をなるべく顔に出さないよう努力した。今はツヴァイスの客としてここにいるので、彼のもてなしにケチをつける真似はできない。

 シャインのそんな様子に気付く事なく、ツヴァイスは執務椅子に腰を下ろして頬杖をついていた。自分のカップにはまだ口をつけていない。

「……何故、といったかね?」
「はい」

 シャインは小さく咳をして答えた。
 飲んだシルヴァンティーのえぐい渋みが喉に絡み付いてせき込みそうになる。
 ツヴァイスの視線は天井の板へ向けられていた。
 ほっそりした顎がゆっくりと動き、低い旋律を奏でる声が流れた。

「君を見る度に、思い出してしまうのだ。彼女を死なせる為に連れて来たのは、私だということを。忘れることは許されない……私の罪を」

 そう噛み締めるようにつぶやいた後、ツヴァイスは口をつぐんでしまった。
 なんと声をかければ良いのだろう。
 気の利いた言葉を思い付けず、シャインは視線をティーカップへと落とした。

 ゆらゆらと揺れる黄金色の茶を見ながら、自分の体も一緒に揺れているような気がする。蒸らし過ぎたとはいえ、シルヴァンティーのもたらす精神安定の効き目は充分で、高ぶった感情が静かに引いていくのを感じる。
 再び自分の物思いに浸ったシャインの脳裏に、ふとツヴァイスの言葉が蘇った。


『彼女を知る者は皆、君の中に、在りし日の彼女の姿を見い出すだろう』

 彼女の姿を見い出すだろう……。
 シャインは我に返って目を見開いた。

『君を見る度に思い出してしまうのだ』

 そのまま思わず息を詰める。
 こんなところに、今まで求めていた答えがあったなんて――。

 温かい紅茶のカップを再び口に運び、そして再びその濃厚な味に小さく咳き込みながら、シャインは全身が震えるような衝撃を感じた。

 アドビスとの間に感じていた冷たい空気と疎外感。
 始めは母親の事を聞かれるのを、あの男が嫌がっているせいだと思っていた。

 そして自らのせいで彼女を死に追いやった事を告白してから、アドビスは一層自分を避けるようになった。距離を置くようになった。現在に至っては、海軍で直接シャインに用件がある時以外、一切会おうとしなくなった。

 何故アドビスが自分を拒むのか。
 それをアドビスの前で尋ねると、本当に自分の存在を否定されそうで、怖くてどうしてもできなかった。

 しかし、その答えが突如現れた。
 アドビスがシャインを避けるその理由。それはひょっとしたら、亡き母親の印象を、自分が色濃く受け継いでしまったせいではないだろうか。

 ツヴァイスが余裕をなくすほど、今の自分は母リュイーシャに似ているのなら、アドビスも否応なくそれを感じているはずだ。

 紅茶が入ったカップを右手に持ったまま、シャインはうつむいて低く笑い出した。可笑しくて笑うのではない。笑わないとどうにかなりそうだった。
 乾いた心にいくつもひびが入り、ぼろぼろと崩れ落ちていくのが止められない。

 アドビスに避けられる理由がそうならば――。
 アドビスは自分を拒絶し続ける。
 自分の中にリュイーシャの姿を見続ける限り、ずっと。


 シャインはうつむいたまま、空いた左手で右腕をぐっと握りしめた。
 アドビスの気持ちは理解できなくもない。
 もしもあの夜の事を悔いているのならなおさらだ。けれども……。

 いっそのこと、心からアドビスの事を憎めれば楽になれると思った。
 それができるのなら。

 シャインは乾いた笑いを続けた。
 できるわけがない。
 かつてあの男が見せた優しさの片鱗を、自分は忘れる事ができないのだから。
 差し出したその手を、握ってくれた父親の手を覚えているから。
 そして再びそうなることを、心の何処かで望んでいる自分を知っているから。



「シャイン、大丈夫かね?」

 ツヴァイスが口元を小さくゆがめながら、シャインの顔をのぞき込んでいた。
 度の入っていないレンズの奥で、紫の瞳がいぶかしげに光っている。

「申し訳……ありません、閣下。俺は……」

 不意に笑い出した無礼を詫びないといけない。シャインはそう考えながら、けれども口は自分の意志に反して動こうとせず、喉は凍り付いたように声が出ないことに焦りを感じた。ただ、先程飲んだシルヴァンティーの、濃い渋みだけが口の中に広がったままで……。

 まだその中身が残っているカップが、片手で支えられないくらい急に重く感じる。
 シャインはこのままだと手を放してしまうかも知れないと考えた。
 頭の片隅で。
 その時すでに、突如襲ってきた強烈な睡魔が、両のまぶたを閉ざしたことに気付くことなく。

 右手に持ったカップは支えを失い、床に向かって静かに落ちた。


 ◇


 ツヴァイスは足を軽く組み、しなやかな両手の先を突き合わせたまま、執務椅子に座っていた。

 斜め左前の応接椅子に座るシャインは、右手をだらりと投げ出し、左腕を肘当てに乗せて目を閉じていた。椅子に背中を預け、左肩によりかかるように頭がうなだれ、青白い頬に淡い光沢を放つ長い金髪が、いく筋もかかっている。

「……抜け目ない君がどうして……」

 僅かばかりの驚嘆を込めて、ツヴァイスは眠るシャインへつぶやいた。

「シルヴァンティーの苦さに気付かなかったわけではあるまい? 君ともあろう者が、リュイーシャの話のせいで、私の事をすっかり信じてしまったのかね?」

 ツヴァイスは足を解き、肘当てに両手をついて立ち上がった。
 シャインに近付き、その彫像のように冷たい頬へ手を伸ばす。うつむいた顔を隠す柔らかな金髪を静かに払い、露わになった面をどこか彼方を見る眼差しで眺める。

「こうしたくなかったから、君には海軍から離れて欲しかったのに……」

 もう遅いか。

 口の中で苦い笑いを噛み潰し、ツヴァイスは身をかがめてシャインの右手をそっと掴んだ。ランプの光に鋭く青い光がきらめく。

 一瞬目を射るように光る、青味を帯びた飾り気のない銀の指輪が、その人差し指にはまっているのを認め、ツヴァイスは眼鏡の奥の瞳を細めた。

 シャインの手をとったまま、彼の母親リュイ-シャの形見であるそれをつまみ、静かに引き抜く。ワインカラーのベストのポケットに指輪をしまい込んだ時、重々しく扉を叩く音が聞こえた。

「……ウェルツか?」

 ツヴァイスはかがめていた背筋を伸ばし、扉の方へ顔を向けた。

「はい」

 軽くため息をついて、ツヴァイスは艦長室の扉を開けた。海兵隊の守衛はいない。ウェルツが一時口実をつけて追い払ったのだろう。
 その場には、実の甥であるウインガ-ド号艦長、ウェルツが黒いマントで海軍の軍服を隠し立っていた。

「首尾は? 叔父上」

 ウェルツの問いにツヴァイスはうなずいて返事をした。

「予定通りだ。そっちはどうだ?」
「はい。あと三十分ほどで、ヴィズルとの合流場所に着きます」
「わかった。手はず通りに頼むぞ」

 口元を引き締めツヴァイスは、満足げに笑みを漏らした。
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