4-9 碧海の乙女

文字数 5,032文字

 アスラトルを出港してから三時間あまりがすぎた。船尾にある艦長室の大窓に、時折大きな波がぶつかるのを見たシャインは、比較的穏やかなエルシーア大陸沿岸のこの海域が、いつになく荒れているのかといぶかしんだ。

「どこから話すべきだろうね。ま、時の流れを追うのが順当だろうな」

 肘掛けのついた黒檀の執務椅子に深々と身を沈め、頬杖をついたツヴァイスは、顔をややうつむきがちにしたまま、ゆっくりと口を開いた。



   ◇◇◇


 今から二十二年前。十九才だった私は、ちょうど今の君のように、後方支援に属するスクーナー船で士官候補生として乗っていた。

 アドビスは二十四才で、アスラトル周辺海域を監視する警備船の艦長でね、奴はやっきになって海賊を取り締まっていたのさ。

 今は海賊といっても、月に三、四隻見かける程度だが、昔はエルシーアから出る貴金属や鉱石を狙う船が五十隻以上いてね、それなりに忙しい日々を送っていたわけだ。

 この頃私はアドビスと面識がまったくなかったから、奴とリュイーシャがどんな風にして出会ったのか詳しくは知らない。

 ただ、リュイーシャとその妹リオーネは、エルシーア人ではなく、南方のリュニスの属国の一つである、とある島の出身だそうだ。ま、詳しいことはリオーネに聞きたまえ。それぐらいは教えてくれるだろう。

 私が知っているのは、リュイーシャ達が乗っていた客船が海賊に襲われて、そこに居合わせたアドビスが助けたということだ。

 リュイーシャはその恩に報いるため、風を操る術者であることを、アドビスに明かしたのだろうな。推測だがね。

 こうして彼女はエルシーア海軍付きの術者、“海原の(つかさ)”としてアドビスの船に乗り、時には望む方角への風を吹かせたり、危険な嵐に遭遇した時、その力を大幅に弱めたりしていたそうだよ。


 それから一年後、任官試験に受かって少尉になった私は、アドビスの船に配属が決まった。二十才の時だ。

 奴の船に乗り込んでから一週間がすぎた頃、エルシーア海軍創立記念日を祝う式典パーティーがアスラトルの本部であってね、その会場で私は初めてリュイーシャと出会った。

 彼女のことはその場にいた士官達はみんな、噂程度に知っていただろうね。
 『エルシーアの碧海の乙女』などと、陳腐な呼称で彼女のことを話していたから。

 濃紺の正装姿の士官達(そりゃ私よりずっと階級は上の連中だがね)は、口々に声をひそめて言っていた。

 要約すれば、なぜ統括将は一介の警備艦でしかないアドビスの船に、術者であるリュイーシャを乗せ続けている事を許しているのかと。彼女の風を操る能力は、アスラトルの近海より、外洋艦隊に配備するほうが有効だろうとか言っていた。

 私もその時はまったく同感だと思った。だがその疑念はすぐに晴れた。
 アドビスとリュイーシャはすでに婚約していたからだ。だから、彼女はアドビスの船に乗り続けられたんだ。

 そしてこのパーティーに出た真の目的は、そのお披露目の為だったのさ。
 アドビスの父親(君の祖父)である、アスラトル軍港司令官の顔を立てる為、二人は将官達や王都の高官、地元の貴族や商船の船主達に、息付くひまもなく囲まれていたよ。

 私は会場の末席で豪勢な料理を食べながら、右手にシシリー酒の入ったグラスを持ち、その様子を漠然と眺めていた。

 あの頃のアドビスは今みたいに粗野ではなかった。決して社交的ではなかったが、将官達に怖じ気付くことなく堂々としていたし、実に礼儀正しい態度であったから、むしろ一抹の羨望を覚えたね。

 アドビスの背がメインマストみたいにやたら高いものだから、その隣にいるリュイーシャが、心細くなるほど小柄に感じられた。

 確か、私より一つ年下だったから彼女は十九才だったと思う。淡い金髪の前髪を両側に垂らし、残りは後ろでアップにまとめていた。飾り気のない白に近いラベンダー色のすっきりとした形のドレスのせいで、余計細く見えたのを覚えている。

 私はすっかり惹き付けられて、シシリー酒のグラスを手にしたまま、もっと彼女をよく見ようと士官達の間を擦り抜けて、前のテーブルの方へ移動した。

 アドビスは何人か古株の将官達に取り囲まれて、少し長い話をしていて、リュイーシャはその側で一人きりだった。やはり知らない人間との挨拶に疲れたのか、口元には小さく笑みをたたえていたが、エルシーアの海のような青緑の瞳は力なく伏せられていた。

 声をかけるには絶好のチャンスだ。だが、近くで料理をつまんでいる士官達が、ちらちらと彼女を見ている事に私は気付いた。みんな、同じ事を考えていたというわけだよ。しかし、実行する勇気がなかったのさ。

 統括将、参謀司令官、その次に偉い、アスラトル軍港司令官を父親に持つアドビスの、未来の花嫁を口説けば、その人間は海軍での人生が確実に終わるからね。

 私も尉官になったばかりだから、やはりチャンスだと思っても躊躇してしまった。ただ、周りにいる連中より私はついていると思う事に決めたんだ。アドビスの船に私は乗っているから、今後リュイーシャと話す機会は、山ほどあるはずだとね。

 手を伸ばせばすぐに届くテーブルまで近付いておきながら、私はグラスの酒を次々と干した。悔しくてね。その場にあるものはすっかり飲みつくした私の左手から、シャンパンを注いだグラスを持った給仕係がやってきた。

「おい、それをくれないか」

 と、声をかけようとした時、あきらかに足元をふらつかせた爺さん(確か、大尉だったか?)が、その給仕係の方へ大きくよろめいてぶつかりそうになるのが見えた。

 予想は違わず爺さんは給仕係にぶつかり、その勢いで、ひ弱な給仕係は酒で満たしたグラスを乗せた盆を持ったまま、なんとリュイーシャの目前めがけて後ろに倒れてきた。

 場内にグラスの砕け散る音が響き渡り、私はシャンパンを頭から滴らせながら、馬鹿な給仕係と一緒に大理石の床へ倒れた。

 間一髪、間に合った安堵感と、倒れた時に後頭部をしたたかに打ってしまったせいで一瞬意識が遠のいた。

「大丈夫ですか!」

 白い霞みがかかる視界から、息を飲むほど澄んだ碧海の瞳が私を見つめていて……それがリュイーシャだということがすぐにわかった。
 私はその後しばし昏倒してしまってね。会場のホールの隣にある控え室の長椅子に寝かされていた。



「気付かれました? 軍医の方に診て頂いたところ、グラスの破片で額を少し切ってしまった他に、お怪我はないそうです」

 リュイーシャが私の傍らに付き添い、白いハンカチでそっと額を拭ってくれていた。まさか彼女がそばにいるなんて。私は夢でも見ているかと思ったよ。

 私に声をかけた彼女は淡々とした口調だったが、顔はすっかり青ざめて唇も色がなく、見ている私の方が心苦しくなった。

「ありがとうございます。もう……大丈夫ですから」

 彼女を安心させるために私は微笑んだ。不様に床にひっくり返って醜態をさらしたことを思い出して、本当に恥ずかしかったね。

 長椅子から身を起こした私を見て、リュイーシャは安堵したかのように、その白い顔に赤味がさしてきた。

「いえ、私の方こそ助けて頂いて、ありがとうございました。あの、何か欲しいものとかありませんか? 私があなたにしてあげられる事があれば……」

 この控え室は客の手荷物を一時預けるための小部屋で扉がなく、通路から丸見えであるが、私達は二人きりだった。

「貴女のお手をこれ以上煩わせば、私の上官であるグラヴェール艦長がきっとお怒りになるでしょう」

 私がそう答えると、リュイーシャは目を細めて小さく微笑した。楚々とした、エルシャンローズの蕾みが花開くような、艶やかなその笑みに、アドビスが怒鳴ってこようが、そんな事どうでもいいとまで思ったな。

 よくよく彼女を見れば、髪にさした数輪の白い百合の花と、右手に光る銀の指輪以外に宝石類は身につけていない。だから、他の着飾ったあつくるしい貴族達と違い、本来彼女が持っている気品が生かされているのだと感じた。

「礼儀を重んじられる方でうれしいわ。あなたのお名前は? アドビス様の部下でいらっしゃるなら、これから私もお世話になりますね。私は……」

「存じ上げております。この会場で貴女を知らぬ者はいませんよ。海原の司・リュイーシャ様。私はツヴァイスと申します。先週グラヴェール艦長の船に配属されたばかりですが、どうぞよろしくお願いいたします」

 改めて挨拶を交わした私達は、しばしこの控え室で雑談に興じた。私の介抱をしたいと言ったリュイーシャの願いを、アドビスがきいてくれたのだと言う。
 どうやらアドビスも、彼女が少し疲れている事を気にしていたのだろう。

 それに、名前も知らない士官の誰かに、彼女を言い寄らせたくなかったんだろうね。私はアドビスの部下だから、いざとなれば奴の一存でどうにでもなる。

 リュイーシャは実に聡明で愛らしい女性だった。
 好きだったのかと問われれば、私はそれを否定しない。今でもね。

 だがいろいろ話を聞くうちに、リュイーシャがどんなにアドビスを愛しているのかという事を思い知った。だから、私は自分の想いを決して彼女に告げなかった。その碧海の瞳を曇らせるまねだけは、絶対にしたくなかったからね。


   ◇◇◇


「母はあの人を愛していたのかもしれない。けれど……あの人は、母の風を操る力を、海軍で利用することしか、考えていなかったのではないのですか?」

 今と違う昔のアドビスの姿を、シャインには想像することができなかった。白いティーカップを両手でくるんだまま、ゆっくりとツヴァイスの方へ顔を向ける。
 ツヴァイスは、少しカップのお茶が冷めた事に、顔をしかめつつそれを飲み下す。

「リュイーシャは優れた術者だった。リオーネは彼女の死後に術者になったから、実力を比べる事はできないが……。ま、確かにアドビスは海軍での利用を考えていたな。あの男の胸の内は、私にはまったく理解しがたいが……」

 カップを執務机の上に置き、ツヴァイスは困ったように眉間を寄せた。ほおづえをついていた右手を額に添え、うつむいたまま小さく鼻で笑った。

「安心したまえ、シャイン。あの男はリュイーシャを愛していた。愛していたからこそ、私を責めた。私があの時……彼女を連れてきたから……」

 ツヴァイスは視線を床に落としたまま、シャインと目を合わせようとしなかった。
 少しの沈黙の後。ツヴァイスはようやく顔を上げて、頭を振った。

「すまない。話を続けようか。アドビスとリュイーシャは、その年の内に結婚した。<西区>のグラヴェール屋敷……君の実家だが、エルシャンローズの庭園があるだろう。花々に囲まれて、あそこで身内と親しい人間だけで、こじんまりとした式を挙げた。その翌年には君が生まれて、リュイーシャは本当に幸せそうだった。だがこの頃アドビスは、以前から親しかったエルシーア海賊のひとり、月影のスカーヴィズの所へ頻繁に通っていた」

「……」

 シャインは思わず身を強ばらせた。シャインの感情を看破するように、ツヴァイスが低く笑う。

「そうだ。アドビスは結婚後もスカーヴィズと通じていた。最もこちらは、奴が海軍内での成績を上げるため、彼女を利用していたにすぎないがね。当時、アドビスのように海賊を手なずけて、情報を引き出すやり方は効率が良く、海軍の常套手段だったのだよ。海賊達も、エルシーア海での覇権を握るため、いかにして同業者を出し抜くか、しのぎを削っていた時代だった。
 アドビスは、一ヶ月、ないし二、三ヶ月おきに、スカーヴィズの船へ一人で出かけていった。でも、私も今の君のようにいい気はしなかったね。いや、許せなかった。理由はなんであれ、アドビスの行為はリュイーシャに対する大きな裏切りだ。生まれたばかりの君がいるため、一緒に船に乗る事ができず、アドビスの身を案じてアスラトルで待っているリュイーシャの事を思うと、まったくやりきれなかった。アドビスをスカーヴィズの船へ送っていくのは、副長になった私の役目だったからな……」

 噛みしめた歯の隙間から漏れ出るツヴァイスの声に、シャインはその怒りの深さを感じ取った。

 どんなに上っ面が良くても人間の本質というものは、根本的に変わらないものだと思っている。むしろそれが立証されて安堵すら感じる。

 アドビスは目的を達成するためなら、なんだってやる人間なのだ。
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