(8)借金の行方
文字数 3,730文字
「わかっている……」
もぞもぞと体を動かして、ようやくグラヴェール船長が上半身を起こす。
「でもマダムに船と積荷を押さえられてるんだ。借金を返済するまで俺はここを出られない。そりゃ積荷を納品すれば、運賃の500万リュールが入ってくるけど、半分はヴィズルのものだし――」
「500万リュールだって!? 坊や、何で今まであたしにそれを言わなかったのかい」
マダム・ポンパディエがヒステリックに叫んだ。
「当然だろ。半分の250万リュールはヴィズルの取り分だ。だから、俺があなたに渡せるのは、
バン!!
そのとき、大きな音を立てて、部屋の扉が開いた。
私達は驚いてそちらへと視線を向けた。
「くっそーー。やぁっと、見つけたぜーーー! シャイン!!」
開いた扉の前には、肩で大きく息をしながら長い黒髪を振り乱し、ぎらぎらとした目で私達を見据えるヴィズルが立っていた。
「お前こんな所で何油売ってんだよ! 早くロワールハイネス号の所へ戻って、荷を納品しにいくぜ」
ヴィズルはずかずかと部屋の中に入り込み、グラヴェール船長に向かって手を伸ばした。
バチン!
彼の右手を掴もうとするところで、ヴィズルの手の甲をマダム・ポンパディエの煙管が容赦なく叩く。
「誰かと思えば……ヴィズルじゃないか」
ヴィズルは叩かれた手の甲をさすり、キッとマダム・ポンパディエのふてぶてしい顔を見つめた。
「よう、マダム。
マダム・ポンパディエはからからと笑い声をあげた。
「この子は返さないよ。船も積荷も。あたしの借金700万リュールを返済しない限りね」
「……はぁ?」
どうやらヴィズルも、グラヴェール船長の借金の事は知らなかったらしい。
彼はしばし呆然としながら、黙って長椅子に座っているグラヴェール船長を見つめている。
「そうか……それでマダムは、シャインの船を襲ったって訳か」
「ヴィズル。あんたがあたしらの頭だったころ。あたしはそうやって上納金の取り立てをやってきたんだよ。狙った獲物は絶対に逃さない」
マダム・ポンパディエはグラヴェール船長の前に立つと、煙管を再びその顔の前に突き付けた。刻みタバコの強い臭いのせいか、グラヴェール船長が顔をしかめて二、三度咳き込んでいる。
「でも、どうしても坊やと船と積荷を返して欲しいっていうなら、荷を運んだ報酬の500万リュールを、そっくりあたしへ借金返済の為に渡しておくれ。そうしたら坊や達は返すし、残りの200万リュールの返済は、半年間の猶予をあげようじゃないか」
「なんだとぉ~~」
ヴィズルが両手を握りしめてうなり声をあげた。
悔しさが滲み出るような、念がこもったような声だ。
「冗談じゃないぜ。俺達が荒波を航海して三ヵ月かかって稼いだ金を、よりにもよってなんで全額あんたに渡さなくちゃならねぇんだっ! ふざけるなよ、おい!」
マダム・ポンパディエはその小さな瞳を半眼にしながら、煙管の吸い口をくわえると、うっとりとした表情で紫煙を吐き出した。
「あんたもさんざんやってきただろう? 人の上前をはねる『海賊稼業』をさ。今、どんな気分だい……ヴィズル?」
傍で見ている私がこういうのもなんだが、彼女のあの顔で、こんなことを言われたら、あまりのふてぶてしさに腹が立ってくるのもわかる。
今のヴィズルなら、目の前のテーブルのガラス板を拳で叩き割りそうだ。
「ぐぅ……ぐぐぐぐぐ……ぅっ!」
「話し合いがしたいのならすればいいさ。1分だけ時間をあげよう」
「ヴィズル……」
今まで口を開かなかったグラヴェール船長が、申し訳なさそうに苦しい表情でヴィズルを見つめている。
「わかった」
ヴィズルは腕を組んでマダム・ポンパディエを睨みつけた。
けれどそれはとても短い間だった。彼はその険しい目元を急に溶けるように緩ませると、満面の笑みを浮かべて私の方へ振り返った。
あまりにも人の良い愛想の良い笑みで、それを向けられた私は焦った。
「マダム。シャインの借金は取りあえず、ここにいるジャーヴィス艦長が
「――え、ええっ!?」
「そういうことだ。頼むぜ、ジャーヴィス!」
ヴィズルは突然目の前のテーブルのガラス板を持ち上げると、それをマダム・ポンパディエと私めがけて放り投げた。
「きゃぁあああ!」
「――ヴィズル! 貴様ぁ!」
「シャイン、早く来い!」
身を屈めてそれをかわした私は、グラヴェール船長の腕をとり、部屋の扉へと走るヴィズルの姿を見た。
「逃すか!」
私はすかさず右足を伸ばしていた。
「うわっ!」
私のそれは過たず、ヴィズルはひっかかって見事にこけた。
「そう何度も同じ手にひっかかると思ってるのか。冗談じゃないぞ!」
私は絨毯の上に倒れているヴィズルとグラヴェール船長を見ながら、後ろ手で扉を閉めた。
「おやまあ……どうもありがとう。さてと」
マダム・ポンパディエが、頭からずり落ちそうになっていた、白い帽子を直して私の方を向いた。
「ここはあたしの店だからね。そう簡単には逃げられないよ」
マダム・ポンパディエは両手を軽く打ち鳴らした。先程彼女が出てきたカーテンの奥から、例のはげ頭のバーテンダーに連れられて、恰幅の良い男達が6人ずらずらと出てきた。
彼等も坊主頭だ。黒い服に身を包み、まるでマダム・ポンパディエの影のようにその後ろへと並ぶ。
何時の間にか、部屋の外に出るあの扉の前にも、坊主頭のずんぐりとした男が1人立っていた。
「マダム。時間はかかるが、700万リュールは必ずお支払いする。だから、関係のないヴィズルとジャーヴィス艦長は解放してくれ」
ベルベットのズボンの膝を手で払い、グラヴェール船長が立ち上がった。
そのまま、長椅子に腰掛けたマダム・ポンパディエの前まで歩いていく。
「確かに、あの二人は関係ないが、あんたとヴィズルが稼いだっていう、500万リュールは無視できない存在だよ?」
「半分の250万は俺のものだから、それを好きにすればいい」
マダム・ポンパディエは再び煙管を吸いながら、ゆっくりと首を振った。
「ヴィズルと交渉して、彼の取り分を借りるっていうのはどうだい?」
グラヴェール船長の顔色が青ざめた。豪奢なレースが施された袖口からのぞくその手が、ぐっと握りしめられる。
「黙ってきいてりゃ、さんざん好きな事ばかり言いやがって!」
ヴィズルが、不意にグラヴェール船長の隣へ並んだ。
「借金、借金ってうるさいんだよ。おかげで思い出したぜ、ストーム」
ぴくっとマダム・ポンパディエの頬が引きつった。
「この店にいる時のあたしは――」
「
ぴくぴくぴくっ……!
さらに彼女の頬が引きつった。唇の色も青ざめている。
ヴィズルはグラヴェール船長の肩に手を置いて、その体を後ろに下がらせると、長椅子に腰掛けているマダム・ポンパディエの前に立った。
不敵ともいえる微笑を唇に浮かべ、マダム・ポンパディエの顔を見下ろすように長身を折って覗き込む。
「お前がこの店に再び戻れるようにしてやったのは、一体誰のおかげだ? エルシーア海軍に1500万リュールという大金を出して保釈してやったのは? えっ? 誰だよ? 忘れたとは言わせないぜ。ストーム?」
「……」
マダム・ポンパディエは、分厚い唇をぱくぱくと動かしている。
その額には脂汗が浮かび、小さな緑の瞳はせわしなく瞬きを繰り返すばかりだ。
「聞こえないな」
ヴィズルがマダム・ポンパディエの顎に手をかける。
「うっ……そ、それは……あ、あんた、だよ……ヴィズル……」
「何だって?」
ヴィズルがおどけたように小首を傾げた。
「あ、あんたさ。あんたがあたしを出してくれた」
「ほう!」
ヴィズルは彼女の顎から手を放した。
だがその鋭い視線は彼女の瞳を隙なく睨みつけている。
やがてヴィズルは、にっこりと、子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「じゃ、俺はそれを今ここで、お前に
「……」
「返せって言ってるんだよ。お前の店は余裕で一晩200万リュールの売上がある。ルシータ通りの女帝が、1500万なんてはした金、払えないはずがないよな」
「……くぅっ……!!」
バキィッ!
私は見た。
マダム・ポンパディエが、煙管を口にくわえようとして、けれど握りしめたそれが、音を立てて真っ二つに折れるのを。
「時間がないから、シャインの借金もここですっぱり俺が立て替えておくぜ。1500万リュールから700万引いてやる。だから、800万リュール。それで文句ないだろ? マダム・ポンパディエ」
「……」
マダム・ポンパディエは大きく息をつきながら、長椅子の背に大柄な体を押し付けた。ふうふう喘ぎながら、額に手を当てて左右に首を振る。
「わかった。わかったから、みんなとっとと店から出ていっておくれ! もう
もぞもぞと体を動かして、ようやくグラヴェール船長が上半身を起こす。
「でもマダムに船と積荷を押さえられてるんだ。借金を返済するまで俺はここを出られない。そりゃ積荷を納品すれば、運賃の500万リュールが入ってくるけど、半分はヴィズルのものだし――」
「500万リュールだって!? 坊や、何で今まであたしにそれを言わなかったのかい」
マダム・ポンパディエがヒステリックに叫んだ。
「当然だろ。半分の250万リュールはヴィズルの取り分だ。だから、俺があなたに渡せるのは、
同額
の250万リュール――」バン!!
そのとき、大きな音を立てて、部屋の扉が開いた。
私達は驚いてそちらへと視線を向けた。
「くっそーー。やぁっと、見つけたぜーーー! シャイン!!」
開いた扉の前には、肩で大きく息をしながら長い黒髪を振り乱し、ぎらぎらとした目で私達を見据えるヴィズルが立っていた。
「お前こんな所で何油売ってんだよ! 早くロワールハイネス号の所へ戻って、荷を納品しにいくぜ」
ヴィズルはずかずかと部屋の中に入り込み、グラヴェール船長に向かって手を伸ばした。
バチン!
彼の右手を掴もうとするところで、ヴィズルの手の甲をマダム・ポンパディエの煙管が容赦なく叩く。
「誰かと思えば……ヴィズルじゃないか」
ヴィズルは叩かれた手の甲をさすり、キッとマダム・ポンパディエのふてぶてしい顔を見つめた。
「よう、マダム。
相変わらず
元気そうだな。シャインがあんたの世話になってると昔の仲間からきいたんで、こうしてわざわざ迎えに来たんだよ。それなのに、何故邪魔をする?」マダム・ポンパディエはからからと笑い声をあげた。
「この子は返さないよ。船も積荷も。あたしの借金700万リュールを返済しない限りね」
「……はぁ?」
どうやらヴィズルも、グラヴェール船長の借金の事は知らなかったらしい。
彼はしばし呆然としながら、黙って長椅子に座っているグラヴェール船長を見つめている。
「そうか……それでマダムは、シャインの船を襲ったって訳か」
「ヴィズル。あんたがあたしらの頭だったころ。あたしはそうやって上納金の取り立てをやってきたんだよ。狙った獲物は絶対に逃さない」
マダム・ポンパディエはグラヴェール船長の前に立つと、煙管を再びその顔の前に突き付けた。刻みタバコの強い臭いのせいか、グラヴェール船長が顔をしかめて二、三度咳き込んでいる。
「でも、どうしても坊やと船と積荷を返して欲しいっていうなら、荷を運んだ報酬の500万リュールを、そっくりあたしへ借金返済の為に渡しておくれ。そうしたら坊や達は返すし、残りの200万リュールの返済は、半年間の猶予をあげようじゃないか」
「なんだとぉ~~」
ヴィズルが両手を握りしめてうなり声をあげた。
悔しさが滲み出るような、念がこもったような声だ。
「冗談じゃないぜ。俺達が荒波を航海して三ヵ月かかって稼いだ金を、よりにもよってなんで全額あんたに渡さなくちゃならねぇんだっ! ふざけるなよ、おい!」
マダム・ポンパディエはその小さな瞳を半眼にしながら、煙管の吸い口をくわえると、うっとりとした表情で紫煙を吐き出した。
「あんたもさんざんやってきただろう? 人の上前をはねる『海賊稼業』をさ。今、どんな気分だい……ヴィズル?」
傍で見ている私がこういうのもなんだが、彼女のあの顔で、こんなことを言われたら、あまりのふてぶてしさに腹が立ってくるのもわかる。
今のヴィズルなら、目の前のテーブルのガラス板を拳で叩き割りそうだ。
「ぐぅ……ぐぐぐぐぐ……ぅっ!」
「話し合いがしたいのならすればいいさ。1分だけ時間をあげよう」
「ヴィズル……」
今まで口を開かなかったグラヴェール船長が、申し訳なさそうに苦しい表情でヴィズルを見つめている。
「わかった」
ヴィズルは腕を組んでマダム・ポンパディエを睨みつけた。
けれどそれはとても短い間だった。彼はその険しい目元を急に溶けるように緩ませると、満面の笑みを浮かべて私の方へ振り返った。
あまりにも人の良い愛想の良い笑みで、それを向けられた私は焦った。
「マダム。シャインの借金は取りあえず、ここにいるジャーヴィス艦長が
肩代わり
をしてくれるってさ」「――え、ええっ!?」
「そういうことだ。頼むぜ、ジャーヴィス!」
ヴィズルは突然目の前のテーブルのガラス板を持ち上げると、それをマダム・ポンパディエと私めがけて放り投げた。
「きゃぁあああ!」
「――ヴィズル! 貴様ぁ!」
「シャイン、早く来い!」
身を屈めてそれをかわした私は、グラヴェール船長の腕をとり、部屋の扉へと走るヴィズルの姿を見た。
「逃すか!」
私はすかさず右足を伸ばしていた。
「うわっ!」
私のそれは過たず、ヴィズルはひっかかって見事にこけた。
「そう何度も同じ手にひっかかると思ってるのか。冗談じゃないぞ!」
私は絨毯の上に倒れているヴィズルとグラヴェール船長を見ながら、後ろ手で扉を閉めた。
「おやまあ……どうもありがとう。さてと」
マダム・ポンパディエが、頭からずり落ちそうになっていた、白い帽子を直して私の方を向いた。
「ここはあたしの店だからね。そう簡単には逃げられないよ」
マダム・ポンパディエは両手を軽く打ち鳴らした。先程彼女が出てきたカーテンの奥から、例のはげ頭のバーテンダーに連れられて、恰幅の良い男達が6人ずらずらと出てきた。
彼等も坊主頭だ。黒い服に身を包み、まるでマダム・ポンパディエの影のようにその後ろへと並ぶ。
何時の間にか、部屋の外に出るあの扉の前にも、坊主頭のずんぐりとした男が1人立っていた。
「マダム。時間はかかるが、700万リュールは必ずお支払いする。だから、関係のないヴィズルとジャーヴィス艦長は解放してくれ」
ベルベットのズボンの膝を手で払い、グラヴェール船長が立ち上がった。
そのまま、長椅子に腰掛けたマダム・ポンパディエの前まで歩いていく。
「確かに、あの二人は関係ないが、あんたとヴィズルが稼いだっていう、500万リュールは無視できない存在だよ?」
「半分の250万は俺のものだから、それを好きにすればいい」
マダム・ポンパディエは再び煙管を吸いながら、ゆっくりと首を振った。
「ヴィズルと交渉して、彼の取り分を借りるっていうのはどうだい?」
グラヴェール船長の顔色が青ざめた。豪奢なレースが施された袖口からのぞくその手が、ぐっと握りしめられる。
「黙ってきいてりゃ、さんざん好きな事ばかり言いやがって!」
ヴィズルが、不意にグラヴェール船長の隣へ並んだ。
「借金、借金ってうるさいんだよ。おかげで思い出したぜ、ストーム」
ぴくっとマダム・ポンパディエの頬が引きつった。
「この店にいる時のあたしは――」
「
お前も
俺に借金があるだろう。えっ? ストーム?」ぴくぴくぴくっ……!
さらに彼女の頬が引きつった。唇の色も青ざめている。
ヴィズルはグラヴェール船長の肩に手を置いて、その体を後ろに下がらせると、長椅子に腰掛けているマダム・ポンパディエの前に立った。
不敵ともいえる微笑を唇に浮かべ、マダム・ポンパディエの顔を見下ろすように長身を折って覗き込む。
「お前がこの店に再び戻れるようにしてやったのは、一体誰のおかげだ? エルシーア海軍に1500万リュールという大金を出して保釈してやったのは? えっ? 誰だよ? 忘れたとは言わせないぜ。ストーム?」
「……」
マダム・ポンパディエは、分厚い唇をぱくぱくと動かしている。
その額には脂汗が浮かび、小さな緑の瞳はせわしなく瞬きを繰り返すばかりだ。
「聞こえないな」
ヴィズルがマダム・ポンパディエの顎に手をかける。
「うっ……そ、それは……あ、あんた、だよ……ヴィズル……」
「何だって?」
ヴィズルがおどけたように小首を傾げた。
「あ、あんたさ。あんたがあたしを出してくれた」
「ほう!」
ヴィズルは彼女の顎から手を放した。
だがその鋭い視線は彼女の瞳を隙なく睨みつけている。
やがてヴィズルは、にっこりと、子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「じゃ、俺はそれを今ここで、お前に
返還を要求する
。1500万リュール! きっちり耳を揃えて返してもらおうか――! ストーム」「……」
「返せって言ってるんだよ。お前の店は余裕で一晩200万リュールの売上がある。ルシータ通りの女帝が、1500万なんてはした金、払えないはずがないよな」
「……くぅっ……!!」
バキィッ!
私は見た。
マダム・ポンパディエが、煙管を口にくわえようとして、けれど握りしめたそれが、音を立てて真っ二つに折れるのを。
「時間がないから、シャインの借金もここですっぱり俺が立て替えておくぜ。1500万リュールから700万引いてやる。だから、800万リュール。それで文句ないだろ? マダム・ポンパディエ」
「……」
マダム・ポンパディエは大きく息をつきながら、長椅子の背に大柄な体を押し付けた。ふうふう喘ぎながら、額に手を当てて左右に首を振る。
「わかった。わかったから、みんなとっとと店から出ていっておくれ! もう
二度と
あんたの顔を見たくないよ! ヴィズル!」