4-25 四本指の男
文字数 3,057文字
波の音がする。
船が後方の斜め後ろから順風を受けて、軽やかに海原を駆けていく時に聞こえる心地よい音。
一定のリズムを刻むそれを聞いていると、まるで船が自分を包み込んで守ってくれるような気がして落ち着くのだ。
ぎしぎしと船板が軋む音もそう。快調に船が走っている証拠だ。船が体全体で喜びを表している。
『ねえ、海軍で一番足が速い船ってどれ?』
『そうだな……。あんまり比べたことがないからわからないけど、君と同じクラスのスクーナー、トレース号は、ジェミナ・クラスまで六日間で行った記録を持っているよ』
『そうなの。じゃ、私が今、海軍で一番足が速い船よね! 私は四日で行ったんだから』
『それはそうだけど……ちょっと違うな』
『何が違うの?』
『だってあの時は、君自身の力で船を動かしたから四日間で行けたんだ。帆走なら確実に六日かかってた』
『うう……。な、なによ。私だって舵が壊れていなかったら、五日間でいけたわ。あ……つまりシャインは、私がいなくってもいいって言うのね?』
『それは違う』
『え。だってそうじゃない。私がいなくても、船はそれだけの速度を出せるんだもの。だから、私の存在なんか、あるようで実はないのと同じだわ』
『ロワール。違う、俺が言いたいのは……!』
『あなたは、“ロワールハイネス号”さえあればいいんでしょ?』
『ロワールハイネス号さえあれば!』
「……違う!」
シャインは目を開いた。
右の頬を固い床板に押し付ける、痛いほどの感触が伝わってくる。
眠っていた?
さっきのは……夢……。
シャインは肺の奥に溜まった空気を吐き出して、その場に体を横たえたままぼんやりと辺りを凝視した。
うす暗い部屋。汚水のすえた臭い、木の腐食したような臭い。ぎしぎしとしなる音。ここは船の下層部で、それも積荷を置く船倉であることは容易に見当がついた。
けれど何故こんな場所で眠っていたのか。
夢見の悪さも相まって、気持ちの悪い冷たい汗が額に浮かび、前髪がぴったりとそこにいく筋も貼り付いている。
シャインはそれを払おうと右手を上げかけた。
チャリン……何かが擦れ合う金属音が鳴る。
そして動かしたのは右手だけのはずなのに、左手も同じように引っ張られた。
「何だ……これ……?」
両手首がずっしりと重い。手を動かしてみて、シャインは前で合わせる形で鉄の枷がはめられていることに気付いた。そしてそれは、シャインの小指ぐらいの太い鎖がついていて、船倉の天井にある鉄の輪に通され、固定されている。
「……」
シャインはしばし自分の身に何が起ったのかわからず、ただうす暗い船倉の中をじっと見据えた。頭の中が呆然となりそうになる。
そこで目を閉じた。こういう場合は記憶を辿るのだ。落ち着いて、今まで何をしていたか、順番に思い出していくのだ。
そう……。
確か、ウインガード号の艦長室で、ツヴァイスと話をしていた。
とても大切な話で……昔の話。
アドビスが決してしてくれなかった、母リュイーシャの死の真相だ。
――それで?
シャインは顔にまとわりつく髪を、頭を振ることで除けながら、さらに記憶のページを繰った。
そうだ。ツヴァイスは、シャインが亡き母親によく似ていると言った。
そして思ったのだ。
それが、アドビスに避けられる理由ではないのかと……。
すっと顔から血の気が引いていく。唇が無意識のうちに震えて、シャインは横になったまま背中を丸めた。再び高まってきた感情を抑えようと、きつくきつく両手を握りしめる。
そしてその後は。
シルヴァンティー。作り直されたそれは何故だかとてもエグかった。
舌がしびれるような苦味を覚えている。だが、それ以外何も思い出せない。
記憶はここで途切れてしまっている。
どうやら考えるだけ無駄のようだ。
シャインは再び目を開けて、うす暗い船倉の中をながめた。
ここはウインガード号の船倉だろうか。そして手枷をはめて、ここに閉じ込めたのは誰だろう。
言うまでもない。
きっとツヴァイスの仕業だ。口封じのためそうしたのだろう。
シャインは小さく鼻で笑った。
確かに自分は彼の弱味を握っている。ツヴァイスがヴィズルと組んで、ノーブルブルーの船を沈めた事実を知っている。それを口外しない事をたてに、ノーブルブルーへ転属させてもらう約束をとりつけたはずだが。
どうやら利用されたのは自分の方らしい。
以前、ヴィズルをロワールハイネス号の航海長に紹介された時と同じように。
その時、シャインは前の扉に人が立っている気配を感じた。はめこまれている板と板の間がわずかに開いていて、外のランプの光が筋状にもれていたそれが不意に遮られたのだ。ガチャガチャと鍵の束が鳴る音がする。
シャインはそのまま目を閉じて、眠っているふりをした。
すべての意識を耳に集め、集中して。
木が軋むこすれた音と共に扉が開き、重いブーツが床板の上を歩く足音が響く。
「……」
どうやらここに入ってきたのは一人。ぷんと酸っぱい酒の臭いが漂う。安酒のような類いではなく、上等なワインのような。それらに混じって、なにやらシチューのような、こってりとした料理の臭いもする。
「はっ! まだ眠ってやがるぜ。とっくに日は昇ったっていうのにな。ツヴァイスの野郎、薬の量、間違えたんじゃあねぇだろうな?」
野太い、しかも知らない男の声だ。だがエルシーア語のイントネーションはどこかで聞いた事があるような気がする。そう、東方連国の人達が話す、少しなまったエルシーア語……。
ランプが自分の顔に向けられる気配。シャインは目を閉じたまま、眠ったふりを続けて様子をうかがう。
男が自分の側に近寄り、その場にかがみこむ。料理の臭いと、男が発する酸っぱい臭いがより一層強くなって、顔をそむけたくなる。
男がランプと料理の皿を置く小さな音がしたかと思うと、次の瞬間、シャインは思わず身を強ばらせて、目を開けたくなる衝動を必死でおさえた。
硬い、指先がたこになっているような男の手が、いきなり頬に触れたのだ。
「――アドビスの息子……か。なるほど……奴よりあの女の方に似てやがるな。……あの女……くそっ」
男は低く舌打ちして悪態をつきつつ、頬に触れた指で頤 をなぞり、そのまま首筋へと下りていく。
「あの女のように……このガキも風を操るんじゃねぇのか? 冗談じゃねぇ!」
シャインは息を詰めた。
首にかけられた男の手に大きな違和感を覚えたのだ。
男の手は小指を欠いた四本しかなかったから。
一体何者だろう。しかも、この男は母リュイーシャを知っているようだ。
男は口の中で呪文を言うように、何事かを低くつぶやいている。シャインは男の正体を見極めるため目を開けようと思ったが、そうすれば男は、独り言をいうのをやめてしまう。
シャインは手首に冷たくくい込む鉄の枷がはめられた両手を握りしめ、何とか落ち着こうとした。男は大事なことを口走っている。
もう少しだけ……辛抱しなければ。
「俺だったら今ここで、このガキを絞め殺してやるんだがな。ヴィズルはあの嵐がどうして起きたか知らねぇ。あの女の血を引いたこのガキを生かしておくことが、どんなに危険かわかってねぇんだ!」
「……」
男の硬い指先に力が徐々に込められていく。
どくどくと波打つ自分の脈と、気道を押しつぶさんとする圧力が喉にかかる。
息ができない。
「あの夜、俺がすべてを手に入れていたはずだったんだ!!」
男が既にシャインの首にかけていた右手の上へ、左手を乗せた。
船が後方の斜め後ろから順風を受けて、軽やかに海原を駆けていく時に聞こえる心地よい音。
一定のリズムを刻むそれを聞いていると、まるで船が自分を包み込んで守ってくれるような気がして落ち着くのだ。
ぎしぎしと船板が軋む音もそう。快調に船が走っている証拠だ。船が体全体で喜びを表している。
『ねえ、海軍で一番足が速い船ってどれ?』
『そうだな……。あんまり比べたことがないからわからないけど、君と同じクラスのスクーナー、トレース号は、ジェミナ・クラスまで六日間で行った記録を持っているよ』
『そうなの。じゃ、私が今、海軍で一番足が速い船よね! 私は四日で行ったんだから』
『それはそうだけど……ちょっと違うな』
『何が違うの?』
『だってあの時は、君自身の力で船を動かしたから四日間で行けたんだ。帆走なら確実に六日かかってた』
『うう……。な、なによ。私だって舵が壊れていなかったら、五日間でいけたわ。あ……つまりシャインは、私がいなくってもいいって言うのね?』
『それは違う』
『え。だってそうじゃない。私がいなくても、船はそれだけの速度を出せるんだもの。だから、私の存在なんか、あるようで実はないのと同じだわ』
『ロワール。違う、俺が言いたいのは……!』
『あなたは、“ロワールハイネス号”さえあればいいんでしょ?』
『ロワールハイネス号さえあれば!』
「……違う!」
シャインは目を開いた。
右の頬を固い床板に押し付ける、痛いほどの感触が伝わってくる。
眠っていた?
さっきのは……夢……。
シャインは肺の奥に溜まった空気を吐き出して、その場に体を横たえたままぼんやりと辺りを凝視した。
うす暗い部屋。汚水のすえた臭い、木の腐食したような臭い。ぎしぎしとしなる音。ここは船の下層部で、それも積荷を置く船倉であることは容易に見当がついた。
けれど何故こんな場所で眠っていたのか。
夢見の悪さも相まって、気持ちの悪い冷たい汗が額に浮かび、前髪がぴったりとそこにいく筋も貼り付いている。
シャインはそれを払おうと右手を上げかけた。
チャリン……何かが擦れ合う金属音が鳴る。
そして動かしたのは右手だけのはずなのに、左手も同じように引っ張られた。
「何だ……これ……?」
両手首がずっしりと重い。手を動かしてみて、シャインは前で合わせる形で鉄の枷がはめられていることに気付いた。そしてそれは、シャインの小指ぐらいの太い鎖がついていて、船倉の天井にある鉄の輪に通され、固定されている。
「……」
シャインはしばし自分の身に何が起ったのかわからず、ただうす暗い船倉の中をじっと見据えた。頭の中が呆然となりそうになる。
そこで目を閉じた。こういう場合は記憶を辿るのだ。落ち着いて、今まで何をしていたか、順番に思い出していくのだ。
そう……。
確か、ウインガード号の艦長室で、ツヴァイスと話をしていた。
とても大切な話で……昔の話。
アドビスが決してしてくれなかった、母リュイーシャの死の真相だ。
――それで?
シャインは顔にまとわりつく髪を、頭を振ることで除けながら、さらに記憶のページを繰った。
そうだ。ツヴァイスは、シャインが亡き母親によく似ていると言った。
そして思ったのだ。
それが、アドビスに避けられる理由ではないのかと……。
すっと顔から血の気が引いていく。唇が無意識のうちに震えて、シャインは横になったまま背中を丸めた。再び高まってきた感情を抑えようと、きつくきつく両手を握りしめる。
そしてその後は。
シルヴァンティー。作り直されたそれは何故だかとてもエグかった。
舌がしびれるような苦味を覚えている。だが、それ以外何も思い出せない。
記憶はここで途切れてしまっている。
どうやら考えるだけ無駄のようだ。
シャインは再び目を開けて、うす暗い船倉の中をながめた。
ここはウインガード号の船倉だろうか。そして手枷をはめて、ここに閉じ込めたのは誰だろう。
言うまでもない。
きっとツヴァイスの仕業だ。口封じのためそうしたのだろう。
シャインは小さく鼻で笑った。
確かに自分は彼の弱味を握っている。ツヴァイスがヴィズルと組んで、ノーブルブルーの船を沈めた事実を知っている。それを口外しない事をたてに、ノーブルブルーへ転属させてもらう約束をとりつけたはずだが。
どうやら利用されたのは自分の方らしい。
以前、ヴィズルをロワールハイネス号の航海長に紹介された時と同じように。
その時、シャインは前の扉に人が立っている気配を感じた。はめこまれている板と板の間がわずかに開いていて、外のランプの光が筋状にもれていたそれが不意に遮られたのだ。ガチャガチャと鍵の束が鳴る音がする。
シャインはそのまま目を閉じて、眠っているふりをした。
すべての意識を耳に集め、集中して。
木が軋むこすれた音と共に扉が開き、重いブーツが床板の上を歩く足音が響く。
「……」
どうやらここに入ってきたのは一人。ぷんと酸っぱい酒の臭いが漂う。安酒のような類いではなく、上等なワインのような。それらに混じって、なにやらシチューのような、こってりとした料理の臭いもする。
「はっ! まだ眠ってやがるぜ。とっくに日は昇ったっていうのにな。ツヴァイスの野郎、薬の量、間違えたんじゃあねぇだろうな?」
野太い、しかも知らない男の声だ。だがエルシーア語のイントネーションはどこかで聞いた事があるような気がする。そう、東方連国の人達が話す、少しなまったエルシーア語……。
ランプが自分の顔に向けられる気配。シャインは目を閉じたまま、眠ったふりを続けて様子をうかがう。
男が自分の側に近寄り、その場にかがみこむ。料理の臭いと、男が発する酸っぱい臭いがより一層強くなって、顔をそむけたくなる。
男がランプと料理の皿を置く小さな音がしたかと思うと、次の瞬間、シャインは思わず身を強ばらせて、目を開けたくなる衝動を必死でおさえた。
硬い、指先がたこになっているような男の手が、いきなり頬に触れたのだ。
「――アドビスの息子……か。なるほど……奴よりあの女の方に似てやがるな。……あの女……くそっ」
男は低く舌打ちして悪態をつきつつ、頬に触れた指で
「あの女のように……このガキも風を操るんじゃねぇのか? 冗談じゃねぇ!」
シャインは息を詰めた。
首にかけられた男の手に大きな違和感を覚えたのだ。
男の手は小指を欠いた四本しかなかったから。
一体何者だろう。しかも、この男は母リュイーシャを知っているようだ。
男は口の中で呪文を言うように、何事かを低くつぶやいている。シャインは男の正体を見極めるため目を開けようと思ったが、そうすれば男は、独り言をいうのをやめてしまう。
シャインは手首に冷たくくい込む鉄の枷がはめられた両手を握りしめ、何とか落ち着こうとした。男は大事なことを口走っている。
もう少しだけ……辛抱しなければ。
「俺だったら今ここで、このガキを絞め殺してやるんだがな。ヴィズルはあの嵐がどうして起きたか知らねぇ。あの女の血を引いたこのガキを生かしておくことが、どんなに危険かわかってねぇんだ!」
「……」
男の硬い指先に力が徐々に込められていく。
どくどくと波打つ自分の脈と、気道を押しつぶさんとする圧力が喉にかかる。
息ができない。
「あの夜、俺がすべてを手に入れていたはずだったんだ!!」
男が既にシャインの首にかけていた右手の上へ、左手を乗せた。