4-34 金鷹、動く(1)

文字数 1,997文字

「これを知っているのか? ジャーヴィス中尉」
 アドビスに声をかけられ、ジャーヴィスは一瞬視線を宙に彷徨わせた。

「はっ……」
 膝の上で握った両手に、冷たい汗がにじんでくるのがわかる。

「知っています。ご子息が……艦長がいつも右手にそれをはめていたのを見ていましたから……」

 アドビスの目を直視することができず、うつむいたジャーヴィスの傍らで、クラウスが喘ぐように嗚咽をもらした。

「そんな……そんなことってないよ!!」

 クラウスはばっと両手で顔を覆った。ふわりとした明るい金髪の髪を、乱さんばかりに激しく振る。ジャーヴィスは思わずクラウスの肩に手をかけた。

「クラウス、落ち着け」

 自分も心穏やかではないが。
 だがクラウスは涙を堪えきれず、顔を覆った手の間からそれをぽたぽたと滴らせている。

「だって、だって僕……。僕がアスラトルへたどり着けなかったら、ヴィズルは艦長を殺すっていう事だったんですよ! どうしようジャーヴィス副長! もうあれから何日たちました? 早くしないと、艦長が――」

 クラウスは覆った手を下ろし、肩を掴むジャーヴィスにすがりついた。

「クラウス。落ち着け。閣下の御前だぞ」

 ジャーヴィスはすすり泣くクラウスをなんとかなだめようとしたが、クラウスと同様に、その心境は激しく乱れていた。クラウスの肩を抱えながら、考えがまとまらず、頭の中が真っ白になっていく。

「クラウス士官候補生」

 アドビスがいつもの掠れ気味の声音でその名を呼んだ。怒ったり、咎めたりしていないその口調に、安堵したのかすすり泣きながらクラウスは、おずおずと顔をあげる。

「お前は間に合った。だから、シャインの事は心配しなくていい」

 アドビスは落ち着き払った……それでいて、動揺の欠片一つない穏やかな笑みをその顔に浮かべていた。先程まで光っていた、射ぬくばかりの鋭い瞳さえも、今はほっとするような温かみを帯びた輝きでクラウスを見つめている。
 クラウスは驚きのせいで思わず泣き止み、目をしばたいた。

「で、でも……」
「礼を言う。ヴィズルの指定した期限までまだ余裕がある。これだけあればなんとかなる。後は私の仕事だ」

 アドビスはすっと応接椅子から立ち上がった。慌ててジャーヴィスとクラウスもそれに倣う。もしもシャインがこの場にいれば、先程アドビスがクラウスに見せた微笑は奇跡だと思うだろう。

 だがそれはあっと言う間に消え去り、そこには元の厳格な海軍参謀部の長として、海賊を狩る狩人の油断のない表情に戻っていた。

「ジャーヴィス中尉、クラウス士官候補生。ご苦労だった。もう下がっていい。二人とも少し休むがいい」

 ジャーヴィスはまだ鼻をすするクラウスの肩を抱きながら、「閣下」と、意を決して口を開いた。
 アドビスは再び応接椅子に腰を下ろし、机の上に置いたままの指輪をつまみ上げていた。うんざりしたように、首を左右に振りつぶやく。

「ジャーヴィス中尉。お前の働きには満足している。ツヴァイスとヴィズルのつながりもこれで明らかにできる」

 アドビスはさり気ない仕種でつまんだシャインの指輪を、そっと左手の小指に滑らせた。

「お前の仕事はもう終わった。早く下がれ」
「――いいえ」

 アドビスが顔を上げた。明らかに煩わしいといった感情をむき出しにした目で睨まれて、ジャーヴィスは一瞬大きく身震いした。だが。

「いいえ。閣下、お忘れですか? 私がご子息の副官になったのは、他ならぬ閣下の頼みだったからです。それが私の仕事でもあります。ですから、私はその職務を全うする義務があります」

 アドビスは頬杖をついて、面白そうにジャーヴィスをながめた。

「解任を命じれば、その必要はなくなるが」

 ジャーヴィスは息を飲んだ。
 アドビスの一存で自分の立場など、天と地ほどにたやすくひっくり返るということを思い知って。だがジャーヴィスはあきらめなかった。

「たとえ海軍統括将の命令でも、理由なき解任は認められません。軍規にそうあります」

 アドビスは肩をすくめた。

「理由など、どうとでもつけられる」
「中将閣下……私は……!」

 アドビスは応接椅子に背中を預け、両腕を組んで瞳を閉じた。

「その可哀想な士官候補生を、部屋に送り届けてやる事が先だ。そして、まだ私に報告する事が残っているなら、一時間後、ここに来るがいい」
「中将閣下……ありがとうございます」

 ジャーヴィスは深々と頭を垂れた。
 アドビスは黙ったままうなずき、早く出て行けといわんばかりに手を振った。

「さ、クラウス、失礼するぞ」
「はい……」

 ジャーヴィスとクラウスは連れ立って扉の前に行った。クラウスの背中を軽く押して先に出させ、振り返りざまにアドビスの様子を一瞥した。

 アドビスは応接椅子から立ち上がり、再び執務席に移動して机の上に置いてある調書を手にしている所だった。

「それでは失礼いたします」
 アドビスの返事はなかった。
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