4-80 『友達』
文字数 4,753文字
脈打つ右腕の疼痛でシャインは目を開いた。同時に体中がいつもより熱くて、頬が酒を飲んだ時のように火照っているのがわかる。
額に浮いた汗を無意識の内に左手で拭うと、ひやりとした小さな白い手が、シャインのそれを優しくつかんだ。
「……気がついた?」
シャインは首を左側に傾け、まだ虚ろな視線で上を見上げた。
霞がかった白い視界の中。上空から降り注ぐ、柔らかな朝の光にも似たその中で、水色の透明な瞳が静かに見返してくる。
ゆるゆると巻いた紅の髪がいく筋も華奢な肩の上に流れ落ち、まぶしいほど鮮やかなその色が、不鮮明だったシャインの意識を一気に目覚めさせた。
「ロワール! どうして」
シャインは咄嗟に上半身を起こしていた。
途端、体重を一瞬乗せた右手首が痺れて痛む。シャインはうつむき左手でぐっと右肩を掴んだ。
「シャイン、起きちゃだめよ。ヒゲの軍医さんとジャーヴィス副長が話してたわ。あなたは無理しすぎて体を壊す寸前だったって」
「……そんなに酷くはないよ。今は」
「でも」
シャインは息を吐いて、再び顔を上げた。
ロワールの心配そうな顔に目を止めた後、素早く視線を周囲に向ける。
ここはロワールハイネス号で、艦長室の中にある寝台に寝かされていた事はすぐにわかった。この部屋は小さなロワールハイネス号の中で、唯一大の男が寝そべることができるがとにかく狭い。
シャインは船尾の四角い窓の外が白々としていることにはっとした。
息も止まるような衝撃が全身を走り抜ける。
「夜が明けてる!」
「ええ……そうよ。私達、アスラトルへ帰る所なの。シャイン」
シャインは一瞬、ロワールを呆然とながめた。
「帰るって……どういうことだ。それにロワール、ヴィズルはどうした? 俺は君に彼を逃がすよう、頼んだつもりだったんだが」
シャインがロワールを一瞥すると、彼女は目を伏せてそっと視線を逸らせた。
「ロワール」
シャインは左手をのばし、ロワールの右手を取る。ロワールはようやくシャインの方を向き、渋々といった様子でため息と共につぶやいた。
「ヴィズルは……行っちゃったわ」
「行ったって、どこに」
ロワールは自分の腕をつかむシャインの熱を帯びた手に、自らのそれを重ねた。
「あなたが連れて行かれた大きな船……エアリエル号に向かって、泳いで行っちゃったの。私は止められなかった。だって、ヴィズルはあなたと約束してたじゃない。シャインのお父さんがあの船に乗っていたら、話をするって。だからヴィズル、行っちゃったの」
「……」
シャインはロワールの腕から手を放した。薄い上掛けをはぐって、寝台の下に置かれている愛用のブーツに左手を伸ばす。
まさかこんな展開になろうとは思ってもみなかった。
ヴィズルが一人でエアリエル号に行った事に、嫌な予感を覚えずにはいられない。
それに、ヴィズルの動向を知りたがっていたアドビスが、何故シャインをロワールハイネス号に戻したのか、その理由も気になった。
「シャイン、
ロワールが呼び掛けた。だがシャインは黙ったまま寝台に腰掛けてブーツを履く手を止めない。
シャインはブーツのベルトを締めようとして、今更ながら、痛めた右腕は処置が施され、肘まで真っ白な包帯が巻かれている事に気付いた。寝台の頭の所にある読書台の上に、自分の航海服の上着が畳まれて置いてあるのを見た。
ブーツを履き終え、シャインは着ていた白いシャツの上から航海服を羽織り、ゆっくりと寝台から立ち上がった。体は熱っぽいが恐れていた目眩は起きない。大丈夫だ。
「シャイン……」
心配してくれるロワールの声に胸が痛む。
だがどうしても行かなくてはならない。
シャインは仕切りのカーテンをはぐり、執務室へ航海服の裾を翻しながら入った。その後をロワールがついてきたが、シャインは敢えて気付かないふりをした。
「今更どこに行くつもりなの? シャイン」
シャインは目の前の応接椅子に座り、さっと立ち上がったリオーネのほっそりとした姿をまじまじと見つめた。リオーネも疲れているのか、青白い顔のせいで精彩に欠けている。いつも額で左右に分けて、ふわりと流している銀に近い白金の髪も、乱れ髪がぽつぽつと顔に影を落としている。
「リオーネさん」
シャインはリオーネの新緑の瞳が険しく光るのを見ながら、彼女のそばまで足を進めた。まさかリオーネまでロワールハイネス号に乗っているとは。
シャインはそれをいぶかしみつつ、だが一抹の決意を込めてリオーネを見据えた。
「このままアスラトルへは帰りません。すぐさまエアリエル号へ引き返します」
シャインの言葉にリオーネがはっと息を飲んだ。眉間が暗くなり、穏やかな表情が仮面のように無表情へと変わった。
「シャイン、何のために戻るのです? あなたは自分の船を取り返した。それでもう十分でしょう? 後は、アドビス様と海賊の問題です。あなたがこれ以上関わる必要は……」
シャインは口元をひきしめたまま首を振った。
「ヴィズルを見殺しにはできません」
「……ヴィズル……ああ、あの銀髪の海賊ね」
リオーネは憂いを帯びた眼差しで、シャインに同情するようにうなずいた。
リオーネがヴィズルの事を知っているということは、ロワールが言っていたように、やはりヴィズルはエアリエル号に乗り込んだのだろう。きっと。
「あなたが何故海賊の肩を持つのか、私にはわかりません。でも、シャイン。あの海賊は自らの意志でエアリエル号にやってきたのです。私は、彼がそれなりの覚悟でアドビス様の元へ来たと思っています。例え命を失う事になったとしても、彼は決して後悔しないでしょう」
確かにリオーネの言う通りだ。
でも、それではあまりにも哀しすぎる。
シャインはうなずきながら語気鋭く言い返した。
「それはわかっています。だからこそ、ヴィズルにはあんな戦いで命を落として欲しくないのです。復讐のためではなく、今度こそ自分のために生きて欲しいから……」
リオーネがそっと近寄ってきたかと思うと、シャインの肩に腕を回した。
細くて白い優しい指が、子供をあやすように、朝日の斜光のように淡く光るシャインの金髪を梳く。
リオーネにとってシャインは、自分の子供みたいなものなのかもしれない。
姉であるリュイーシャが死んでしまったので、遺されたシャインの面倒は、必然的にリオーネの役目になってしまったのだ。
幼い頃からずっと見ていてくれたリオーネは、シャインにとって頭が上がらない存在だ。小さくすすり泣き出したリオーネを、シャインはただ申し訳なく思いながら、そのほっそりした肩に左手を添えた。
リオーネは肩を震わせながら、ゆっくりと顔をあげた。
血の気を失い磁器のように白い頬に、一筋涙が伝い落ちて流れた。
「シャイン、だからといって、あなたが戻ったところで今更
シャインはリオーネの肩に置いた自らの手に力を込めて、彼女の体をそっと引き離した。微熱とは違った熱い憤りが胸の内に湧いてくるのが分かる。それはあまりにも子供じみた感情だった。
「リオーネさん。俺はその言葉を、あの人の
「シャイン!」
封じたと思ったアドビスに対する感情が再び頭をもたげてくる。ぐらつく自分の気持ちに腹立たしさを覚えながら、シャインは吐き捨てるようにつぶやいた。
「あの人が自分の過去の清算をするというのなら、俺はそれを止めません。むしろ今はそれを望みます。……ロワール!」
シャインはきびすを返して部屋の奥――執務机の傍らに立っているロワールに声をかけた。リオーネが咄嗟に視線をロワールへ向ける。リオーネは術者だからロワールの存在に気付いて当然だ。
「一緒に来てくれ。君の力が必要なんだ」
「シャイン、その精霊に船の向きを変えさせるつもりなのね。あなたがそう出るのなら、私も……」
「リオーネさんとおっしゃったかしら」
ロワールは水色の瞳をひそめながら、静かに部屋の奥から歩み出てシャインの隣に寄り添った。
「これだけは言っておくわ。私はシャインを、私を任せるに相応しい者として認めたの。だから私はシャインの指示に従う。あなたが逆風を呼びつけても、私はシャインの為に前に進み続ける。何があってもね」
「……」
リオーネは唇を噛みしめ、ひたとロワールを見つめ続けている。
ロワールも負けじとリオーネを睨みつけている。
「ロワール、ありがとう」
シャインは内心安堵しながらロワールに声をかけた。ひょっとしたらリオーネと同じように、心配するあまり反対されるかもしれないと思っていたからだ。
リオーネは左右に頭を振り悲しげに瞳を伏せた。
「どうして……どうして? シャイン、あの海賊はあなたを捕らえ、一時とは言えど、あなたに不自由な思いをさせたのでしょう? その腕の怪我だって」
「これは彼のせいではありません。けれど……リオーネさん」
シャインはすがるような目で見上げたリオーネに、ふっと笑いかけた。
「ヴィズルは……あっちはそう思っていないだろうけど、俺にとって初めてできた、
リオーネが一瞬両目を見開いた。
「シャイン」
シャインはリオーネに軽く頭を下げて、航海服の袂を左手で押さえながら足早に艦長室を出た。後からついてきたロワールが出たのを確認し、背中で扉を押して閉める。
シャインはしばし艦長室の扉に背を預け、脳裏に自ら言い放った先程の言葉を思い返した。自分で言うのもなんだが、その単語はとてもこそばゆく感じた。
ヴィズルはきっとシャインの事をそういう風には思っていないだろう。だがヴィズルほど真剣に、物事に流されたままでいるシャインの生き方を、指摘してくれた人はいなかった。
ヴィズルがいれば、今まで考えもしなかったもっと広い世界が見えるような気がした。現状に満足し、変わる事を望まず、すべてを諦めていた自分が、その先の未来に思いを馳せてみる気になった。
『俺とあんたが組んで季節物を運べば、一獲千金も夢じゃないぞ。シャイン、軍人なんかやめて俺の船に乗れよ。いつだって歓迎するぜ』
「シャイン、大丈夫?」
ロワールにそっと左手をつかまれ、シャインは我に返った。
「ああ……ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
シャインはまっすぐ自分を見つめるロワールに小さく微笑した。
「ロワール、さっきはありがとう。君に反対されたら、俺は実力行使でこの船を奪わなくてはならなかった」
ロワールはにんまりと笑みを浮かべ、ゆっくりと首を振った。
「私もヴィズルの事が気になってたから……。確かに、ヴィズルは私をこのロワールハイネス号から無理矢理引き離そうとしたり、子供扱いしたり、ホント嫌な事ばっかりしたけど……だけど」
ロワールはうなずいた。
「このまま見殺しにするのは、すっごく後味悪いわ。だって、私がヴィズルをエアリエル号に行かせたようなものだもん。ごめんね、シャイン。あなたはヴィズルを逃がそうとしていたのに」
「いや、いいよ。気にしてない。それよりロワール」
シャインは黙って見上げるロワールに視線を落とした。
「これからロワールハイネス号の向きを変えてくれるかい? 俺は甲板に上がってジャーヴィス副長に事情を説明してくる。彼も乗っているんだろう?」
「ええ。じゃ、すぐにそうするわ。でも……ジャーヴィス副長、引き返す事に納得してくれるかしら」
ロワールの懸念をきいて、シャインは肩をすくめた。
「だから
額に浮いた汗を無意識の内に左手で拭うと、ひやりとした小さな白い手が、シャインのそれを優しくつかんだ。
「……気がついた?」
シャインは首を左側に傾け、まだ虚ろな視線で上を見上げた。
霞がかった白い視界の中。上空から降り注ぐ、柔らかな朝の光にも似たその中で、水色の透明な瞳が静かに見返してくる。
ゆるゆると巻いた紅の髪がいく筋も華奢な肩の上に流れ落ち、まぶしいほど鮮やかなその色が、不鮮明だったシャインの意識を一気に目覚めさせた。
「ロワール! どうして」
シャインは咄嗟に上半身を起こしていた。
途端、体重を一瞬乗せた右手首が痺れて痛む。シャインはうつむき左手でぐっと右肩を掴んだ。
「シャイン、起きちゃだめよ。ヒゲの軍医さんとジャーヴィス副長が話してたわ。あなたは無理しすぎて体を壊す寸前だったって」
「……そんなに酷くはないよ。今は」
「でも」
シャインは息を吐いて、再び顔を上げた。
ロワールの心配そうな顔に目を止めた後、素早く視線を周囲に向ける。
ここはロワールハイネス号で、艦長室の中にある寝台に寝かされていた事はすぐにわかった。この部屋は小さなロワールハイネス号の中で、唯一大の男が寝そべることができるがとにかく狭い。
シャインは船尾の四角い窓の外が白々としていることにはっとした。
息も止まるような衝撃が全身を走り抜ける。
「夜が明けてる!」
「ええ……そうよ。私達、アスラトルへ帰る所なの。シャイン」
シャインは一瞬、ロワールを呆然とながめた。
「帰るって……どういうことだ。それにロワール、ヴィズルはどうした? 俺は君に彼を逃がすよう、頼んだつもりだったんだが」
シャインがロワールを一瞥すると、彼女は目を伏せてそっと視線を逸らせた。
「ロワール」
シャインは左手をのばし、ロワールの右手を取る。ロワールはようやくシャインの方を向き、渋々といった様子でため息と共につぶやいた。
「ヴィズルは……行っちゃったわ」
「行ったって、どこに」
ロワールは自分の腕をつかむシャインの熱を帯びた手に、自らのそれを重ねた。
「あなたが連れて行かれた大きな船……エアリエル号に向かって、泳いで行っちゃったの。私は止められなかった。だって、ヴィズルはあなたと約束してたじゃない。シャインのお父さんがあの船に乗っていたら、話をするって。だからヴィズル、行っちゃったの」
「……」
シャインはロワールの腕から手を放した。薄い上掛けをはぐって、寝台の下に置かれている愛用のブーツに左手を伸ばす。
まさかこんな展開になろうとは思ってもみなかった。
ヴィズルが一人でエアリエル号に行った事に、嫌な予感を覚えずにはいられない。
それに、ヴィズルの動向を知りたがっていたアドビスが、何故シャインをロワールハイネス号に戻したのか、その理由も気になった。
「シャイン、
だめよ
」ロワールが呼び掛けた。だがシャインは黙ったまま寝台に腰掛けてブーツを履く手を止めない。
シャインはブーツのベルトを締めようとして、今更ながら、痛めた右腕は処置が施され、肘まで真っ白な包帯が巻かれている事に気付いた。寝台の頭の所にある読書台の上に、自分の航海服の上着が畳まれて置いてあるのを見た。
ブーツを履き終え、シャインは着ていた白いシャツの上から航海服を羽織り、ゆっくりと寝台から立ち上がった。体は熱っぽいが恐れていた目眩は起きない。大丈夫だ。
「シャイン……」
心配してくれるロワールの声に胸が痛む。
だがどうしても行かなくてはならない。
シャインは仕切りのカーテンをはぐり、執務室へ航海服の裾を翻しながら入った。その後をロワールがついてきたが、シャインは敢えて気付かないふりをした。
「今更どこに行くつもりなの? シャイン」
シャインは目の前の応接椅子に座り、さっと立ち上がったリオーネのほっそりとした姿をまじまじと見つめた。リオーネも疲れているのか、青白い顔のせいで精彩に欠けている。いつも額で左右に分けて、ふわりと流している銀に近い白金の髪も、乱れ髪がぽつぽつと顔に影を落としている。
「リオーネさん」
シャインはリオーネの新緑の瞳が険しく光るのを見ながら、彼女のそばまで足を進めた。まさかリオーネまでロワールハイネス号に乗っているとは。
シャインはそれをいぶかしみつつ、だが一抹の決意を込めてリオーネを見据えた。
「このままアスラトルへは帰りません。すぐさまエアリエル号へ引き返します」
シャインの言葉にリオーネがはっと息を飲んだ。眉間が暗くなり、穏やかな表情が仮面のように無表情へと変わった。
「シャイン、何のために戻るのです? あなたは自分の船を取り返した。それでもう十分でしょう? 後は、アドビス様と海賊の問題です。あなたがこれ以上関わる必要は……」
シャインは口元をひきしめたまま首を振った。
「ヴィズルを見殺しにはできません」
「……ヴィズル……ああ、あの銀髪の海賊ね」
リオーネは憂いを帯びた眼差しで、シャインに同情するようにうなずいた。
リオーネがヴィズルの事を知っているということは、ロワールが言っていたように、やはりヴィズルはエアリエル号に乗り込んだのだろう。きっと。
「あなたが何故海賊の肩を持つのか、私にはわかりません。でも、シャイン。あの海賊は自らの意志でエアリエル号にやってきたのです。私は、彼がそれなりの覚悟でアドビス様の元へ来たと思っています。例え命を失う事になったとしても、彼は決して後悔しないでしょう」
確かにリオーネの言う通りだ。
でも、それではあまりにも哀しすぎる。
シャインはうなずきながら語気鋭く言い返した。
「それはわかっています。だからこそ、ヴィズルにはあんな戦いで命を落として欲しくないのです。復讐のためではなく、今度こそ自分のために生きて欲しいから……」
リオーネがそっと近寄ってきたかと思うと、シャインの肩に腕を回した。
細くて白い優しい指が、子供をあやすように、朝日の斜光のように淡く光るシャインの金髪を梳く。
リオーネにとってシャインは、自分の子供みたいなものなのかもしれない。
姉であるリュイーシャが死んでしまったので、遺されたシャインの面倒は、必然的にリオーネの役目になってしまったのだ。
幼い頃からずっと見ていてくれたリオーネは、シャインにとって頭が上がらない存在だ。小さくすすり泣き出したリオーネを、シャインはただ申し訳なく思いながら、そのほっそりした肩に左手を添えた。
リオーネは肩を震わせながら、ゆっくりと顔をあげた。
血の気を失い磁器のように白い頬に、一筋涙が伝い落ちて流れた。
「シャイン、だからといって、あなたが戻ったところで今更
何が
できるというの? アドビス様は、あなたを自分の私怨に彩られた愚かな戦いに巻きこんだことを悔いて、それでロワールハイネス号に乗せたのよ。どうか、あの方の気持ちを分かって――」シャインはリオーネの肩に置いた自らの手に力を込めて、彼女の体をそっと引き離した。微熱とは違った熱い憤りが胸の内に湧いてくるのが分かる。それはあまりにも子供じみた感情だった。
「リオーネさん。俺はその言葉を、あの人の
口
から聞きたかった」「シャイン!」
封じたと思ったアドビスに対する感情が再び頭をもたげてくる。ぐらつく自分の気持ちに腹立たしさを覚えながら、シャインは吐き捨てるようにつぶやいた。
「あの人が自分の過去の清算をするというのなら、俺はそれを止めません。むしろ今はそれを望みます。……ロワール!」
シャインはきびすを返して部屋の奥――執務机の傍らに立っているロワールに声をかけた。リオーネが咄嗟に視線をロワールへ向ける。リオーネは術者だからロワールの存在に気付いて当然だ。
「一緒に来てくれ。君の力が必要なんだ」
「シャイン、その精霊に船の向きを変えさせるつもりなのね。あなたがそう出るのなら、私も……」
「リオーネさんとおっしゃったかしら」
ロワールは水色の瞳をひそめながら、静かに部屋の奥から歩み出てシャインの隣に寄り添った。
「これだけは言っておくわ。私はシャインを、私を任せるに相応しい者として認めたの。だから私はシャインの指示に従う。あなたが逆風を呼びつけても、私はシャインの為に前に進み続ける。何があってもね」
「……」
リオーネは唇を噛みしめ、ひたとロワールを見つめ続けている。
ロワールも負けじとリオーネを睨みつけている。
「ロワール、ありがとう」
シャインは内心安堵しながらロワールに声をかけた。ひょっとしたらリオーネと同じように、心配するあまり反対されるかもしれないと思っていたからだ。
リオーネは左右に頭を振り悲しげに瞳を伏せた。
「どうして……どうして? シャイン、あの海賊はあなたを捕らえ、一時とは言えど、あなたに不自由な思いをさせたのでしょう? その腕の怪我だって」
「これは彼のせいではありません。けれど……リオーネさん」
シャインはすがるような目で見上げたリオーネに、ふっと笑いかけた。
「ヴィズルは……あっちはそう思っていないだろうけど、俺にとって初めてできた、
人間の
友達なんです。だから俺は、ヴィズルの為に戻ります」リオーネが一瞬両目を見開いた。
「シャイン」
シャインはリオーネに軽く頭を下げて、航海服の袂を左手で押さえながら足早に艦長室を出た。後からついてきたロワールが出たのを確認し、背中で扉を押して閉める。
シャインはしばし艦長室の扉に背を預け、脳裏に自ら言い放った先程の言葉を思い返した。自分で言うのもなんだが、その単語はとてもこそばゆく感じた。
ヴィズルはきっとシャインの事をそういう風には思っていないだろう。だがヴィズルほど真剣に、物事に流されたままでいるシャインの生き方を、指摘してくれた人はいなかった。
ヴィズルがいれば、今まで考えもしなかったもっと広い世界が見えるような気がした。現状に満足し、変わる事を望まず、すべてを諦めていた自分が、その先の未来に思いを馳せてみる気になった。
『俺とあんたが組んで季節物を運べば、一獲千金も夢じゃないぞ。シャイン、軍人なんかやめて俺の船に乗れよ。いつだって歓迎するぜ』
「シャイン、大丈夫?」
ロワールにそっと左手をつかまれ、シャインは我に返った。
「ああ……ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
シャインはまっすぐ自分を見つめるロワールに小さく微笑した。
「ロワール、さっきはありがとう。君に反対されたら、俺は実力行使でこの船を奪わなくてはならなかった」
ロワールはにんまりと笑みを浮かべ、ゆっくりと首を振った。
「私もヴィズルの事が気になってたから……。確かに、ヴィズルは私をこのロワールハイネス号から無理矢理引き離そうとしたり、子供扱いしたり、ホント嫌な事ばっかりしたけど……だけど」
ロワールはうなずいた。
「このまま見殺しにするのは、すっごく後味悪いわ。だって、私がヴィズルをエアリエル号に行かせたようなものだもん。ごめんね、シャイン。あなたはヴィズルを逃がそうとしていたのに」
「いや、いいよ。気にしてない。それよりロワール」
シャインは黙って見上げるロワールに視線を落とした。
「これからロワールハイネス号の向きを変えてくれるかい? 俺は甲板に上がってジャーヴィス副長に事情を説明してくる。彼も乗っているんだろう?」
「ええ。じゃ、すぐにそうするわ。でも……ジャーヴィス副長、引き返す事に納得してくれるかしら」
ロワールの懸念をきいて、シャインは肩をすくめた。
「だから
先
に、船の向きを変えるんじゃないか」