4-28 レイディ・グローリア(2)
文字数 3,321文字
「ええ。私はこのグローリアス号の船の精霊ではありません。船長の気分によって、また別の船に行くかもしれません。それに……私が生まれた船はどんなもので、どんな人達が私に乗っていたのか……もう随分昔の事だから忘れてしまった……」
シャインから視線を外したグローリアの瞳は空虚のようだった。きっとこの船に連れてこられた時に、過去の記憶をすべて失ってしまったのだろう。
「ヴィズルがそんなに力ある術者とは知らなかった……」
シャインは思わずため息をついた。彼が船の精霊を見ることができるのはロワールから聞いて知っていたが、それだって、自分と同じように精霊と同調しやすい体質のせいだと思っていたのだ。
「そう。あの男の力は強い。彼には船を動かすための人員はいりません。私達精霊さえいれば、たった一人で、思いのままにどんな船でも操る事ができるのです」
「……」
まったく予想もしなかったヴィズルの正体。そして、それこそヴィズルが、スカーヴィズの跡目を継いで、エルシーア海賊の頭にのし上がった所以だろう。
「じゃあ……ヴィズルは……。自分が船を操るために、精霊達を捕らえて船につけているということなのかい?」
「それだけじゃありません」
グローリアは静かに首を振る。
「私達には様々な特性があります。足の速い者、頑丈な者、波を乗り切る能力に優れた者……。船の精霊の宿っている船は、その特性が強く反映されます。だから、商船で積荷を早く届けるための速力が欲しいと思ったら、足の速い精霊を船につけることで、その船の速力を上げてやることができるのです」
「……」
グローリアからこんな話を聞く事になろうとは。
シャインはすっと血の気が引いていく感覚に襲われた。
右腕の痛みは、腕を切り落としたい程になりまいっているが、そのせいではない。
「それは……間違っているよ。船の精霊は、船を愛する人々の想いで命を与えられるんだって、俺に教えてくれたレイディがいた。だから自分は存在するのだと――。船の精霊は望まれて生まれるんだ。だから、その人達の想いから離れた時、船の精霊に訪れるのは……」
辺りの闇に溶けてしまいそうなくらい、はかない印象を感じるグローリアの体。シャインはロワールを思い浮かべていた。同じ船の精霊であるはずなのに、グローリアの生気を感じない様は何故だろう。
その理由はただ一つ。
「君を愛してくれない船に留まれば、いつか消えてしまうよ。グローリア……」
「……」
グローリアはそっと両手で顔を覆った。そのほっそりしたむき出しの肩が震えたかと思うと、彼女は滑り落ちるように両膝を床についた。
「グローリア、すまない。君にはわかりすぎている事だよね。君が触れて欲しくないことを、無理矢理聞いて本当にすまない……」
グローリアは依然両手で顔を覆ったまま体を震わせていた。どうすれば彼女の傷ついた心を慰めることができるだろう。シャインは息をついた。
船の精霊を、まるでパーツの様に扱うヴィズルのやり方は許せない。何がなんでもヴィズルに会って、話をしなくてはならない。シャインは考えるより先に口走っていた。
「グローリア、希望を捨てては駄目だよ。俺がヴィズルと交渉して、何ならこのグローリアス号を買い取ってもいい。その後で、君が生まれた船を探し出して元に戻してもらうか、もしくは君の事を大切に扱ってくれる人に、船を預ける事だってできる。俺はあきらめないから、君もあきらめないでくれ」
おずおずとグローリアがうつむいた顔を上げた。その頬には真新しい涙の跡が筋を作っている。
「待っててくれ。がんばってみるから」
今はそう言うだけで精一杯なのが悔しいし虚しい。
必ずそうしてあげられるかの確証だってない。
そんなシャインの不安を感じ取ったのか、グローリアの表情は相変わらず強ばったままで、丸い緑の瞳は暗い光をたたえている。
きっと彼女はシャインの言葉を、これっぽちも信じていないのだろう。それは当然といえば当然だ。シャインだって彼女と同じく囚われの身なのだから。
シャインは寄り掛かっていた壁板に頭をもたせかけて目を閉じた。
腕が痛い。腫れてきた右手が、手枷を内側から圧迫しているのだ。
ティレグが立ち去ってからどれ程の時間がすぎただろうか。もはやその存在すら忘れていた料理らしき皿を置いていった事を思い出しながら、次の食事の時間になって誰か来たら、腕を冷やすために水桶を用意してもらえないか頼もうと考えた。
もっとも、次もティレグが来たらその要求は通らない可能性があるが。
「……ごめんなさい」
グローリアのか細い声がすぐ近くで聞こえた。冷たい空気みたいなものが右腕に触れる気配がする。
シャインはゆっくりまぶたを開いた。先程まで自分の正面にいたグローリアが、何時の間にか右隣に座り込んでいる。
「私がもっと早くティレグを止めればよかったのに。ごめんなさい」
グローリアの細い若木のような両手が、シャインの枷がはまった右手首の上に覆うように乗っている。それはとてもひんやりしていて、火照った腕の熱をとってくれるようだった。
「ありがとう。すごく楽になったよ」
「……」
グローリアは首をふった。その視線はシャインの腕に向けられたままだ。
「どうして――私にあんなことを言ってくれたの?」
暫しの沈黙の後、シャインの腕に両手をのせたままぽつりとグローリアが言った。
「どうしてって……それが、船の精霊の本来あるべき姿だと俺は思っているからだ。違うかい?」
シャインがそう答えると、グローリアは黙ってうなずいた。
「私、あなたのその気持ちがうれしかった。すごく……。それだけで救われた気になりました。だから、私のことは気にしないで下さい。多分、大丈夫……」
「グローリア?」
グローリアは目をこすって穏やかな笑みをシャインに向けた。
「あなたはまず、自分の船の元へ帰ることが先決ですよ。本当はあなたをマスターに持つあの子がうらやましいけれど」
シャインははっとした。
「君は、ロワールを知っているのかい?」
グローリアは大きく目を見開いて、身を強ばらせた。気まずそうに。
「あ、あの……私、あなたが眠っている時のぞいてしまったんです。あなたが見ていた夢を。そうしたら、船長が捕らえてきた精霊の顔と同じだったから……それで」
シャインは肌が粟立つ感覚に襲われた。つかんだロワールの消息を手放したくない一心で叫んでいた。
「それで、ロワールは無事なのか? 知っていたら教えてくれないか!」
グローリアは眉間をしかめて悲しそうにシャインを見上げた。
「それは――わかりません」
「どうして? さっき君は言ったじゃないか。ヴィズルが捕らえてきたロワールを見たって」
グローリアはかぶりを振った。
「彼女を見たのはもう数週間前になります。それに船長に捕まった以上、遅かれ早かれ、元の船から離されて、私のように売られるのが運命――」
「……!」
シャインはやり場のない怒りに体の奥が熱く燃えるのを覚えた。何より悔しいのは、ヴィズルがこの船に乗っているというのに、彼と話すことができないからだ。
「俺は、
まどろんでいた時に見た夢の光景が脳裏に浮かんだ。
夕焼け色の鮮やかな長い髪を風になびかせながら、青い海原の彼方を眺めている彼女がゆっくりと振り返る。
『あなたは、“ロワールハイネス号”さえあればいいんでしょ?』
これは先の未来を暗示しているのだろうか。
ロワールならこんなことを言うはずがない。
誰よりもシャインの心を知る彼女が――。
ひやりとしたグローリアの細い指が、汗に濡れたシャインの額にかかる前髪を払ってくれた。シャインはされるまま再び目を閉じた。
今はどうすることもできない。
取りあえず当初の目的通り、ヴィズルの船に乗る事はできたのだ。後はヴィズルに会うチャンスを見極めて、それを逃さないようにしなければならない。
「グローリア」
「……なんですか?」
落ち着き払った少女の声が答える。
「君のこと……俺はあきらめないから……」
「……」
精霊の気配はしばらく消えなかった。
シャインから視線を外したグローリアの瞳は空虚のようだった。きっとこの船に連れてこられた時に、過去の記憶をすべて失ってしまったのだろう。
「ヴィズルがそんなに力ある術者とは知らなかった……」
シャインは思わずため息をついた。彼が船の精霊を見ることができるのはロワールから聞いて知っていたが、それだって、自分と同じように精霊と同調しやすい体質のせいだと思っていたのだ。
「そう。あの男の力は強い。彼には船を動かすための人員はいりません。私達精霊さえいれば、たった一人で、思いのままにどんな船でも操る事ができるのです」
「……」
まったく予想もしなかったヴィズルの正体。そして、それこそヴィズルが、スカーヴィズの跡目を継いで、エルシーア海賊の頭にのし上がった所以だろう。
「じゃあ……ヴィズルは……。自分が船を操るために、精霊達を捕らえて船につけているということなのかい?」
「それだけじゃありません」
グローリアは静かに首を振る。
「私達には様々な特性があります。足の速い者、頑丈な者、波を乗り切る能力に優れた者……。船の精霊の宿っている船は、その特性が強く反映されます。だから、商船で積荷を早く届けるための速力が欲しいと思ったら、足の速い精霊を船につけることで、その船の速力を上げてやることができるのです」
「……」
グローリアからこんな話を聞く事になろうとは。
シャインはすっと血の気が引いていく感覚に襲われた。
右腕の痛みは、腕を切り落としたい程になりまいっているが、そのせいではない。
「それは……間違っているよ。船の精霊は、船を愛する人々の想いで命を与えられるんだって、俺に教えてくれたレイディがいた。だから自分は存在するのだと――。船の精霊は望まれて生まれるんだ。だから、その人達の想いから離れた時、船の精霊に訪れるのは……」
辺りの闇に溶けてしまいそうなくらい、はかない印象を感じるグローリアの体。シャインはロワールを思い浮かべていた。同じ船の精霊であるはずなのに、グローリアの生気を感じない様は何故だろう。
その理由はただ一つ。
「君を愛してくれない船に留まれば、いつか消えてしまうよ。グローリア……」
「……」
グローリアはそっと両手で顔を覆った。そのほっそりしたむき出しの肩が震えたかと思うと、彼女は滑り落ちるように両膝を床についた。
「グローリア、すまない。君にはわかりすぎている事だよね。君が触れて欲しくないことを、無理矢理聞いて本当にすまない……」
グローリアは依然両手で顔を覆ったまま体を震わせていた。どうすれば彼女の傷ついた心を慰めることができるだろう。シャインは息をついた。
船の精霊を、まるでパーツの様に扱うヴィズルのやり方は許せない。何がなんでもヴィズルに会って、話をしなくてはならない。シャインは考えるより先に口走っていた。
「グローリア、希望を捨てては駄目だよ。俺がヴィズルと交渉して、何ならこのグローリアス号を買い取ってもいい。その後で、君が生まれた船を探し出して元に戻してもらうか、もしくは君の事を大切に扱ってくれる人に、船を預ける事だってできる。俺はあきらめないから、君もあきらめないでくれ」
おずおずとグローリアがうつむいた顔を上げた。その頬には真新しい涙の跡が筋を作っている。
「待っててくれ。がんばってみるから」
今はそう言うだけで精一杯なのが悔しいし虚しい。
必ずそうしてあげられるかの確証だってない。
そんなシャインの不安を感じ取ったのか、グローリアの表情は相変わらず強ばったままで、丸い緑の瞳は暗い光をたたえている。
きっと彼女はシャインの言葉を、これっぽちも信じていないのだろう。それは当然といえば当然だ。シャインだって彼女と同じく囚われの身なのだから。
シャインは寄り掛かっていた壁板に頭をもたせかけて目を閉じた。
腕が痛い。腫れてきた右手が、手枷を内側から圧迫しているのだ。
ティレグが立ち去ってからどれ程の時間がすぎただろうか。もはやその存在すら忘れていた料理らしき皿を置いていった事を思い出しながら、次の食事の時間になって誰か来たら、腕を冷やすために水桶を用意してもらえないか頼もうと考えた。
もっとも、次もティレグが来たらその要求は通らない可能性があるが。
「……ごめんなさい」
グローリアのか細い声がすぐ近くで聞こえた。冷たい空気みたいなものが右腕に触れる気配がする。
シャインはゆっくりまぶたを開いた。先程まで自分の正面にいたグローリアが、何時の間にか右隣に座り込んでいる。
「私がもっと早くティレグを止めればよかったのに。ごめんなさい」
グローリアの細い若木のような両手が、シャインの枷がはまった右手首の上に覆うように乗っている。それはとてもひんやりしていて、火照った腕の熱をとってくれるようだった。
「ありがとう。すごく楽になったよ」
「……」
グローリアは首をふった。その視線はシャインの腕に向けられたままだ。
「どうして――私にあんなことを言ってくれたの?」
暫しの沈黙の後、シャインの腕に両手をのせたままぽつりとグローリアが言った。
「どうしてって……それが、船の精霊の本来あるべき姿だと俺は思っているからだ。違うかい?」
シャインがそう答えると、グローリアは黙ってうなずいた。
「私、あなたのその気持ちがうれしかった。すごく……。それだけで救われた気になりました。だから、私のことは気にしないで下さい。多分、大丈夫……」
「グローリア?」
グローリアは目をこすって穏やかな笑みをシャインに向けた。
「あなたはまず、自分の船の元へ帰ることが先決ですよ。本当はあなたをマスターに持つあの子がうらやましいけれど」
シャインははっとした。
「君は、ロワールを知っているのかい?」
グローリアは大きく目を見開いて、身を強ばらせた。気まずそうに。
「あ、あの……私、あなたが眠っている時のぞいてしまったんです。あなたが見ていた夢を。そうしたら、船長が捕らえてきた精霊の顔と同じだったから……それで」
シャインは肌が粟立つ感覚に襲われた。つかんだロワールの消息を手放したくない一心で叫んでいた。
「それで、ロワールは無事なのか? 知っていたら教えてくれないか!」
グローリアは眉間をしかめて悲しそうにシャインを見上げた。
「それは――わかりません」
「どうして? さっき君は言ったじゃないか。ヴィズルが捕らえてきたロワールを見たって」
グローリアはかぶりを振った。
「彼女を見たのはもう数週間前になります。それに船長に捕まった以上、遅かれ早かれ、元の船から離されて、私のように売られるのが運命――」
「……!」
シャインはやり場のない怒りに体の奥が熱く燃えるのを覚えた。何より悔しいのは、ヴィズルがこの船に乗っているというのに、彼と話すことができないからだ。
「俺は、
ロワールのいない
ロワールハイネス号を取り戻しにきたんじゃない!」まどろんでいた時に見た夢の光景が脳裏に浮かんだ。
夕焼け色の鮮やかな長い髪を風になびかせながら、青い海原の彼方を眺めている彼女がゆっくりと振り返る。
『あなたは、“ロワールハイネス号”さえあればいいんでしょ?』
これは先の未来を暗示しているのだろうか。
ロワールならこんなことを言うはずがない。
誰よりもシャインの心を知る彼女が――。
ひやりとしたグローリアの細い指が、汗に濡れたシャインの額にかかる前髪を払ってくれた。シャインはされるまま再び目を閉じた。
今はどうすることもできない。
取りあえず当初の目的通り、ヴィズルの船に乗る事はできたのだ。後はヴィズルに会うチャンスを見極めて、それを逃さないようにしなければならない。
「グローリア」
「……なんですか?」
落ち着き払った少女の声が答える。
「君のこと……俺はあきらめないから……」
「……」
精霊の気配はしばらく消えなかった。