【第4話・序章】20年前(終)
文字数 2,494文字
ごうごう……。
ヴィズルの耳元でうなり声がした。
寒い。
ヴィズルは背中を丸め、更に身を縮めるが、体温はどんどん外へ逃げていく。
ごうごう……。
耳元をかすめるその声は、一向に止もうとしない。
「……」
ヴィズルは目を開けた。とたん、声はその音量を増した。
――風。風が吹き荒れている。狂った嵐のように。
ヴィズルは何度かまばたきを繰り返し、その音に驚きながら、おずおずと体を起こした。
「どうして……オレ、こんなところに?」
そこは浜辺だった。アジトがある島の。
ヴィズルは波打ち際から、ざっと七、八リールほど陸の方に引き上げられた、ガグンラーズ号のボートの中で眠っていたのだった。
だがそんなことに気が付いたのは、もう少し後になってからだった。
ヴィズルは闇に覆われた空と、無気味に泡立つ海へ釘付けになっていた。
満月だった<ソリン>はどこにも見えなかった。天の中心へ雲が吸い込まれるように渦巻き、ときおり青白い雷鳴が二度、三度ときらめく。
海は波と波がぶつかって、真っ白に濁っていた。風にあおられて、島の湾内だというのにその波は軽く五リールの高さを越えている。
「こんなの、初めてだ……」
ヴィズルは頭上を走る不気味な稲妻に一瞬身を強ばらせ、ボートの中からこわごわと見渡した。
ボートは幹に繊維のような毛を生やしている、背の高い木々のそばに置かれていた。青々としたその長細い葉が、まるで悲鳴のように高い音で擦れ合い、押し倒す勢いの風に吹かれて、幹が大きく陸地の方へよじれ、しなっている。
「あっ!」
ボートの縁に両手でつかまり、飛ばされないよう体を支えていたヴィズルは、海上できらめいた雷鳴の中に船影を見つけた。
島から少し突き出た岬の先の、錨地に停泊していたガグンラーズ号である。
よくよく波間をこらして見てみると、他にも三本マストの船や二本マストの船が、約十隻ほど船体をはげしく波にもまれながら浮かんでいる。
その刹那。ヴィズルは天にできた渦状の厚い雲の真下の海に、同じような渦ができているのを見た。そして引き寄せられるように、ガグンラ-ズ号が渦の中に入っていくのを。
「船がっ……!」
ヴィズルの見ている前で、飛沫を上げて渦巻くそれは、貪欲な食欲を満たすようにガグンラーズ号のマストを砕き、船体を引き裂いた。ヴィズルの知らない他の海賊船も、信じられない早さで巻き込まれ、同じ運命を次々とたどっていく。
波に押しつぶされるガグンラ-ズ号の音が、風に乗って聞こえたような気がした。
ヴィズルは呆然とその恐ろしい光景を見ていた。しかし天の怒りはまだおさまらないのか、島の木々が風の力に耐えきれず、めりめりと音を立てて倒れていくのが聞こえる。
ごうごう……。ごうごう……。
ヴィズルは心底から恐怖を感じた。ボートの底に身を横たえて、足を縮め、肩を両手で抱いた。何もかも閉め出したくて目を閉じる。風が体温を奪っていくので歯ががちがち鳴った。
一体、どうなったんだろう。どうしてこんなことが起きたんだろう。
ヴィズルは目を閉じたまま、今自分が置かれた状況を忘れようとして、全く別の事を考えようとした。
『怖い事は無視して、楽しい事を思い浮かべるんだ……』
そう思ったヴィズルの頭の中に、今朝方仲良く談笑していたスカーヴィズとアドビスの顔が鮮やかに浮かんできた。
「うわあああああっ!!」
ヴィズルは氷のような冷たい手で、心臓をわし掴みされた気がして目を見開いた。
一瞬にして思い出した。
虚空を見つめるガラス玉のようなスカ-ヴィズの瞳。溢れていた血……。
黒い影――アドビスが握っていた短剣から、それはぽたぽたと滴っていた。
アドビス……どうして、どうして船長を?
ヴィズルは一層身を震わせて歯を鳴らした。
見開いたままの目から、静かに涙がとめどなく流れ落ちてゆく。
ヴィズルはすすり泣いた。声を上げて泣き叫んだ。
足が冷たくて、それをさすろうとしたとき、ズボンのポケットに何か固いものが当たった。
『お前にやろうと思って……これを持ってきた』
ヴィズルは思わず唇を噛みしめ、ポケットの中に入っていた本を取り出した。
そしてそれを両手で握りしめて胸に抱くと、再び嗚咽した。
――オレは、あんたのことが好きだったんだ。
とても、とても……好きだったんだ。
それなのに……!
ごうごう……。ごうごう……。
風はヴィズルをあざ笑うように、その声をかき消した。
青白い雷鳴がひらめき、荒れ狂う波と激しい嵐は、その夜中続いた。
翌朝ヴィズルは、ボートの中で眠っていた所を副船長ティレグに発見された。ティレグを含め、島のアジトにいた海賊達は、昨夜の嵐をなんとか逃れていたのだった。
だが無事を喜ぶ暇もなく、その日の午前中に、彼等のアジトはエルシーア海軍に急襲される。島に留まっていた海賊達は、成す術もなく次々と捕らえられ、抵抗するものは一刀の下へ斬り捨てられた。
その後、エルシーア海軍は本格的に海賊掃討へ乗り出す。
アドビス・グラヴェールは完成した1等軍艦アストリッド号の指揮を任され、エルシーア海賊を一掃すべく、海賊拿捕専門艦隊『ノーブルブルー』を作る。
エルシーア海に多い時では五百隻あまりいた海賊船は、アドビスの働きで、一年と経たないうちにその姿を消していった。
しかし、月影のスカーヴィズの副船長をしていた<赤熊のティレグ>と、かつてアドビスをとても慕っていた<拾いっ子・ヴィズル>は、海軍の包囲網をすりぬけて、東方連国へその身を潜ませていたのだった。
そして、歳月だけがとうとうと過ぎていった。
――二十年。
波頭のように輝く銀髪をなびかせ、夜の海色の双眸を持つ青年は、波をきって進む船の舳先の前に立ち、感慨深気に水平線を眺めた。
望遠鏡の丸い窓から見えるのは、こんもり緑が生い茂るちっぽけな島。
白い砂浜には朽ちてばらばらになったボートの木片が散乱している。
「帰ってきたぜ」
口元を歪め、にやりとヴィズルはつぶやいた。
【第4話・序章】 20年前 -完-
・・・第4話本編へと続く
ヴィズルの耳元でうなり声がした。
寒い。
ヴィズルは背中を丸め、更に身を縮めるが、体温はどんどん外へ逃げていく。
ごうごう……。
耳元をかすめるその声は、一向に止もうとしない。
「……」
ヴィズルは目を開けた。とたん、声はその音量を増した。
――風。風が吹き荒れている。狂った嵐のように。
ヴィズルは何度かまばたきを繰り返し、その音に驚きながら、おずおずと体を起こした。
「どうして……オレ、こんなところに?」
そこは浜辺だった。アジトがある島の。
ヴィズルは波打ち際から、ざっと七、八リールほど陸の方に引き上げられた、ガグンラーズ号のボートの中で眠っていたのだった。
だがそんなことに気が付いたのは、もう少し後になってからだった。
ヴィズルは闇に覆われた空と、無気味に泡立つ海へ釘付けになっていた。
満月だった<ソリン>はどこにも見えなかった。天の中心へ雲が吸い込まれるように渦巻き、ときおり青白い雷鳴が二度、三度ときらめく。
海は波と波がぶつかって、真っ白に濁っていた。風にあおられて、島の湾内だというのにその波は軽く五リールの高さを越えている。
「こんなの、初めてだ……」
ヴィズルは頭上を走る不気味な稲妻に一瞬身を強ばらせ、ボートの中からこわごわと見渡した。
ボートは幹に繊維のような毛を生やしている、背の高い木々のそばに置かれていた。青々としたその長細い葉が、まるで悲鳴のように高い音で擦れ合い、押し倒す勢いの風に吹かれて、幹が大きく陸地の方へよじれ、しなっている。
「あっ!」
ボートの縁に両手でつかまり、飛ばされないよう体を支えていたヴィズルは、海上できらめいた雷鳴の中に船影を見つけた。
島から少し突き出た岬の先の、錨地に停泊していたガグンラーズ号である。
よくよく波間をこらして見てみると、他にも三本マストの船や二本マストの船が、約十隻ほど船体をはげしく波にもまれながら浮かんでいる。
その刹那。ヴィズルは天にできた渦状の厚い雲の真下の海に、同じような渦ができているのを見た。そして引き寄せられるように、ガグンラ-ズ号が渦の中に入っていくのを。
「船がっ……!」
ヴィズルの見ている前で、飛沫を上げて渦巻くそれは、貪欲な食欲を満たすようにガグンラーズ号のマストを砕き、船体を引き裂いた。ヴィズルの知らない他の海賊船も、信じられない早さで巻き込まれ、同じ運命を次々とたどっていく。
波に押しつぶされるガグンラ-ズ号の音が、風に乗って聞こえたような気がした。
ヴィズルは呆然とその恐ろしい光景を見ていた。しかし天の怒りはまだおさまらないのか、島の木々が風の力に耐えきれず、めりめりと音を立てて倒れていくのが聞こえる。
ごうごう……。ごうごう……。
ヴィズルは心底から恐怖を感じた。ボートの底に身を横たえて、足を縮め、肩を両手で抱いた。何もかも閉め出したくて目を閉じる。風が体温を奪っていくので歯ががちがち鳴った。
一体、どうなったんだろう。どうしてこんなことが起きたんだろう。
ヴィズルは目を閉じたまま、今自分が置かれた状況を忘れようとして、全く別の事を考えようとした。
『怖い事は無視して、楽しい事を思い浮かべるんだ……』
そう思ったヴィズルの頭の中に、今朝方仲良く談笑していたスカーヴィズとアドビスの顔が鮮やかに浮かんできた。
「うわあああああっ!!」
ヴィズルは氷のような冷たい手で、心臓をわし掴みされた気がして目を見開いた。
一瞬にして思い出した。
虚空を見つめるガラス玉のようなスカ-ヴィズの瞳。溢れていた血……。
黒い影――アドビスが握っていた短剣から、それはぽたぽたと滴っていた。
アドビス……どうして、どうして船長を?
ヴィズルは一層身を震わせて歯を鳴らした。
見開いたままの目から、静かに涙がとめどなく流れ落ちてゆく。
ヴィズルはすすり泣いた。声を上げて泣き叫んだ。
足が冷たくて、それをさすろうとしたとき、ズボンのポケットに何か固いものが当たった。
『お前にやろうと思って……これを持ってきた』
ヴィズルは思わず唇を噛みしめ、ポケットの中に入っていた本を取り出した。
そしてそれを両手で握りしめて胸に抱くと、再び嗚咽した。
――オレは、あんたのことが好きだったんだ。
とても、とても……好きだったんだ。
それなのに……!
ごうごう……。ごうごう……。
風はヴィズルをあざ笑うように、その声をかき消した。
青白い雷鳴がひらめき、荒れ狂う波と激しい嵐は、その夜中続いた。
翌朝ヴィズルは、ボートの中で眠っていた所を副船長ティレグに発見された。ティレグを含め、島のアジトにいた海賊達は、昨夜の嵐をなんとか逃れていたのだった。
だが無事を喜ぶ暇もなく、その日の午前中に、彼等のアジトはエルシーア海軍に急襲される。島に留まっていた海賊達は、成す術もなく次々と捕らえられ、抵抗するものは一刀の下へ斬り捨てられた。
その後、エルシーア海軍は本格的に海賊掃討へ乗り出す。
アドビス・グラヴェールは完成した1等軍艦アストリッド号の指揮を任され、エルシーア海賊を一掃すべく、海賊拿捕専門艦隊『ノーブルブルー』を作る。
エルシーア海に多い時では五百隻あまりいた海賊船は、アドビスの働きで、一年と経たないうちにその姿を消していった。
しかし、月影のスカーヴィズの副船長をしていた<赤熊のティレグ>と、かつてアドビスをとても慕っていた<拾いっ子・ヴィズル>は、海軍の包囲網をすりぬけて、東方連国へその身を潜ませていたのだった。
そして、歳月だけがとうとうと過ぎていった。
――二十年。
波頭のように輝く銀髪をなびかせ、夜の海色の双眸を持つ青年は、波をきって進む船の舳先の前に立ち、感慨深気に水平線を眺めた。
望遠鏡の丸い窓から見えるのは、こんもり緑が生い茂るちっぽけな島。
白い砂浜には朽ちてばらばらになったボートの木片が散乱している。
「帰ってきたぜ」
口元を歪め、にやりとヴィズルはつぶやいた。
【第4話・序章】 20年前 -完-
・・・第4話本編へと続く