4-78 願い

文字数 3,913文字

『ロワール。もしも、俺の声が聞こえたなら――』


  ◇


「船倉を確認しましたが、誰もいません!」
「うむ」
「怪しいものもありませーん」
「わかった、引き続き船内を捜索しろ」

 ロワ-ルハイネス号の舵輪の側に立ったカーライトの前へ、海兵隊員が各自報告しにやってくる。

「本当にグラヴェール艦長

、この船に乗っていなかったのか?」

 カーライトはため息を漏らし、視線を左舷側の海へと向けた。
 周囲は夜の帳が下りて双子の月も出ていないので真っ暗だ。ロワ-ルハイネス号と数十リールしか離れていない場所にいるエアリエル号の存在も、周りより濃い影が見えることで、やっと判別できるかどうかだ。

「残るは船尾とその下甲板だな」

 カーライトは両腕を組んで闇を見つめた。船内を全部捜索したら、グラヴェール中将に報告をしなければならないと思いながら。


  ◇


「ヴィズルー、あの人たち船尾に行ったわよ」

 ロワールはロワールハイネス号の船首右舷側の手すりに身を乗り出し、海面に向かって呼びかけた。

『またかよ、しつこい連中だな』

 ロワールの胸の内にヴィズルの思考が響いてくる。
 よくよく耳をすませないと水をかく音は甲板まで聞こえないだろう。わずかに水面から銀髪の頭を覗かせて、何時の間にかヴィズルがロワールの覗いている舷側の下に来ていた。

 そう、ヴィズルはロワールハイネス号の船内ではなく

――海にその身を隠していたのだ。

 今夜は幸い月がない。そしてロワールが海兵隊達の動きを逐一教えるので、ヴィズルは船体にそって泳ぎながら隠れ続ける事ができたのだ。

『まったく……なんで俺がこんなことをしなくてはならないんだ……』

 ヴィズルが心の中で悪態をついている。ロワールは真下に潜むヴィズルの頭を見ながらつぶやいた。

「当然でしょ。あなたはシャインと『約束』したんだから。シャインのお父さんと話をするって、神様じゃなくて

に誓ったんだから。もしもその誓いを破るってことになったら、私、あなたを本当に軽蔑する」

 ヴィズルは黙っていた。明確な言葉を表す思考は感じ取れなかったが、そんな誓いをした自分に腹立たしさを覚えているような、いら立ちが漂っている。
 まるで子供のようだ。ロワールはヴィズルにおかしさを感じ、くすりと笑った。

『ロワール、俺の声が聞こえるなら――』

 ロワールは両手を胸の上に合わせて、弾かれたように顔を上げた。

「シャイン!?」

 体に血を送る心臓はロワールにはないが、不意に聞こえたシャインの声で胸の奥が疼き熱くなる。シャインの声は距離があるせいか、切れ切れになってロワ-ルの元へと届く。ロワールはそれを一語一句聞き漏らすまいと集中した。

「――シャイン、いいの? 本当にそれでいいの!?」

 ただその声だけに集中していたロワールは、突如響いてきたヴィズルの思考のせいで我に返った。

『ロワーーーールっ! おい、どうしたんだよ!』
「きゃあっ! 急に大声出さないでよ」

 ロワールは再び舷側から海面を見つめた。
 ヴィズルがいらいらした様子でこちらを見上げている。

「ヴィズル、どうしよう! シャインが……」
『奴が何か言ってきたのか?』

 ロワールは力なくうなずいた。

「シャインが、逃げろって。私で島に向かえって……」
『それだけか?』
「うん。私、呼びかけたんだけど、シャインの声はもう聞こえなくて……」

 ヴィズルはロワールから顔を逸らし、ゆっくりと舳先の方に向かって泳ぎだした。

「ヴィズルっ、どうするのよ。あなた、私で島に帰るの?」
『――馬鹿言え』

 ロワールはヴィズルの姿が見えなくなったので、慌てて反対の左舷側の舷側に向かった。海面を覗き込む。

『ロワール、シャインがそう言ってきたのは、俺をアドビスの野郎と

からだぜ。きっと。アドビスがあの船に乗ってるのは、さっきジャーヴィスが言っていたのを聞いたから間違いねぇ。アドビスがいる以上、誓いを立てさせられた俺は、それを反古にするわけにはいかねえだろ?』

 ヴィズルはロワールハイネス号から離れ、エアリエル号の黒い影に向かって泳いで行く。

「ヴィズル!」

 ロワールは叫んだ。だがヴィズルは泳ぐ早さを緩めない。
 僅かに海面から覗いていた銀髪頭は、周囲の闇と船の影の中に入ったせいで、あっという間に見えなくなった。

「何よ。シャインもヴィズルも……私だけ置いてきぼりにして……」

 ロワールは二人に対する怒りをかきたてた。そうしなければ胸の内に浮かんでくる不安を飲み込むことができなかったから。
 自分が人間なら、ヴィズルと共にシャインの元へくっついて行くのだが――。
 ロワールは船としての自分が、いかに無力なものか痛感せずにはいられず、ぐっと唇を噛みしめた。


 ◇◇◇


 確かにジャーヴィスの目から見ても、そこにいるのはアドビスの姿をした別人のように感じられた。

 ジャーヴィスは板張りの床に片膝をついたまま、その場から動く事ができず、首を締め付けられた痛みも忘れ、小山のように大きなアドビスの広い背中を見つめていた。

 ジャーヴィスが動けなかったのには二つの理由がある。
 一つはアドビスが右手に持った小型の単発銃が、ジャーヴィスを狙っていたから。そしてもう一つは、目の前で繰り広げられている親子喧嘩とは言い難い、壮絶なやり取りに度胆を抜かれたからである。

 アドビスは感情的でその機嫌を損ねると、どんな厄介事に巻き込まれるかわからないと海軍本部で有名なほどだ。その噂は知っていたが、シャインに対するアドビスの仕打ちは限度を超えていた。

 この時ばかりはジャーヴィスも、アドビスに良い感情を持たないシャインの気持ちが理解できた。理解しようとした思った時だった。

「――すまなかったな。ジャーヴィス中尉」

 気まずい静寂を破って、アドビスが重々しく謝罪の言葉を口にした。
 思ってもみなかったアドビスの言葉に、ジャーヴィスは面食らい顔を引きつらせた。

 振り返ったアドビスの表情には先程までの感情に任せた激しさがない。どうやら普段の彼に戻ったようだ。ジャーヴィスはそこでようやく立ち上がった。

「閣下――何故です? 何故、こんなことを……」

 アドビスはジャーヴィスの問いへすぐに答えなかった。
 だがその代わり、右手に持っていた銃を軍服のポケットにしまい込んだ。
 足元に倒れているシャインを一瞥し、無言で傍らに片膝を付くと、床に投げ出された右腕を掴んだ。

「閣下」

 はっと息を飲んだジャ-ヴィスの前で、アドビスはシャインの右腕の袖を肘までずらした。不自然にねじ曲がった血の気のない手首と、緩みかけた包帯から添え木がのぞいている。アドビスがそれを引き抜いてみると、真っ二つに折れていたのか、下半分が落ちて床に当たり、かたんと音を立てた。

 ジャーヴィスは悟った。
 アドビスがシャインの腕をねじ上げた時に聞こえたのは、この添え木が折れて裂けた音だったのだ。

 しかしシャインは、添え木がへし折れるほどの力で、アドビスに痛めた手首をつかまれたのだから、受けたその苦痛は耐え難いものだったに違いない。

 暗いランプの光に照らされたシャインの目蓋は未だ閉じられ、再び開く気配は感じられなかった。青ざめて色を失っている唇の端には、噛み切ったのか、すでに乾き始めた血がこびりついている。

「こうでもしなければ、シャインはアスラトルへ帰らないだろう」

 アドビスはシャインの右手を静かに床へ下ろし、ゆっくりと立ち上がった。

「閣下。まさか閣下は、ご子息の反感を自ら買うために……!」

 アドビスの行動の真意を悟ったジャーヴィスへ、アドビスは再び射すくめるような厳しい視線を即座に向けた。

「そんな綺麗事は言うな、ジャーヴィス中尉。私は何が何でもヴィズルの居場所を知りたかっただけだ」
「ですが、私の襟元にかけた閣下の手は、思ったほど力は込められていませんでした。閣下は本気ではなかった……!」

 対抗するようにアドビスの鋭い瞳を睨みつけると、アドビスはやがて観念したかのように肩をすくめた。

「お前がどう思うのかは自由だ。だが私は――見ての通りだ。私は今まで何度も自分の感情に任せ、シャインを傷つけた。けれどシャインが私から目を背ける事はなかった。私の所為で死なせた妻とおなじ瞳で、敵意に満ちたその目で私を見つめ続けた」

 ジャーヴィスは黙ったまま、目を細め額に手をやるアドビスの横顔をながめた。先程みせた荒々しさがすっかり(なり)を潜めている。アドビスの落ち窪んだ目には、複雑な胸中を思わせるように険しさが薄らぎ、困惑の色に満ちていた。

「私はシャインのその目を見る事で、妻を死なせた罪悪感に責め苛まれる苦痛から、逃れようとしていたのだ。妻は私に何の愚痴も言わず逝ってしまったから……けれど、そんな私の行為は本当に愚かだった」

 アドビスは俯き目を伏せた。それはジャーヴィスが知る中で、唯一アドビスが見せた弱気な表情だったかもしれない。

「閣下……」

 アドビスは俯いたまま目を開いた。

「シャインには今まで苦しい思いばかりさせてきた。けれど、やっと、私という存在から解放してやることができる。随分長くかかってしまったがな」
「中将閣下、それは」

 アドビスはうっすらと唇に微笑を浮かべた。

「ジャーヴィス。私が恥を晒してお前に心境を話したのは、お前という人間を信頼し、その上で頼みがあるからだ」
「頼み……ですか」
「うむ」

 アドビスは数歩、何も家具のない室内を歩き立ち止まると、ジャーヴィスの方へ振り返った。

「お前はシャインとリオーネを連れて、今すぐロワールハイネス号でアスラトルへ帰るのだ。これが私の心からの願いだ。


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