4-48 ストームの餞別

文字数 4,677文字

ティレグはうつ伏せに倒れたまま微動だにしない。

「坊や、大丈夫かい?」
「あ、ああ……」

 シャインはストームの呼び掛けにぎこちなく応じた。
 声がした方へ視線を転じれば、机の下で横に寝そべり、シャインに背を向けていたストームが、何時の間にかこちらの方へ向き直っている。
 眉間にしわというものを作って、心配そうに見つめながら。

 シャインは大きく息をつき、開け放たれた勝手口から入る外の新鮮な空気を肺へ送り込みながら、足元で倒れているティレグの側に膝をついた。
 力の加減は過たず、彼は幸い意識を失っているだけのようだ。

「さ、ティレグが起きないうちに早くお行き」
「……ストーム」

 シャインは感謝を込めた目でストームを見つめた。
 彼女がいなければ、こんなに早く牢から出ることはできなかっただろう。

「ありがとう。あんたは海賊だけど、いい人だ」

 シャインは静かにストームのそばまで近付くと、女物の洋服の裾が膨らむのを左手でさばいて膝をついた。ストームは相変わらずふてぶてしい女海賊といった風体でシャインを見ていたが、その瞳の中の表情は実に優しげであった。
 シャインは目を伏せてその肩に左手を乗せた。

「外へ出るためとはいえ、随分と手荒なことをしてすまなかった」

 シャインがストームの顔を覗き込むと、彼女はそっと首を振った。

「坊や、そんな事気にするんじゃないよ。あんたはあんたなりの理由があってそうしなくちゃならなかった。ま、その気持ちはあたしへの

で表してくれるのが、一番うれしいんだがね」

 ストームらしい言葉にシャインは目を細める。

「本当に

しか興味がないんだな」
 ふん、とストームは鼻を鳴らした。

「金はあたしを裏切らないからね……それに」
「……?」

 シャインは急に口ごもってしまったストームを凝視した。

「それに?」

「金ってやつは無くしてもきっとすぐに取り戻せる。だがあんたの大切なものは、そうはいかないだろう?」

「ストーム……」

「さあ、早くお行き。あんたが無事にこの島から出て行ってくれなきゃ、あたしは金を手にできないし、うちの頭も馬鹿な戦を始めるんだ。さっ!」

 名残惜しい気持ちがないこともない。理由はどうあれ、ストームがシャインを牢から出した事はティレグにばれてしまった。目覚めたティレグがストームをどういう風に扱うだろう。ヴィズルはどうするだろう。
 シャインはとある言葉を口にするべきか迷いながらも立ち上がった。

「ストーム……もし、あんたが望むなら……」
「あたしのことは大丈夫だよ! 自分の身は自分で守れる。あんたのような、ひよっこじゃないんだからね」

 シャインの考えを見透かして、ストームが言葉を続けた。

「あんたと一緒に行けば、また海軍に捕まっちまう。それだけはご免だよ」

 厚い唇を尖らせて睨むストームを見ながら、シャインは青緑の瞳を細めて気弱な笑みを浮かべた。

「……わかった。じゃ、行くことにする」
「ああ。坊や――」

 背を向けたシャインへ、ストームが何か言いたげに声をかけた。
 振り返ると、ストームは相変わらず手を後ろに回して横になったままの姿勢で、シャインを見上げていた。

「もう少し自分を大事にするんだよ。他人を思うあまり、あんたにはあんたの人生があるってことを、忘れちゃいけない」

 シャインはストームの顔を見ながら、うなずくことしかできなかった。

 自分のために今まで何かをしたいと思った事があっただろうか。
 何かを望んだ事はあっただろうか。

 シャインはもう一度だけストームを一瞥すると、前方に血濡れた左手を伸ばして倒れているティレグが、まだ微動だにしないことを確認して、今度こそ振り返らずに外へ出た。

 ティレグの穴の開いた左手からは、まだ赤黒い血が流れ出していた。シャインはその光景を忘れるように、冷たくてその重みが増したように感じられる銃を再び取り出し、左手に強く握りしめた。

 外は月明かりの白い光が、ごつごつした岩と石に覆われた地面を、雑草の類いが一切生えていない険しい崖が前方に続く様を、導灯のように照らしている。
 遠く近く波がその岩場にぶつかり砕かれる音が、絶え間なく聞こえてくる。

 シャインは駆けた。
 ゆるい下りになっているその岩の地面を、道なりにずっと下っていく。
 十五分くらいそれを下りたところで、シャインは立ち止まった。坂はそこで左に曲がり、さらになだらかな下りが闇の中続いている。

 確かストームは、城塞――アジトは崖の上に建っていると言っていた。
 崖ぞいに西へ進んでいけば、おのずとロワールハイネス号を隠している場所へたどり着くと。

 シャインはあがってきた息を整えて上を見上げた。
 ストームの言う通りだ。そこにはヴィズルがアジトにしている城塞が、まるで小山のように、黒い影となって浮かび上がっている。

 その影の中に赤色っぽい光がゆらゆらと光っていた。きっと、大広間の松明の灯りだろう。まだ、それほど遠くへ逃げおおせたわけではない。

 シャインは走ったせいで額に浮かんだ汗を袖でぬぐい、ついでに着ていた女物の洋服を脱ぎ捨てた。潮の香りを伴った風が心地良く、火照った体を冷ましてくれた。

 服をまるめて近くの岩と岩の間へ押し込み、シャインは航海服のポケットに入れた布を再び取り出して右腕を吊った。見てくれは悪いが、やはりだらりと垂らしているのは重くて疲れる。

 今夜は月がとても明るく輝いていた。<銀の月>ソリンの降り注ぐ光のせいで、もう一つの月、ドゥリンはかき消されてしまっている。崖の作る影に身を潜ませて支度を整え、シャインは左手に銃を握りしめた。

『てめぇに俺を撃つ度胸なんてあるもんか!』

「……」

 崖に背を預け、シャインはおもむろに目を閉じた。
 ティレグに銃口を向け、迷う事なく引き金を引いた光景が、まざまざと脳裏に蘇ってきて、思わず息を詰める。

 ――俺は、ためらわなかった。

 額にじっとりと汗が浮かぶ。体が温もったせいではない。
 冷たい、嫌な汗。温もるどころか、むしろ手足の先が感覚を失い、どんどん冷えていく。
 
 殺意はない。けれど、撃った動機が問題なのだ。
 ティレグの口を割らせるために、丸腰の彼を撃った。

 目的を果たすためならば、何だってやる自分がそこにいる――。
 目的を果たすためならば、迷わず人を撃つ事ができる自分。

 ――恐ろしい。

 シャインはその場によろめくように腰を下ろし、膝に顔を埋めると、左手で肩を抱いた。

 どうしてそこまでするのだろう、自分は。
 他者を傷つけてまで、何を求めているのだろう。
 
 何も知らないヴィズルのため?
 あるいは、何も教えてくれないアドビスのため?
 真実を知ったところで、この二人の私怨を消す事はできないかもしれないというのに。

「……」

 シャインは肩を抱く手に力をこめた。
 結局すべては自分のためなのだ。
 自分が願う形のために、他者を傷つけてまで我を通そうとしているのだ。

『他人を思うあまり、あんたにはあんたの人生があるってことを、忘れちゃいけないよ』

 去り際に、まるで餞別のように投げかけてくれたストームの言葉が頭に浮んだ。
 ストームは気付いていたのだろう。
 シャインが他人の事を考えるあまり、自分らしさを見失ってしまう危険を。

 シャインはほんの少しだけ、胸の奥が軽くなったような気がして顔を上げた。
 月に照らされたさざ波が、濃い海面の上で輝いている。紺の天鵞絨をひいた上に、金剛石を砕いてばらまいたように。

 シャインは左手で傍らの岩壁につき、体を支えながら立ち上がった。
 今すべきことはただ一つ。
 そのためにここへ来たのだ。

「ロワール、待っててくれ」

 急がなければ。
 ティレグが目を覚ませば、すぐに自分を追ってくるだろう。

 シャインは緩やかな下り坂を歩き出した。そこを下りきると、さらにごつごつした岩で覆われた崖のふちへたどり着いた。月明かりがあっても、シャインは時々窪みに足を取られて前へ転びそうになった。崖の歩ける幅は二リールばかりあるので、右手の海へ転落することはまずないが、下から吹き上げてくる強い風は、磯場で砕ける波の飛沫をも巻き上げ、容赦なくシャインに降り注ぐ。

 塩水が目に入って痛い。
 左手は岩壁を伝って体を支えているので、顔を覆う事ができない。
 そんな悪路を行くこと十分ばかり。

 シャインは前方に、こんもりと葉を茂らせる木を見た。背丈は二、三リールとあまり高くない。それらの木々は崖の縁にそって生えており、崖の縁は、シャインがいるところから左手に向かって内陸側へ、くさびのようにえぐれている。

 シャインは木の側まで歩み寄ると、崖と崖の間に挟まれているその暗い隙間を上からのぞきこんだ。

 自分の目が見ている光景を、信じられない思いで。
 手を伸ばせば消えてしまわないだろうか。

 木々が落とす影の合間に、黒いマストが三本、天に向かってそびえていた。
 舳先を海側に向けて、船が停泊している。
 そのほっそりした船体のラインと、横帆をかける帆桁が一番前のマストのみついているその船は、まぎれもなくスクーナー型。
 ロワールハイネス号。

 無事だった。
 やっと見つける事ができた。

 それにしても、ヴィズルは随分と凝った場所に船を隠したものだ。
 恐らく昔、スカーヴィズが万一の時に備えて、脱出用の船を隠すために、作った場所なのかもしれないが。

 シャインは木々の間から出ると、周囲を見渡した。
 焦る気持ちを何とか抑えながら。

 ストームの話では、崖を削って作った下に下りる階段があるはずなのだ。
 崖が一番くびれた所まで歩いた時、シャインは木の幹にロープが巻き付いているのを見た。まだ新しい。最近誰かが巻いたのだろうか。

 そこへ駆け寄ってみると、ほとんど垂直の壁に、人工的に削って付けられた足をかけられる窪みが、まるで梯子のように下へと続いている。しかし、ロープの端を手繰り上げ、体に巻き付けていかないと下りるのは無理だろう。

 ――重労働になりそうだな。
 思わず出たため息を噛み殺し、それでもシャインは、木々の黒い影の合間から見えるロワールハイネス号をうっとりと見つめた。

 厚い雲の隙間から差す陽光のように、鬱蒼とした木々の葉の隙間から、青白い月の光がいく筋も、静かに停泊しているロワールハイネス号の甲板に降り注いでいる。

 彼女さえあれば何も望まない。
 唯一自分でいられる特別な場所なのだ。ロワールハイネス号は。

 シャインはロープが巻かれている木の側に行き、だらりと下に落ちているそれを左手で手繰り上げた。引き上げてからいつもより手間取りながら、ロープを腰に結び、後ろ向きになって、左腕にそれを二重ほど巻き付ける。
 崖の高さはざっと四、五十リールぐらいだろうか。大型船のマストのてっぺんに、今いると考えればなじみのある高さだ。

「……?」

 いざ下に下りようとして、シャインはロワールハイネス号の甲板に目をこらした。舵輪がある後部甲板で、何かが動いたような気がしたのだ。

 ロワールだろうか?
 シャインはそれがロワールだと思える確証がなかった。

 影のようなものが動いた気がするが、それは一瞬だったし、これほど船の近くにいるというのに、彼女の気配は全く感じられなかったからだ。

 もしくはロワールが力を失いつつあり、その気配があまりにも弱いので、自分はそれを感じる事ができないだけなのかもしれない。

 シャインは左手で木の幹に巻いたロープの具合を引っ張って確かめると、ゆっくりとだが気持ちは焦りながら崖を下りはじめた。
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