4-105 正装(2)
文字数 3,704文字
◇◇◇
海軍省を後にしたジャーヴィスは辻馬車を拾い、フェメリア通りの『緑の籠』の前でそれを降りた。
黄昏つつある太陽の残照を浴びながら、ジャーヴィスは店の軒先に並べられた切り花の世話をしている少女に声をかけた。
「ちょっとすまないが」
「いらっしゃいませ……あ、貴方さまは」
少女――アルメは緩く巻いた栗色の髪を揺らし、ジャーヴィスに向かってにっこりと微笑んだ。
「先程は失礼いたしました。あの、ひょっとしたらグラヴェール艦長さまが、何か……?」
ジャーヴィスはゆっくりと首を振って、まだ彼に封筒を渡していない件を告げた。
「すまない。艦長は私に行き先を告げず船を降りてしまってね。それで、私も彼を探しているのだ。ひょっとしたら、花の届け先に行っているかもしれないと思ったので、支障がなければ教えてもらえないかと……」
アルメは水色のエルシャンローズを一輪手に取った。
花びらの根元にいくにしたがって、白から青のグラデーションになっているそれは大輪で見事な花だ。
「中央の『大聖堂』です。今日の15時に花を届けるように承っておりました」
「大聖堂……そうか、では行ってみる。ありがとう」
「あ、あの」
アルメに呼び止められジャーヴィスは踵を返した。
「何か?」
先程まで満開のエルシャンローズのように明るかったアルメの顔は、一変してどこか不安げで曇っていた。
「
おずおずとためらいがちに言葉を発したアルメに、ジャーヴィスは眉をしかめた。
「何か支障でも?」
アルメは大きく首を横に振った。
「い、いえ! ただ、花の納品時間からもう二時間ほど経ってますし、グラヴェール艦長さまはひょっとしたら、船の方に戻られているんじゃないかと思っただけなんです。あ、すみません! そんなことで呼び止めてしまいまして」
アルメは深々と頭をジャーヴィスに下げた。
「いやいや。確かにあなたのいう通りかもしれない。艦長は船に戻っていると私も思う。気付いてくれてありがとう」
ジャーヴィスは慌ててアルメに顔を上げるようにいい、もう一度丁寧な礼を述べて花屋『緑の籠』を後にした。そしてすっかり日が暮れたアスラトルの街を、大通りに沿って北に歩いて行った。
アルメの言う通り、シャインはもう船に戻っているかもしれない。
そう思いつつもジャーヴィスの足は、街の中央に立てられた古い『大聖堂』に向かって歩いていた。
その建物はアスラトルの街が出来た遥か数百年前からあったと言われている。
エルシーアの国民は太陽を司るアルヴィーズ神を信仰し、街の中心にかの神を奉る『大聖堂』を建てた。
朝日が当たるときらきらと輝く白い石をいくつも積み上げ、中央は丸天井を戴いた柔らかい印象を与える建物だ。丸天井は陽が差し込むと聖堂内部に薔薇の形をした光が床に映し出される自慢の窓がついている。
アルヴィーズは太陽神のため、日が沈むと参拝客の姿はいなくなる。
反対に日が昇る朝、かの神の恩恵を一番に受けようと、多くの信者が門の前で列をなして待っている。
すでに時は18時となり、傾いた陽は地平線の彼方に吸い込まれようとしているので、当然だが人の気配はない。
ジャーヴィスは金箔が張り付けられた鉄の門扉をくぐり、聖堂の入口へと近付いた。扉は大きな青銅製で、女性の姿をした太陽神が剣を握り、地下の亡者達の王・ミディールと戦う様が見事なレリーフとして刻まれている。すべてを見通す光を持つアルヴィーズは、正義の象徴でもある。
「……」
ジャーヴィスは自然と背筋を伸ばし、息を整えて、丸い把手がついた青銅の扉をゆっくりと開けた。
内部もやはり白い石で組まれた聖堂は、アスラトル中の住人が参拝に来る場でもあるのでとても広い。優に二百名が収容できる。
年代を感じさせる木の長椅子が行く列もならび、前方のちょうど丸天井の真下に当たる所が広場のような円形となっている。
高い丸天井には薔薇の形をした窓があり、太陽が丁度真上から差す時、一番完璧な形で床に薔薇の模様を描くという。
今は日が暮れてしまったので、当然ながら美しき薔薇の形は床に映ってはいない。
そのかわり、天井からぶら下げられた無数の金の燭台に、赤々と蝋燭の灯が灯されていた。
ジャーヴィスは夕方に聖堂を訪れたことがなかったので、昼間とはまた違う光と影の織りなす荘厳な空気にただ溜息を漏らした。
けれど聖堂内は確かに、普段とは違っていたのだ。
聖堂には神々の姿を模した彫像は置かれていない。
特にアルヴィーズ神は薔薇窓から差し込む光こそが御神体とされているので、そこが一番神聖な場所であった。けれど今はその場所を囲むようにして、まるで黒い闇のような塊がいくつも置かれていた。
いや。違う。
蝋燭の明かりに目が慣れると、それはたくさんの黒百合で囲まれているのがわかった。
同時にジャーヴィスは息を詰めた。
黒百合と蝋燭は、死者を悼むために捧げられる供物だ。
その――
およそ二百はあるおびただしい数の黒百合のそばで、誰かが両膝をついて祈りを捧げていた。
蝋燭の明かりが揺れる中でも、ジャーヴィスにはそれが誰かわかった。
彼はエルシーア海軍の白い正装姿だったから。
黒百合の作り出す影の中で、その白はなんだかとても痛々しく見えた。
「……」
ジャーヴィスは静かに黒百合が供えられた聖堂の前方へ足を進めた。
シャインがいつ気付いて後ろを振り返るか。
けれどそんなことどうでもいい。
ジャーヴィスは黙ったままシャインの半歩後方で片膝をついた。
揺れる蝋燭の仄かな明かりのせいか、ちらりと見えたシャインの横顔は纏う海軍の正装と同じように色を失い、目蓋は閉ざされ口は固く結ばれている。
本来胸の前で組まれるべき両手は、左手のみが一輪の黒百合を握りしめてその位置にあった。右手は手首の負傷のせいで動かす事ができないからだ。
ジャーヴィスは意を決して口を開くことにした。
シャインの祈りを邪魔する気はない。
ただ、全てを背負い込もうとする彼の姿を見続けるのが、心情的に忍びなかっただけだ。
だがジャーヴィスが口を開く前に、シャインが気配に気付いたのか目蓋を開けた。蝋燭の揺れる明かりの中で、みるみるその表情が強ばっていく。
「……どうして、ここに」
喉の奥から無理矢理絞り出した掠れ声でシャインがつぶやく。
余程驚いたのか、胸の前に添えられていた左手から黒百合の花がはらりと落ちた。同時にシャインは顔を俯かせ、前に傾いだ体を支えるために左手を大理石の床に付いた。
「大丈夫ですか?」
シャインがこれほど動揺するとは思っていなかった。
ジャーヴィスは咄嗟に彼の肩に手をかけた。
「……離してくれ」
顔を俯かせたまま静かにシャインがつぶやいた。
「しかし」
「大丈夫だから」
シャインの声はジャーヴィスを突き放すように鋭かった。
ジャーヴィスは乾いてきた唇を噛みしめた。
そしてゆっくりとシャインの肩から手を離した。
『これは……あなたのせいじゃない』
唇の先まで出かかったその言葉を、ジャーヴィスは無理矢理喉の奥に飲み込んだ。
その言葉は今のシャインにとってどれほど虚しく響くことか。
自らの意志でこうなる結果を選んだ彼には。
焼けた剣で心臓を抉られるよりも辛い事だろう。
彼に必要なのは慰めの言葉ではない。
ジャーヴィスは静かに口を開いた。
「私も一緒に赦 しを乞わせて下さい。失った命と失わせた命のために」
「……」
シャインの今は昏 い光を宿す青緑の瞳が大きく見開かれた。
「赦しだって? ……俺は、俺はそんなことを、ここで乞う資格などない」
シャインは疲れたように小さく頭を振った。
「そんなことを乞うために、ここにいるんじゃないんだよ。ジャーヴィス」
ジャーヴィスは何も言えなかった。
シャインの背負ったものが不意に見えたからである。それは供えられているおびただしい黒百合の花の数が物語っていた。
物言わぬ黒百合は死者の魂と同じである。
自ら失わせた命を前にして、シャインはただ祈り続ける。
赦しではなく、その魂の平安を祈る。
常夜の闇に迷わず、慈悲の光に導かれ、再び輪廻の輪に戻り、愛しい人達のそばに還る事だけを願い、祈る。
「……」
ジャーヴィスは静かに立ち上がった。
悔しいがここで自分がシャインにしてやれることは何もない。
いや今は誰の言葉も、彼の心には響かないのだ。
「グラヴェール艦長。お邪魔してすみませんでした」
シャインは何も言わず、顔を伏せたままだった。
だが蝋燭の光を受けて鈍く輝く淡い金髪が僅かに揺れた。頷くように。
「お待ちしていますから、今日は必ず船にお戻り下さい」
それだけを静かに告げて、ジャーヴィスはシャインから離れた。
あなたにも帰る場所がある。
それを思い出して欲しかったから。
ジャーヴィスは聖堂の出入口の扉まで戻り、そこで一旦足を止めて振り返った。
覆い被さるような黒百合の花の影で、白い正装姿のシャインは、まるで闇を照らす唯一の灯火のようだった。
さながら迷える魂を導く光のように――。
海軍省を後にしたジャーヴィスは辻馬車を拾い、フェメリア通りの『緑の籠』の前でそれを降りた。
黄昏つつある太陽の残照を浴びながら、ジャーヴィスは店の軒先に並べられた切り花の世話をしている少女に声をかけた。
「ちょっとすまないが」
「いらっしゃいませ……あ、貴方さまは」
少女――アルメは緩く巻いた栗色の髪を揺らし、ジャーヴィスに向かってにっこりと微笑んだ。
「先程は失礼いたしました。あの、ひょっとしたらグラヴェール艦長さまが、何か……?」
ジャーヴィスはゆっくりと首を振って、まだ彼に封筒を渡していない件を告げた。
「すまない。艦長は私に行き先を告げず船を降りてしまってね。それで、私も彼を探しているのだ。ひょっとしたら、花の届け先に行っているかもしれないと思ったので、支障がなければ教えてもらえないかと……」
アルメは水色のエルシャンローズを一輪手に取った。
花びらの根元にいくにしたがって、白から青のグラデーションになっているそれは大輪で見事な花だ。
「中央の『大聖堂』です。今日の15時に花を届けるように承っておりました」
「大聖堂……そうか、では行ってみる。ありがとう」
「あ、あの」
アルメに呼び止められジャーヴィスは踵を返した。
「何か?」
先程まで満開のエルシャンローズのように明るかったアルメの顔は、一変してどこか不安げで曇っていた。
「
どうしても
……大聖堂に行かれるのですか?」おずおずとためらいがちに言葉を発したアルメに、ジャーヴィスは眉をしかめた。
「何か支障でも?」
アルメは大きく首を横に振った。
「い、いえ! ただ、花の納品時間からもう二時間ほど経ってますし、グラヴェール艦長さまはひょっとしたら、船の方に戻られているんじゃないかと思っただけなんです。あ、すみません! そんなことで呼び止めてしまいまして」
アルメは深々と頭をジャーヴィスに下げた。
「いやいや。確かにあなたのいう通りかもしれない。艦長は船に戻っていると私も思う。気付いてくれてありがとう」
ジャーヴィスは慌ててアルメに顔を上げるようにいい、もう一度丁寧な礼を述べて花屋『緑の籠』を後にした。そしてすっかり日が暮れたアスラトルの街を、大通りに沿って北に歩いて行った。
アルメの言う通り、シャインはもう船に戻っているかもしれない。
そう思いつつもジャーヴィスの足は、街の中央に立てられた古い『大聖堂』に向かって歩いていた。
その建物はアスラトルの街が出来た遥か数百年前からあったと言われている。
エルシーアの国民は太陽を司るアルヴィーズ神を信仰し、街の中心にかの神を奉る『大聖堂』を建てた。
朝日が当たるときらきらと輝く白い石をいくつも積み上げ、中央は丸天井を戴いた柔らかい印象を与える建物だ。丸天井は陽が差し込むと聖堂内部に薔薇の形をした光が床に映し出される自慢の窓がついている。
アルヴィーズは太陽神のため、日が沈むと参拝客の姿はいなくなる。
反対に日が昇る朝、かの神の恩恵を一番に受けようと、多くの信者が門の前で列をなして待っている。
すでに時は18時となり、傾いた陽は地平線の彼方に吸い込まれようとしているので、当然だが人の気配はない。
ジャーヴィスは金箔が張り付けられた鉄の門扉をくぐり、聖堂の入口へと近付いた。扉は大きな青銅製で、女性の姿をした太陽神が剣を握り、地下の亡者達の王・ミディールと戦う様が見事なレリーフとして刻まれている。すべてを見通す光を持つアルヴィーズは、正義の象徴でもある。
「……」
ジャーヴィスは自然と背筋を伸ばし、息を整えて、丸い把手がついた青銅の扉をゆっくりと開けた。
内部もやはり白い石で組まれた聖堂は、アスラトル中の住人が参拝に来る場でもあるのでとても広い。優に二百名が収容できる。
年代を感じさせる木の長椅子が行く列もならび、前方のちょうど丸天井の真下に当たる所が広場のような円形となっている。
高い丸天井には薔薇の形をした窓があり、太陽が丁度真上から差す時、一番完璧な形で床に薔薇の模様を描くという。
今は日が暮れてしまったので、当然ながら美しき薔薇の形は床に映ってはいない。
そのかわり、天井からぶら下げられた無数の金の燭台に、赤々と蝋燭の灯が灯されていた。
ジャーヴィスは夕方に聖堂を訪れたことがなかったので、昼間とはまた違う光と影の織りなす荘厳な空気にただ溜息を漏らした。
けれど聖堂内は確かに、普段とは違っていたのだ。
聖堂には神々の姿を模した彫像は置かれていない。
特にアルヴィーズ神は薔薇窓から差し込む光こそが御神体とされているので、そこが一番神聖な場所であった。けれど今はその場所を囲むようにして、まるで黒い闇のような塊がいくつも置かれていた。
いや。違う。
蝋燭の明かりに目が慣れると、それはたくさんの黒百合で囲まれているのがわかった。
同時にジャーヴィスは息を詰めた。
黒百合と蝋燭は、死者を悼むために捧げられる供物だ。
その――
数
だけ。およそ二百はあるおびただしい数の黒百合のそばで、誰かが両膝をついて祈りを捧げていた。
蝋燭の明かりが揺れる中でも、ジャーヴィスにはそれが誰かわかった。
彼はエルシーア海軍の白い正装姿だったから。
黒百合の作り出す影の中で、その白はなんだかとても痛々しく見えた。
「……」
ジャーヴィスは静かに黒百合が供えられた聖堂の前方へ足を進めた。
シャインがいつ気付いて後ろを振り返るか。
けれどそんなことどうでもいい。
ジャーヴィスは黙ったままシャインの半歩後方で片膝をついた。
揺れる蝋燭の仄かな明かりのせいか、ちらりと見えたシャインの横顔は纏う海軍の正装と同じように色を失い、目蓋は閉ざされ口は固く結ばれている。
本来胸の前で組まれるべき両手は、左手のみが一輪の黒百合を握りしめてその位置にあった。右手は手首の負傷のせいで動かす事ができないからだ。
ジャーヴィスは意を決して口を開くことにした。
シャインの祈りを邪魔する気はない。
ただ、全てを背負い込もうとする彼の姿を見続けるのが、心情的に忍びなかっただけだ。
だがジャーヴィスが口を開く前に、シャインが気配に気付いたのか目蓋を開けた。蝋燭の揺れる明かりの中で、みるみるその表情が強ばっていく。
「……どうして、ここに」
喉の奥から無理矢理絞り出した掠れ声でシャインがつぶやく。
余程驚いたのか、胸の前に添えられていた左手から黒百合の花がはらりと落ちた。同時にシャインは顔を俯かせ、前に傾いだ体を支えるために左手を大理石の床に付いた。
「大丈夫ですか?」
シャインがこれほど動揺するとは思っていなかった。
ジャーヴィスは咄嗟に彼の肩に手をかけた。
「……離してくれ」
顔を俯かせたまま静かにシャインがつぶやいた。
「しかし」
「大丈夫だから」
シャインの声はジャーヴィスを突き放すように鋭かった。
ジャーヴィスは乾いてきた唇を噛みしめた。
そしてゆっくりとシャインの肩から手を離した。
『これは……あなたのせいじゃない』
唇の先まで出かかったその言葉を、ジャーヴィスは無理矢理喉の奥に飲み込んだ。
その言葉は今のシャインにとってどれほど虚しく響くことか。
自らの意志でこうなる結果を選んだ彼には。
焼けた剣で心臓を抉られるよりも辛い事だろう。
彼に必要なのは慰めの言葉ではない。
ジャーヴィスは静かに口を開いた。
「私も一緒に
「……」
シャインの今は
「赦しだって? ……俺は、俺はそんなことを、ここで乞う資格などない」
シャインは疲れたように小さく頭を振った。
「そんなことを乞うために、ここにいるんじゃないんだよ。ジャーヴィス」
ジャーヴィスは何も言えなかった。
シャインの背負ったものが不意に見えたからである。それは供えられているおびただしい黒百合の花の数が物語っていた。
物言わぬ黒百合は死者の魂と同じである。
自ら失わせた命を前にして、シャインはただ祈り続ける。
赦しではなく、その魂の平安を祈る。
常夜の闇に迷わず、慈悲の光に導かれ、再び輪廻の輪に戻り、愛しい人達のそばに還る事だけを願い、祈る。
「……」
ジャーヴィスは静かに立ち上がった。
悔しいがここで自分がシャインにしてやれることは何もない。
いや今は誰の言葉も、彼の心には響かないのだ。
「グラヴェール艦長。お邪魔してすみませんでした」
シャインは何も言わず、顔を伏せたままだった。
だが蝋燭の光を受けて鈍く輝く淡い金髪が僅かに揺れた。頷くように。
「お待ちしていますから、今日は必ず船にお戻り下さい」
それだけを静かに告げて、ジャーヴィスはシャインから離れた。
あなたにも帰る場所がある。
それを思い出して欲しかったから。
ジャーヴィスは聖堂の出入口の扉まで戻り、そこで一旦足を止めて振り返った。
覆い被さるような黒百合の花の影で、白い正装姿のシャインは、まるで闇を照らす唯一の灯火のようだった。
さながら迷える魂を導く光のように――。