4-21 追跡
文字数 5,374文字
ジャーヴィスの退院はあと一週間ほどかかるはずだった。しかし、ひとしきり室内を歩き回れるようになったことで、医者はそれを本日にしてもよいと判断を下した。
「お兄様、くれぐれも無理はしないで下さいね」
<エルシーア海軍療養院>の外でアドビスが待たせてある馬車に乗ったジャーヴィスは、不安げに眉根を寄せて自分を見る妹ファルーナへ、できるかぎり優しい笑みを浮かべ、その心労を取り除こうとした。
馬車の中にはアドビスとリーザとシルフィードも乗り込んでいて、しばし妹と別れの挨拶を交わすジャーヴィスを、静かに見守っていた。
「お前こそ、道中気をつけて王都へ帰るんだぞ。お前の身に何かあったら、ソフィー姉に怒鳴りつけられてしまう」
くすくす……。
空の色を大きな瞳に映し出しながら、ようやくファルーナが口元をほころばせて、いつもの微笑をジャーヴィスに見せた。傍らに控えているライラも、ほっとしたようにファルーナと視線を交わす。
「じゃ、ライラ、ファルーナの事頼んだぞ。道中いらん道草をして、腹をこわさないよう、しっかり見張ってやってくれ」
「かしこまりました」
同じ二十才だというのに、メイドのライラの方が二、三才年上のように見える。無理もない。ファルーナはお気楽な……いや、そのおおらかな性格のせいで、言動も行動も子供っぽすぎるのだ。
「お兄様ったら、ホント失礼しちゃうわ」
口を尖らせつつも微笑むファルーナに、ライラが肩をすくめながら首を振った。
「でもファルーナ様。現にアスラトルへ来るまで、あちこちで素敵なお店を見つけては、お菓子やお料理を召し上がっていたじゃあないですか。帰りは急がないから、目星をつけていたお店に絶対寄るって……」
「……そう。すっごく楽しみにしているのよ。うふふ……」
両手を胸の前で合わせ、ファルーナは幸せそうに微笑む。
「ライラ、本当に、よろしく、頼む」
予想通りの結果にげっそりしながら、ジャーヴィスはライラに再度念を押した。
結婚して家を出た長姉ソフィーの怖い顔が脳裏をよぎる。王都にはここ数年帰っていないので、便り一つ寄越さない自分を姉は良く思っていないはずなのだ。
だからファルーナの身に何かあれば、彼女は烈火のごとく怒りまくるだろう。ジャーヴィスが密かに恐れるのは、家を守るために姉が、自分の縁談を勝手に決めるのではないかということだった。
「さ、もう行かなくてはならない。ファルーナ」
ジャーヴィスの言葉に、ファルーナは微笑に少しかげりを見せつつ、小さくうなずいた。
「あの――お兄様。お体には気をつけて。それから……」
ファルーナはしばし目を伏せ、
「グラヴェール艦長にお会いしたら、エルシャンロ-ズのお礼を伝えて下さいね。きっとよ」と、それだけが心残りだという口調で顔を上げた。
「ああ。伝えておく」
ジャーヴィスはゆっくりとうなずいた。
右手を軽く振り、ファルーナへ馬車から離れるようにそっと促す。
「ヴィラード様、お気をつけて」
ライラがファルーナの肩を抱いて手を振った。
ジャーヴィスも窓越しに手を振る。その後、伸ばした右手を軽く握り、馬車の天井を二、三度叩いた。それが馬車を出す合図。
御者は馬にひとむち当て、馬車は石畳に轍の音を響かせながら、ゆっくりと動き出した。
「可愛らしい妹御だな」
ジャーヴィスの向いに座っているアドビスがぽつりとつぶやいた。
「いえ。時にこちらが予測しない行動に走るので、いつもヒヤヒヤさせられています」
ジャーヴィスはため息をついて、恐縮した。現に今回自分に会いに来たことがそうだ。馬車道が整備されているといっても、山深い所はあるし、山賊や大型の獣の類いに襲われる旅人は結構いる。
「あれだけ可愛いと、お兄さんとしては心配なんでしょうねぇ~」
アドビスの隣に座っているリーザが、心もち楽しそうな表情を浮かべて、ジャーヴィスを見ていた。
「俺も、そう思います。マリエステル艦長。いやー、ジャーヴィス副長ともっと親しくなりたいなぁ~」
ジャーヴィスは何も言わず自分の隣に座っている、シルフィードの太い腿をつまんでねじった。
息を一瞬止めてシルフィードが目をむく。だがアドビスがいるせいか、シルフィードは涙目になりながらも声を上げなかった。ただ抗議するようにジャーヴィスを見つめたが、ジャーヴィスは彼と視線を合わせなかった。
『そんな話をしている場合じゃない。馬鹿者』
内心シルフィードへ毒づきながら、ジャーヴィスは心持ち、くつろいでいるようにみえるアドビスへ声をかけた。
「閣下自ら私の所へお越し下さったということは、あの人……いえ、ご子息は本当に行方不明なのですね?」
アドビスは視線をジャーヴィスへ向けた。影が顔に落ちているせいだろうか。
いつになく精彩を欠いた様に見える。
「そうだ。昨日海軍省を16時頃出て行く姿を守衛が見たっきりで、間借先にもいないのだ」
アドビスは目を細め、その節くれた大きな手を膝の間で組んだ。
「……シャインの報告書で、君の身に起きたことは知っている。ジャーヴィス中尉。君が身をていして、あれを助けてくれたというのにな」
ジャーヴィスは両腕を抱え、思わず身震いした。
「いえ。私の方がご子息に助けられたのです。あの方がいなければ、私がこうして、アスラトルへ生きて帰る事は叶いませんでした」
「そうか」
アドビスの探るような――青灰色の瞳が細くなる。
ジャーヴィスはただただ恐縮して顔を伏せた。
「申し訳ありません。私が……自分の役目をちゃんと果たしていれば、ご子息を一人で何処かへ行かせる事には、ならなかったものを――」
情けなかった。
アドビスはジャーヴィスの能力を見込んで、シャインの副官へ推挙してくれたのだ。それなのに自分は、アドビスの期待を裏切ってしまった。
シャインはアドビスに良い感情を持っていないようだが、アドビスがシャインの身を案じているのは、担当の副官を彼が自ら選んだ事から、容易に察する事ができる。
療養院のベッドに縛られていても、誰かを使って、何らかの対処法を打つ事はできたのだ。
ジャーヴィスは悔いていた。
昨日シャインが自分の所に来た時、言葉を交わすべきだったと。
顔を見れば、彼がどこまで追い込まれていたか、わかったはずなのだ。
「ジャーヴィス中尉、顔を上げるのだ。私は君の働きには満足しているし、シャインの居場所もわかっている」
「えっ……?」
ジャーヴィスは一瞬目を見開いた。そして耳を疑った。
今アドビスは、何と言ったのか。
シャインの居場所の見当はついている……? そう聞こえたような。
アドビスは涼し気な顔をしてこちらを見ている。
隣で黙りこくっているリーザもそうだ。
「ほ、本当なんですかい!?」
その時、ジャーヴィスの隣で大柄な体を小さく丸めていたシルフィードが、アドビスの言葉に驚いて背筋を伸ばした。
ゴッ!!
シルフィードの頭が馬車の天井にぶつかり、鈍い音が響く。
馬がいななく声がして、馬車が一瞬右側へ傾いた。
「痛ぅ~!」
緊張感のカケラすらないシルフィードのそそっかしさに、ジャーヴィスは自己嫌悪を忘れて思わず眉をひそめた。シルフィードは頭を左手でさすりながら、再びうっすらと目に涙を浮かべ、すまなさそうにジャーヴィスを見る。
ジャーヴィスは真っすぐ前を見据え、今度もすがるようなその視線を無視した。部下のしつけがなってないと、アドビスに思われただろう。
軽く咳き払いをするアドビスを見て、ジャーヴィスは下りられるものなら、すぐさま馬車から下りたかった。
「……私も驚いたのだがな。あれは自らノーブルブルーへの転属を願い出て、どうやらウインガード号に乗ったようなのだ。恐らく、ジェミナ・クラスへ戻るツヴァイスと一緒にな」
「閣下。それは本当ですか?」
ジャーヴィスは膝の上で握った拳に力を込めた。
「ああ。エスペランサに転属を申し出たらしい。そして、ツヴァイスにもな。だから……これから軍港へ行き、マリエステル艦長の船でウインガード号を追うつもりなのだ」
ちらりとアドビスが青灰色の瞳を隣にいるリーザへ向ける。
リーザは軽く頭を垂れた。
「これから出港したら、多分三日、ないし四日後には追いつけるかと。最悪、同じ日にジェミナ・クラスへ入港できるはずです」
「閣下は、もしかして同行されるのですか?」
ジャーヴィスの問いにアドビスは眉間を寄せた。
「私はアスラトルから離れられない。ノーブルブルー襲撃事件の調査も、ままならぬのでな。だからシャインをアスラトルへ呼び戻したいのだ。あれしか知らない事があって、事件の真相解明のために、どうしても必要なことなのだ」
ジャーヴィスは考えるより先に言葉を発していた。
きっとアドビスはそれを期待している。
「私が参ります。マリエステル艦長の船に乗船させて下さい。必ずご子息を連れて帰ります」
「……行ってくれるか?」
アドビスの口調に、ジャーヴィスはその期待を確信した。
「はい。それが、私の務めですから」
きっぱりと言い切ったジャーヴィスの言葉の後に。
「あ、あのっ!」
うわずったシルフィードの声が馬車の轍の音を消さんばかりに響いた。
「俺も一緒に行きたいです! 艦長には世話になってるし……ロワールハイネス号を取り戻すために、俺も何かやりたいんです。いいですよね、閣下、副長」
子犬のように緑の瞳をうるませ、シルフィードはジャ-ヴィスの右腕を掴む。
うんと言わなければ、シルフィードはきっとジャーヴィスの腕をへし折るだろう。
勿論ジャーヴィスは反対しなかった。アドビスも。
馬車の窓から朝日を受けてきらめく軍港の海が見える。光の反射で青や緑がかって見えるその海に、白い石を組んで作られた突堤が一直線に伸びている。
その先に、まるで白い灯台のようにたたずむ三本マストの帆船――リーザのファラグレール号が、静かにジャーヴィス達の到着を待っていた。
馬車は突堤へ下りる階段の手前で止まった。
いそいそと初めにジャーヴィス、次いでシルフィード、最後にリーザが潮風に漆黒の髪を揺らし馬車から下り立つ。
馬車の四角い窓から、アドビスの少し疲れたような、けれども幾分晴れやかな顔がのぞいた。ジャ-ヴィス達はアドビスに向かってそっと頭を垂れた。それにアドビスが右手を上げて応える。
馬が一声鋭くいなないたかと思うと、風を切る御者の鞭音がして、馬車は海軍省がある通りに向かって走り出した。
「うふふ……今日はとっても美味しい食事にありつけそうだわ」
アドビスの乗った馬車を見送りながら、リーザは風に舞う髪をそっと指ですき、小さく含み笑いを漏らした。
「そ、それはどういうことですかい? マリエステル艦長?」
シルフィードがぽかんと口を開けて、リーザに尋ねる。
「あらー、あなた達。ファラグレール号は客船じゃないのよ。今から私の部下として配属されたんだから、きっちり仕事してもらうわよ」
「リーザ。君の部下って!?」
ジャーヴィスは口走った。
すうっと、カーディナルレッドのリーザの瞳が細められる。
「私の事はマリエステル艦長と呼びなさい。ジャーヴィス中尉。上官不敬罪で今から罰則を適用します」
「……おい、リーザ。ちゃんと事情を聞かせろ。どういうことか納得していないのに罰則だなんてそんな……!」
「ジャーヴィス副長、黙って従った方がよさそうですぜっ!」
やばい雰囲気を悟ったのか、シルフィードがジャーヴィスの腕を押さえる。
リーザは腕を組んだまま、肩をすくめて唇に艶やかな笑みを浮かべた。
「私の名を二度呼び捨てにした事は、これで聞かなかった事にします。ジャーヴィス中尉。あなたとシルフィード航海長に適用する罰則は……」
「お、俺もですかい!? 何でですかっ!」
リーザはさらっとシルフィードの抗議を流し、片手を頬に当て、自分を射ぬかんばかりに鋭い光を放つジャーヴィスの青い瞳を見据えた。
「ジェミナ・クラスに着くまでの一週間。ファラグレール号でのあなたの仕事場は厨房よ。ジャーヴィス。そして、シルフィード。あなたはジャーヴィスの手伝いをすること。以上、命じたわよ」
「……」
ジャーヴィスは大きな脱力感を覚えつつ、何も言い返せないままリーザを見つめていた。リーザは小首をかしげ、両手を腰に当てた。
「わかった? ジャーヴィス?」
名前を呼ばれて、仕方なくジャーヴィスは返事をする。
「……拝命及びその内容を理解しました。マリエステル艦長」
「よろしい。では、さっそく仕事にかかって頂戴」
完璧なジャ-ヴィスの応答に、リーザはうっとりとした笑みを浮かべた。
彼女にはめられてあまりいい気分ではなかったが、陽の光よりまぶしいその微笑に、ジャーヴィスは思わず目を細めた。
……たまにはこういうのも、いいのかもしれない。
体の傷は癒えたものの、船の上の仕事は結構ハードで、以前の体力がまだ戻らない今ではかなりきつい。
少々強引なやり方だが、リーザの配慮には感謝せねばなるまい。
そう思ったジャーヴィスの耳に、突堤を先に歩くリーザの独り言が聞こえた。
「今日はアムダリアのコース料理とか食べたいわね~。デザート付きで。うちの料理長は、とにかく肉を焼く事しかできないのよ。まったく~」
「お兄様、くれぐれも無理はしないで下さいね」
<エルシーア海軍療養院>の外でアドビスが待たせてある馬車に乗ったジャーヴィスは、不安げに眉根を寄せて自分を見る妹ファルーナへ、できるかぎり優しい笑みを浮かべ、その心労を取り除こうとした。
馬車の中にはアドビスとリーザとシルフィードも乗り込んでいて、しばし妹と別れの挨拶を交わすジャーヴィスを、静かに見守っていた。
「お前こそ、道中気をつけて王都へ帰るんだぞ。お前の身に何かあったら、ソフィー姉に怒鳴りつけられてしまう」
くすくす……。
空の色を大きな瞳に映し出しながら、ようやくファルーナが口元をほころばせて、いつもの微笑をジャーヴィスに見せた。傍らに控えているライラも、ほっとしたようにファルーナと視線を交わす。
「じゃ、ライラ、ファルーナの事頼んだぞ。道中いらん道草をして、腹をこわさないよう、しっかり見張ってやってくれ」
「かしこまりました」
同じ二十才だというのに、メイドのライラの方が二、三才年上のように見える。無理もない。ファルーナはお気楽な……いや、そのおおらかな性格のせいで、言動も行動も子供っぽすぎるのだ。
「お兄様ったら、ホント失礼しちゃうわ」
口を尖らせつつも微笑むファルーナに、ライラが肩をすくめながら首を振った。
「でもファルーナ様。現にアスラトルへ来るまで、あちこちで素敵なお店を見つけては、お菓子やお料理を召し上がっていたじゃあないですか。帰りは急がないから、目星をつけていたお店に絶対寄るって……」
「……そう。すっごく楽しみにしているのよ。うふふ……」
両手を胸の前で合わせ、ファルーナは幸せそうに微笑む。
「ライラ、本当に、よろしく、頼む」
予想通りの結果にげっそりしながら、ジャーヴィスはライラに再度念を押した。
結婚して家を出た長姉ソフィーの怖い顔が脳裏をよぎる。王都にはここ数年帰っていないので、便り一つ寄越さない自分を姉は良く思っていないはずなのだ。
だからファルーナの身に何かあれば、彼女は烈火のごとく怒りまくるだろう。ジャーヴィスが密かに恐れるのは、家を守るために姉が、自分の縁談を勝手に決めるのではないかということだった。
「さ、もう行かなくてはならない。ファルーナ」
ジャーヴィスの言葉に、ファルーナは微笑に少しかげりを見せつつ、小さくうなずいた。
「あの――お兄様。お体には気をつけて。それから……」
ファルーナはしばし目を伏せ、
「グラヴェール艦長にお会いしたら、エルシャンロ-ズのお礼を伝えて下さいね。きっとよ」と、それだけが心残りだという口調で顔を上げた。
「ああ。伝えておく」
ジャーヴィスはゆっくりとうなずいた。
右手を軽く振り、ファルーナへ馬車から離れるようにそっと促す。
「ヴィラード様、お気をつけて」
ライラがファルーナの肩を抱いて手を振った。
ジャーヴィスも窓越しに手を振る。その後、伸ばした右手を軽く握り、馬車の天井を二、三度叩いた。それが馬車を出す合図。
御者は馬にひとむち当て、馬車は石畳に轍の音を響かせながら、ゆっくりと動き出した。
「可愛らしい妹御だな」
ジャーヴィスの向いに座っているアドビスがぽつりとつぶやいた。
「いえ。時にこちらが予測しない行動に走るので、いつもヒヤヒヤさせられています」
ジャーヴィスはため息をついて、恐縮した。現に今回自分に会いに来たことがそうだ。馬車道が整備されているといっても、山深い所はあるし、山賊や大型の獣の類いに襲われる旅人は結構いる。
「あれだけ可愛いと、お兄さんとしては心配なんでしょうねぇ~」
アドビスの隣に座っているリーザが、心もち楽しそうな表情を浮かべて、ジャーヴィスを見ていた。
「俺も、そう思います。マリエステル艦長。いやー、ジャーヴィス副長ともっと親しくなりたいなぁ~」
ジャーヴィスは何も言わず自分の隣に座っている、シルフィードの太い腿をつまんでねじった。
息を一瞬止めてシルフィードが目をむく。だがアドビスがいるせいか、シルフィードは涙目になりながらも声を上げなかった。ただ抗議するようにジャーヴィスを見つめたが、ジャーヴィスは彼と視線を合わせなかった。
『そんな話をしている場合じゃない。馬鹿者』
内心シルフィードへ毒づきながら、ジャーヴィスは心持ち、くつろいでいるようにみえるアドビスへ声をかけた。
「閣下自ら私の所へお越し下さったということは、あの人……いえ、ご子息は本当に行方不明なのですね?」
アドビスは視線をジャーヴィスへ向けた。影が顔に落ちているせいだろうか。
いつになく精彩を欠いた様に見える。
「そうだ。昨日海軍省を16時頃出て行く姿を守衛が見たっきりで、間借先にもいないのだ」
アドビスは目を細め、その節くれた大きな手を膝の間で組んだ。
「……シャインの報告書で、君の身に起きたことは知っている。ジャーヴィス中尉。君が身をていして、あれを助けてくれたというのにな」
ジャーヴィスは両腕を抱え、思わず身震いした。
「いえ。私の方がご子息に助けられたのです。あの方がいなければ、私がこうして、アスラトルへ生きて帰る事は叶いませんでした」
「そうか」
アドビスの探るような――青灰色の瞳が細くなる。
ジャーヴィスはただただ恐縮して顔を伏せた。
「申し訳ありません。私が……自分の役目をちゃんと果たしていれば、ご子息を一人で何処かへ行かせる事には、ならなかったものを――」
情けなかった。
アドビスはジャーヴィスの能力を見込んで、シャインの副官へ推挙してくれたのだ。それなのに自分は、アドビスの期待を裏切ってしまった。
シャインはアドビスに良い感情を持っていないようだが、アドビスがシャインの身を案じているのは、担当の副官を彼が自ら選んだ事から、容易に察する事ができる。
療養院のベッドに縛られていても、誰かを使って、何らかの対処法を打つ事はできたのだ。
ジャーヴィスは悔いていた。
昨日シャインが自分の所に来た時、言葉を交わすべきだったと。
顔を見れば、彼がどこまで追い込まれていたか、わかったはずなのだ。
「ジャーヴィス中尉、顔を上げるのだ。私は君の働きには満足しているし、シャインの居場所もわかっている」
「えっ……?」
ジャーヴィスは一瞬目を見開いた。そして耳を疑った。
今アドビスは、何と言ったのか。
シャインの居場所の見当はついている……? そう聞こえたような。
アドビスは涼し気な顔をしてこちらを見ている。
隣で黙りこくっているリーザもそうだ。
「ほ、本当なんですかい!?」
その時、ジャーヴィスの隣で大柄な体を小さく丸めていたシルフィードが、アドビスの言葉に驚いて背筋を伸ばした。
ゴッ!!
シルフィードの頭が馬車の天井にぶつかり、鈍い音が響く。
馬がいななく声がして、馬車が一瞬右側へ傾いた。
「痛ぅ~!」
緊張感のカケラすらないシルフィードのそそっかしさに、ジャーヴィスは自己嫌悪を忘れて思わず眉をひそめた。シルフィードは頭を左手でさすりながら、再びうっすらと目に涙を浮かべ、すまなさそうにジャーヴィスを見る。
ジャーヴィスは真っすぐ前を見据え、今度もすがるようなその視線を無視した。部下のしつけがなってないと、アドビスに思われただろう。
軽く咳き払いをするアドビスを見て、ジャーヴィスは下りられるものなら、すぐさま馬車から下りたかった。
「……私も驚いたのだがな。あれは自らノーブルブルーへの転属を願い出て、どうやらウインガード号に乗ったようなのだ。恐らく、ジェミナ・クラスへ戻るツヴァイスと一緒にな」
「閣下。それは本当ですか?」
ジャーヴィスは膝の上で握った拳に力を込めた。
「ああ。エスペランサに転属を申し出たらしい。そして、ツヴァイスにもな。だから……これから軍港へ行き、マリエステル艦長の船でウインガード号を追うつもりなのだ」
ちらりとアドビスが青灰色の瞳を隣にいるリーザへ向ける。
リーザは軽く頭を垂れた。
「これから出港したら、多分三日、ないし四日後には追いつけるかと。最悪、同じ日にジェミナ・クラスへ入港できるはずです」
「閣下は、もしかして同行されるのですか?」
ジャーヴィスの問いにアドビスは眉間を寄せた。
「私はアスラトルから離れられない。ノーブルブルー襲撃事件の調査も、ままならぬのでな。だからシャインをアスラトルへ呼び戻したいのだ。あれしか知らない事があって、事件の真相解明のために、どうしても必要なことなのだ」
ジャーヴィスは考えるより先に言葉を発していた。
きっとアドビスはそれを期待している。
「私が参ります。マリエステル艦長の船に乗船させて下さい。必ずご子息を連れて帰ります」
「……行ってくれるか?」
アドビスの口調に、ジャーヴィスはその期待を確信した。
「はい。それが、私の務めですから」
きっぱりと言い切ったジャーヴィスの言葉の後に。
「あ、あのっ!」
うわずったシルフィードの声が馬車の轍の音を消さんばかりに響いた。
「俺も一緒に行きたいです! 艦長には世話になってるし……ロワールハイネス号を取り戻すために、俺も何かやりたいんです。いいですよね、閣下、副長」
子犬のように緑の瞳をうるませ、シルフィードはジャ-ヴィスの右腕を掴む。
うんと言わなければ、シルフィードはきっとジャーヴィスの腕をへし折るだろう。
勿論ジャーヴィスは反対しなかった。アドビスも。
馬車の窓から朝日を受けてきらめく軍港の海が見える。光の反射で青や緑がかって見えるその海に、白い石を組んで作られた突堤が一直線に伸びている。
その先に、まるで白い灯台のようにたたずむ三本マストの帆船――リーザのファラグレール号が、静かにジャーヴィス達の到着を待っていた。
馬車は突堤へ下りる階段の手前で止まった。
いそいそと初めにジャーヴィス、次いでシルフィード、最後にリーザが潮風に漆黒の髪を揺らし馬車から下り立つ。
馬車の四角い窓から、アドビスの少し疲れたような、けれども幾分晴れやかな顔がのぞいた。ジャ-ヴィス達はアドビスに向かってそっと頭を垂れた。それにアドビスが右手を上げて応える。
馬が一声鋭くいなないたかと思うと、風を切る御者の鞭音がして、馬車は海軍省がある通りに向かって走り出した。
「うふふ……今日はとっても美味しい食事にありつけそうだわ」
アドビスの乗った馬車を見送りながら、リーザは風に舞う髪をそっと指ですき、小さく含み笑いを漏らした。
「そ、それはどういうことですかい? マリエステル艦長?」
シルフィードがぽかんと口を開けて、リーザに尋ねる。
「あらー、あなた達。ファラグレール号は客船じゃないのよ。今から私の部下として配属されたんだから、きっちり仕事してもらうわよ」
「リーザ。君の部下って!?」
ジャーヴィスは口走った。
すうっと、カーディナルレッドのリーザの瞳が細められる。
「私の事はマリエステル艦長と呼びなさい。ジャーヴィス中尉。上官不敬罪で今から罰則を適用します」
「……おい、リーザ。ちゃんと事情を聞かせろ。どういうことか納得していないのに罰則だなんてそんな……!」
「ジャーヴィス副長、黙って従った方がよさそうですぜっ!」
やばい雰囲気を悟ったのか、シルフィードがジャーヴィスの腕を押さえる。
リーザは腕を組んだまま、肩をすくめて唇に艶やかな笑みを浮かべた。
「私の名を二度呼び捨てにした事は、これで聞かなかった事にします。ジャーヴィス中尉。あなたとシルフィード航海長に適用する罰則は……」
「お、俺もですかい!? 何でですかっ!」
リーザはさらっとシルフィードの抗議を流し、片手を頬に当て、自分を射ぬかんばかりに鋭い光を放つジャーヴィスの青い瞳を見据えた。
「ジェミナ・クラスに着くまでの一週間。ファラグレール号でのあなたの仕事場は厨房よ。ジャーヴィス。そして、シルフィード。あなたはジャーヴィスの手伝いをすること。以上、命じたわよ」
「……」
ジャーヴィスは大きな脱力感を覚えつつ、何も言い返せないままリーザを見つめていた。リーザは小首をかしげ、両手を腰に当てた。
「わかった? ジャーヴィス?」
名前を呼ばれて、仕方なくジャーヴィスは返事をする。
「……拝命及びその内容を理解しました。マリエステル艦長」
「よろしい。では、さっそく仕事にかかって頂戴」
完璧なジャ-ヴィスの応答に、リーザはうっとりとした笑みを浮かべた。
彼女にはめられてあまりいい気分ではなかったが、陽の光よりまぶしいその微笑に、ジャーヴィスは思わず目を細めた。
……たまにはこういうのも、いいのかもしれない。
体の傷は癒えたものの、船の上の仕事は結構ハードで、以前の体力がまだ戻らない今ではかなりきつい。
少々強引なやり方だが、リーザの配慮には感謝せねばなるまい。
そう思ったジャーヴィスの耳に、突堤を先に歩くリーザの独り言が聞こえた。
「今日はアムダリアのコース料理とか食べたいわね~。デザート付きで。うちの料理長は、とにかく肉を焼く事しかできないのよ。まったく~」