4-83 戦いの前

文字数 4,633文字

 同時刻。
 アドビスの乗るエアリエル号は、夜明け前に島影を視界に捉えていた。

「ご命令通り一旦船を止めました。グラヴェール中将閣下。依然東寄りの風、波はうねりはありますが、高くはありません。周囲に船影も見当たりません。視界良好で今日はよく晴れるでしょう」

 上甲板船尾にある艦長室に入ってきた艦長ブランニルの声で、アドビスはまぶたを開いた。

「ご苦労」

 アドビスは短くブランニルを労い、部屋の奥にある執務机の前まで彼を呼び寄せた。
 ブランニルはアドビスの一つ年上で四十六才、アスラトル近海の警備にあたる警備船の艦長である。そしてアドビス同様、二十年前エルシーア海賊を取り締まったことがあり、戦のない今日では貴重な海戦の実戦経験を持つ人物だ。

 ノーブルブルーを率いていた友人のラフェール亡き今、頼りになる艦長は彼しかいない。よってアドビスは、ブランニルにエアリエル号の乗艦を命じた。

 ブランニルはあまり背は高くないが、体全体から海の男としての風格がにじみ出ている。骨張った体型で、肩につくぐらいの茶色がかった金髪を紺色の紐で束ねて背中に流している。年期の入った同色の航海服は、潮風にさらされたせいで、その紺色がところどころ色が褪せてまだらになっている。

 アドビスがどちらかといえば寡黙なタイプとすれば、ブランニルは周囲の空気を読んで、それに合わせて陽気に振る舞ったり、口をつぐんたりして、他人に不快な思いをさせない気配りができる人間だ。実直でかつ用心深いその性格も、信義を重んじるアドビスには好ましく思っていた。

 ブランニルもアドビス同様、かの島の姿が見えたことで幾分緊張気味のようだ。口調は穏やかなのだが、その細長い面は表情が硬く、次に下されるアドビスの命令がどのようなものか、探るように青い瞳を細めている。

「ブランニル。これからかまどの火を起こし、全員食事をとるようにして欲しい」
「閣下、それは……まさか……」

 ブランニルの声が上ずっている。動揺しているのだ。

「あ、あの、閣下。皆に食事をとらせるということは、これから海賊共を捕らえる戦闘を始めるということになります」
「それがどうした」

 ブランニルは不服があるのか、その骨張った両手を握りしめ、ひたとアドビスを見つめている。

「意見を申し上げてよろしいでしょうか。閣下」

 アドビスは机の上に広げた海図に視線を落とし、ゆっくりとうなずいた。

「何だ。言ってみろ」
「ありがとうございます」

 ブランニルは一息ついて噛み締めるように、言葉を選びながら口を開いた。

「閣下、今奴等に仕掛けるのは、お待ちいただけないでしょうか。我々はこれから拿捕する海賊船はおろか、その人数すらも、どれくらいのものか把握しておりません。しかも奴等はノーブルブルーの船を沈めた連中です。閣下のご子息が人質にとられていたため、我々は急ぎここまでやってきましたが、ご子息の身柄は確保され、時を急ぐ必要がなくなりました。ですから、昨夜捕えた海賊から情報を得るまで、しばし待つべきだと私は思うのです」

「お前の言う事はもっともかもしれん。だがヴィズルは口を割っておらんのだろう?」

 アドビスの青灰色の瞳がブランニルを射すくめた。ブランニルは疲れたように小さくうなずいた。

「昨夜から海兵隊長にまかせておりますが、なかなか強情な奴のようで、てこずっております。死なせないように加減はさせていますが、今のままだと吐かないかもしれません。何か情報を引き出す事ができれば、こちらも状況の不利を覆して、優位に立つ策を考えられるのですが……」

「難しいだろうな」

 アドビスは席についたまま腕を組み、ブランニルに向かって肩をすくめてみせた。
 脳裏に深い怨恨が込められた、ヴィズルのまなざしが浮かぶ。
 一度決めたら必ずやり遂げる。強い意志が込められた、誇り高い瞳だった。

「私とて、相手の事を知らずに闇雲に船を進めたくはない。だがここまで島に近付いた以上、我々の存在は奴等に知られているはずだ。それに……」

 アドビスは執務席の右側の引き出しから、黒い表紙のファイルを取り出した。
 ブランニルには言ってないが、これはノーブルブルーの船が襲われた時、実際その場に居合わせたシャインが提出した資料だ。

「奴等もノーブルブルーの船を沈めた時、多くの手下を失っている。アストリッド号でおそらく百五十名。エルガ-ド号でも同じくらい……。さすれば、意外と今は我々と同数かもしれん。シャインを人質にとり、私が一隻の船で来るよう指定したのも、あまり援軍を用意できなかったせいかもしれぬ」

 ブランニルは気弱な笑みを浮かべながら、ふうとため息を一つついた。

「閣下がそうお考えなのであれば、私は閣下を信じてこの身を戦いに投じるだけです」

「ブランニル」

「私なら一旦船をアスラトルへ引き上げ、外洋艦隊と共に出直します。ですが、閣下が長年探してこられた海賊が目の前にいるのですから……それを見逃す事など無理な話です」

 アドビスは席から立ち上がり、ブランニルの双肩に手を置いた。

「すまん。二十年待ったのだ。この

を。だからお前の言う通り、本当は出直した方が良いのだとわかってはいる。わかってはいるが、私はもう待てない。しかしあの島の海域は、海底の地形や潮の流れまで、私の脳裏にしっかりと刻まれている。決して、我々が不利なわけではない」

「はい……」

 ブランニルは大きくうなずき、アドビスに従う態度を見せた。
 アドビスはそれにうれしさを覚えながら、けれどそれを外には見せず、軽くブランニルの肩を叩くだけの表現に留めた。

「それでは閣下。これから全員に食事をとらせ、戦闘配置につかせます。停船はいつ解除いたしますか?」

 ブランニルを戸口まで送りながらアドビスは口を開いた。

「二時間後だ。準備ができたらまた報告を寄越してくれ。それから見張りの人数も増やすよう、カーライトに言っておけ。船影を一番に見つけた者には、私が特別手当を支給する」

「承知いたしました」

 ブランニルが部屋を出て行った後、アドビスはきびすを返し執務席へと戻った。日が高く昇ろうとしているのが、海水が付着して乾いた塩がこびりついた船尾の曇った窓から見える。

 世界を彼方まで照らし出すそのまっすぐな光を浴びながら、アドビスは静かに両目を閉じて頭を垂れた。

 すべては御身の御心のままに――。

 海を統べる『青の女王』に祈りを捧げながら、アドビスは左手の小指にはめていた、亡き妻の指輪にそっと触れた。


 ◇◇◇


 どこの船も、船底に溜まる垢水(あかみず)の臭いは一緒だ。
 だが海軍の船は乗る人間の性根も腐っているから、格別胸が悪くなるような毒気を放っているような気がする。

 ヴィズルは

するその垢水の臭いと、自らの背中から立ち上る血の臭いに、朧げだった意識が戻るのを感じた。

 アドビスに捕えられ、海兵隊の連中に連れてこられたのは、エアリエル号の第三甲板、船首にある錨鎖庫だった。どんな境遇も一通り経験してきたヴィズルであったが、始終魚の腐った臭いと、濁った垢水が足首まで浸かり、床がぬめるその場所で、両手足を鎖に繋がれた事にはさすがにまいっていた。

 だが泣き言など一言も漏らしはしない。
 こまっしゃくれた顔に、ヒゲだけは立派に蓄えている中年の海兵隊員が、ヴィズルの上着を剥ぎ取り、筋骨逞しい上半身を露にして、その背を鞭で打ちすえた時でさえ、ヴィズルはただ沈黙を守った。

「船を、海賊共を、一体どこに待機させている!」

 それを吐くくらいなら、いっそこのまま死んでやる。
 海賊の世界で身内への裏切りは死に値する最低の行為だ。

 背中を打つ鞭の鋭い音と、ヴィズルが吐かないことに苛立っている男の声が脳裏で不協和音のように響いていく。鞭打たれるたびに、ヴィズルのしなやかな褐色の背中の肉は切り裂かれ、鮮血が辺りにぴっと飛び散る。痛みに気を失えば、容赦なく足元の垢水を桶一杯に頭から浴びせられた。

 だが一旦だんまりを決め込んだヴィズルは、痛みに歯を食いしばりながらも、自分の心が驚く程落ち着いているのを感じた。

 どのくらいの間、この野蛮な行為が続けられたのかヴィズル自身よくわからない。
 だが音を上げたのは、ヴィズルに鞭を振るっていた海兵隊員の方だった。
 汚水を浴びせられたせいで濡れた銀髪の一房を中年の海兵隊員は荒々しくつかみあげ、うつむいていたヴィズルの顔をひきずり起こした。

「くそっ! こんなしぶとい奴は初めてだぜ」
「……」

 ヴィズルはそれを最高の讃辞と受け止め、ぜいぜい荒い息をつく海兵隊員に不敵な笑みを向けた。

 紙に人の顔を描いて、それをくしゃくしゃにしたような、いまいましくヴィズルをにらみつける男の表情が、最後に覚えていた光景だった。

 あれからどれくらい時間が経ったのだろう。
 ヴィズルは相変わらず天井から釣り下げられた鎖に両手を縛られ、汚水に浸かった床の鎖に両足を枷で繋がれていた。

 人の気配はない。窓のないこの部屋は、左右二つある錨鎖口からわずかに外の光が差し込むだけで暗い。その暗さの中でも、ヴィズルははや日が昇った事を感じていた。

「……つっ……」

 息をするだけで、背中の傷が痛む。燃えるような熱と刺すような痛みだ。
 当分横になって、まともに眠る事はできないだろう。

 ヴィズルは息をつき、どうしてこんなことになったのかぼんやりと考えた。
 どうして、単独でアドビスの船に乗り込んでしまったのだろう。
 シャインは警告してきたのに。

 ドジを踏んだ自分が可笑しくて、笑えばさらに背中の傷が痛むのに、ヴィズルは鎖を震わせて忍び笑いを漏らした。

 仕方がなかったのだ。
 アドビスの言う通り、自分が勇み足を踏んだのだ。

 最初はアドビスと話をつけるつもりでエアリエル号に忍び込んだというのに。アドビスの姿を見ただけで、その考えは脳裏から吹き飛んでしまった。
 

といってもいい。

 カッと頬に血が集まるのが感じられ、気付いた時にはブルーエイジの短剣を振りかざしていた。

 アドビスの喉元をかき切るその瞬間を、ずっと今まで夢見ていたのだ。

 シャインが『月影のスカーヴィズ』を殺したのは、アドビスではないと言っていたが、あの瞬間はそんなことどうでもいいと思った。
 ヴィズルの人生を狂わせたのは、確かにあの男(アドビス)だったのだから。

 言葉にできない胸の中の鬱積したものを一切合切この場にぶちまけ、今まで苦しんできたやり場のないその感情を、アドビスに

のだ。

 もっとも、汚水を浴びせられて頭の血が下がった今、ただの餓鬼の癇癪じゃあるまいしと、ヴィズルは自分の迂闊な行動を笑った。

「俺もまだまだ……青いか……つっ!」

 眉間をしかめ、ヴィズルは息を吐いた。
 命がある以上、ここから出る事を考えなければなるまい。

 その時、ヴィズルは体が大きく横に振られるのを感じて目を見開いた。
 ずずっと、重量感のある錨鎖が、前方で軋む音がする。
 エアリエル号が方向転換をしている。
 そして僅かだが、甲板で叫ぶ人間の声と沢山の靴音が、最下層のこの甲板まで聞こえて来る。

「さてと――いよいよ始まったみたいだな」

 ヴィズルは手下達の顔を思い浮かべた。
 自分がいなくて、さぞや不安な思いをしているだろう。
 だが一つだけ気になる事があった。
 これから戦闘が始まるのだとしたら、ヴィズルの手下達を指揮しているのは、一体誰なのだろう?
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