4-82 ティレグ船長

文字数 3,124文字

 シャインがロワールハイネス号の船室で目覚める数時間前。
 日の出前の海と空が青白く染まる頃、ヴィズルのアジトがある小島の北側の湾には、一隻の古びた漁船が錨を下ろして停泊していた。

「昨日の日没前に、エルシーアの大型船が島の東から約十五リーグルほど離れた所にいるのを見やした。船体が白色だったんで、例の船かと思って急いで来た次第でして……ティレグ副船長」
「ああ……間違いねぇ。そいつは間違いなく、アドビス・グラヴェールの船だ」

 アジトの大広間に設えてある木の机に、空になった酒ビンを並べて『赤熊のティレグ』は息を吐いた。

 撃たれた左手がずきずき痛むので、自然と顔がひきつってしまう。
 痛みを我慢する度に、風穴を開けたあのアドビスの息子の顔を思い浮かべ、いつか殺してやると、呪文のように口の中でぶつぶつ繰り返す。

 ティレグが席についている机の後ろには、アドビスが来た事を知って急ぎ叩き起こした手下達が、目をこすりながら、あるいはこれから起きる戦いを前にして、異様に興奮しながら床に座り込んでいる。その数は約二百名ばかりいた。

「ご苦労だったな。ま、お前も一杯やれよ」
「ありがとうございやす。副船長」

 ティレグは木のジョッキになみなみと赤紫色のワインを注いで、急ぎ報告にやってきた仲間の海賊――正体を隠すために一見漁師の格好をしている男――にそれをすすめた。

 陽の光で色褪せした緑の麻の布を頭に巻き付け、短い黒髪に黒い顎ヒゲをまばらに生やし、視力がいいのか鋭い目つきをしている。水色の膝丈まであるズボンに素足といういかにもな格好で、隆々とした肩の筋肉が、ごわついた白い上着の中で窮屈そうにしている。

 男は美味しそうにワインを飲み干し、喉の乾きを潤した。
 その様子を満足げに見つめ、ティレグはやおら椅子から立ち上がった。
 一斉にぎらぎらした手下達の視線がこちらへ向くのを意識する。

「さてと、てめえ達。いよいよ『金鷹(アドビス)』に、積年の恨みを晴らす時が来たぜ!」

 うおおーと、天井に拳を突き上げ手下達が吠える。
 ティレグは両手を広げ、その威勢のいいどよめきを静めた。
 乾いてきた唇をぺろりと舐めて湿らせ、酒で上気している顔をさらに赤くさせ語気強く息巻く。

「奴をこの海に沈める準備は整った。思う存分戦い、戦って、海軍どもを血祭りにあげろ。そうすることで、先代の『月影のスカーヴィズ』も、きっとあの世で、てめえらの戦いぶりを喜んでくれるだろうよ!」

 手下達のあげる歓声は耳を塞ぎたくなるほどの大音響で、大広間の淀んだ空気をわんわんと震わせるほどだった。

「だが一つ残念な知らせがある。船長(ヴィズル)の事だ」

 ティレグがいかにも気落ちした口ぶりでそう言うと、手下達は一斉に黙りこんだ。

「副船長。スカーヴィズ船長は、アドビスの息子と一緒に島を出たっきりなんだよなぁ」

 小さい樽と大きな樽を縦に重ねたような体型の、ずんぐりとした坊主頭の男がのそりと立ち上がった。

「そうよ、『料理番・ナバルロ』の言う通り。船長の行方は一向にわからねえ」

 手下達はざわめいた。不安げに顔を見合わせ、まるで親に見放された海鳥のヒナのように辺りを見回す。

 ティレグは身をかがめ、ぎろりと手下達の顔を睨みつけた。若い頃は剣の腕のおかげで手下達を震え上がらせていたが、今は目つきだけがその面影を残すのみだ。

 しかし、ヴィズルが姿を消したせいで不安を感じている手下達にとって、このティレグの堂々とした態度は実に頼もしく力強く感じたらしい。
 どの顔もティレグを食い入るように見つめている。

「船長は……俺も認めるが、知恵も勇気も力も持っていたから、先代の後を継ぐに相応しい人間だと思っていた。だが皆、船長は――ヴィズルの奴は、土壇場で俺達を裏切ったに違いないぜ」

? 船長が俺達を!?」
「なんでだよ、なんでそんなこと……!」
「副船長、あんた何を知ってるんだ?」

 手下達が一斉にざわめいた。立ち上がり両手を握りしめ、事と次第によってはティレグに詰め寄らんばかりだ。ティレグは両手を再び上げてじっと手下達を見据えた。

「てめえら、ちょっと申し訳程度にある脳味噌をしぼって考えてみろ! 人質なんて、生きてりゃそれで事足りるっていうのに、船長はアドビスのガキに手を出すなとか、三度の食事は欠かすなとか、やけに気を使ってた。ストームはあのガキに銃を突き付けられて、やむを得ず牢から出したって言ってたんだが、一体誰が銃を奴に渡した? ひょっとしたら、

が奴を逃がす手助けをしたかもしれないぜ?」

「そうだよな……あの夜、船長は一人きりだった」

 うんうんと、最前列で座っている年かさの手下がうなずく。

「北の浜にいるって言ってたけど、実はアドビスの息子と一緒に逃げるためにわざと一人になっていたかもしれませんぜ」

 ひょろりとしているが、肉付きはいい連絡係の青年ノエルが口を開いた。
 実際の所、ヴィズルとシャインがロワールハイネス号の甲板にいるのを見た手下達は十名以上いた。彼等はヴィズルへの不信感を次々と口にした。

「でも……ひょっとしたら、船長は一人で先代の仇を討ちに行くために、アドビスの息子を人質として連れて行ったとは、考えられませんかねぇ」

 先程漁船でアドビスの船を見たと報告しにきた、海賊が首をひねりながらつぶやいた。

「じゃあ、きっと返り討ちにあったに違いねぇぜ?」

 ゲラゲラとティレグは下品に笑った。
 木の幹のように太い右手を海賊の首に回し、酒気を帯びた息を吐きかけながらドスをきかせて囁く。

「アドビスの船はこっちに向かってる。それをてめえは報告してきた。でも船長は帰って来ねぇ。もうとっくにおっ死んだか、アドビスにつかまって、あらいざらいこの場所を吐いたか、俺達を裏切って逃げたかのどれかだ。だから、てめえら!」

 ティレグは荒々しく海賊の背を突き飛ばし、派手に尻餅をつくのを面白げにみながら大音響で叫んだ。

「スカーヴィズ……いや、ヴィズルはもう

! よって俺が、今からてめえらを束ねる船長になる! アドビスの船を沈め、奴の首を刎ね、今こそここにエルシーア海賊を復活させるんだ!」

 手下達は一瞬、あっけに取られてティレグを見つめていた。しかし、ヴィズルが帰らぬ今、この二百名を超える人間を束ねる頭は確かに必要だった。
 エルシーア海から海賊を駆逐するためやって来る、アドビスと戦うためにも。

「ティレグ

だ! あんたが船長にふさわしいぜ!」

 ナバルロが巨体を震わせて叫んだ。
 その太い声が周囲に伝染して、気付けば手下達は総立ちし一斉にティレグの名を叫び続けていた。

「そうだ! 船長になってくれよ! ティレグ!」
「船長になって、再びエルシーア海賊を率いてくれ!」

 ティレグは深くうなずきながら、目を細めて手下達をみやった。

「ようし。てめえら俺を船長と認めてくれて……本当にうれしいぜ。俺はヴィズルと違って、地獄の底まで付き合ってやるから安心しな。さて、てめえら! やるべきことはわかってるな。アドビスはもうまもなくここへ来る。しっかり気張りやがれ!」

 再び割れんばかりの大歓声が上がった。
 胸を張ってそれらを聞きながら、ティレグは早くツヴァイスに連絡することばかり考えていた。

 ヴィズルの部屋に『ツウェリツーチェ』がいるので、かの鳥に一言、『奴が来た』と覚え込ませて北の空に放てば、ツヴァイスの船に飛んで行く。

 ティレグは武者震いを隠すため、赤ワインのビンを一気に飲み干した。
 酒だけはきらせてはならない。
 しらふになったら、あの女の顔が目の前にちらつくのだ。

 『月影のスカーヴィズ』の、壮絶な、死に顔が――。
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