4-53 金色の風
文字数 2,765文字
『ロワール! どこだ。俺はここにいる!』
額と手に当たる鐘の冷たさが増した気がする。空気中の水分までもが凍りつくような冷気が流れてきて、体が急に動かせなくなった。
けれどシャインの意識は闇の中の一点に向けられていた。
頭上に光る不気味な青い光とはまた別の『それ』に。
初めはただの点だった。しかしそれは朧げな影となり、ゆらゆらと不安定に揺れながら、見覚えのある小柄な人の形を取り始めた。
息も凍りつく冷気の中でシャインは口を開いた。期待に胸が熱くなる。
『そう……そうだ。
人というにはあまりにも不安定な存在のそれは、じりじりと、けれど迷う事なくシャインの呼びかけに応じるように、闇の中をこちらに向かって近付いてくる。
ただその道は平坦ではないのか、あるいは何か行く手を遮るものがあるのか、霞のような人の形をとったそれは、今にもかき消えそうな明滅を繰り返しながらも、確実に前へと進んでいる。
ざわざわと声が再び響いた。
『あの娘を呼び覚ますつもりか』
『あの者は……消えたはず』
シャインは思わず手を差し伸べた。
右手は今使えない事も忘れて前方へ差し出していた。
けれど立ち上がることはできなかった。
いつの間にかシャインの膝まで氷がびっしりと張りつき、地面に固定されていたからだ。
足は動かない。
でも彼女の――ロワールの形を帯びたそれは、シャインの方へ向かっている。
非常に緩慢な動きだが、一歩一歩、近付いてくる。
『もう少しだ。俺は君の所へ行く事はできないけれど、君の前から消える事はない!』
差し出した両手から白くて淡い光がいつしか灯り、始めはほんのりと、そしてだんだんその強さを増して溢れてくる。
『ありえぬ』
『……これ以上は危険だ』
『止めさせろ』
『はっ!』
シャインは両目を見開いた。
頭上からぞっとするような敵意に満ちた青い光が襲いかかる。
『あの娘の記憶を呼び覚ます……お前から取り込んでやる!』
幾重にも広がる水にも似た青い光がシャインを飲み込む。
その質量に息ができない。
同時にシャインは頭の中が真っ白になるのを感じた。
真っ白というか、唐突に、ロワールの記憶がごっそりと抜け落ちていく。
『……嫌だ……』
胸の奥に風が通り抜けた。
シャインはそれを必死で捕まえようと手を伸ばす。
理由もわからない恐ろしいまでの空虚感に体が支配されていく。
これは、何だ?
胸が、心が、痛い――。
その耐えがたい痛みのせいか。
シャインは定まらない視界をともすれば朦朧とする意識で前方を見つめた。
『――』
誰かに呼ばれた気がした。
よくわからないが、何かがこちらへ近付いてくる気配がする。
金色の幻――?
どこか温かな気配を伴ったそれは光の風となって、シャインを取り巻く青い闇へ向かっていった。
ざわめく頭上の悪意を持った気配がその金色の光に照らされると、彼らは驚愕の声を上げた。
『諦めないで。想いとはあなたから溢れるもの。あなたの心から生み出されるもの』
シャインの耳に誰かの声が囁いた。
『さあ、手を伸ばして。呼びなさい!』
シャインは金色の光が胸に空いた隙間へ入り込むのを感じた。
脳裏に浮かび上がるのは、黄昏の中で紅の髪を潮風に靡かせ、自分に微笑むロワールの姿。
『ロワール!』
シャインは思わず叫んだ。
自分の体を包む青き闇を振り払うように風が舞い上がる。
立ち上がり、両手を前方へ一杯に広げた。
ぽう……。
シャインの両手にはいつしかあの金色の光が灯っていた。
始めはほんのりと、そしてだんだんその強さを増して全身へと溢れてくる。
『俺は、ここにいる!』
両手を広げたシャインの体を飲み込む程大きくなったその光が、ついに空間一杯に広がり、周囲にたれ込めていた闇を駆逐しだした。
風が前から吹いている。
温かくてやさしくて、どこか自分を守ってくれるように。
『彼女の記憶は俺の魂に刻まれている。誰にも、それを奪われはしない!』
シャインは風が運ぶ空気を胸一杯に吸い込んで、再び彼女の姿を思い描いた。
海の水よりも透き通った水色の瞳。鮮やかな黄昏色の髪が、小柄なその体を包み込むようにうねり、風の声に耳をすまして真っ直ぐな笑みを浮かべているその姿を。
消え失せていく闇の間から、白く細い手がシャインに向かって伸びてきた。
闇が最後の抵抗を続けるように、その細い手を飲み込もうとしている。
シャインはその白い手に向かって自分の手を差し伸べた。
足が重い。
シャインの動きを再び氷が張りだして止めようとしている。
あと少しで手が届く。
シャインは体を前に倒し、あらん限り左手を伸ばし、闇に押し流されようとするその手を掴んだ。
絶対に、離さない。もう二度と――。
『迎えに来たよ。ロワール』
耳元で何かガラスのようなものが砕ける音が聞こえたかと思うと、シャインの歩みを押さえていた強力な力が一気に消失して、一陣の風が通り過ぎていった。思わずその場に膝をつきながらも、肩で息をしながらも、うつむいたシャインは、体が震えるのを抑えることができなかった。
喜びのあまり。
掴んだその手は、シャインの手の中に確かにあった。
手のひらの中にすっぽり収まってしまうその持ち主は、沈む夕日より鮮やかな黄昏色の髪をさわりとゆらしてシャインに向かって微笑んだ。
シャインはまだロワールの右手を握りしめていたが、それに視線を落とした時、普段と違う感覚に戸惑いを覚えた。
そう。ロワールの手を通して自分の手が透けて見える。
シャインはいつになく精霊としてのロワールを意識した。
とても痛いほどそれを意識した。
彼女は人の姿をとるが、決して人ではない。
人ではないけれど――握り返してきたその手はとても温かかった。
その温かさに触れたせいだろうか。シャインは急に全身に伝わる寒さを感じた。
「シャイン」
名前を呼ぶロワールの声が聞こえる。
あれからたった一ヶ月程しか経っていないと言うのに、彼女の声はもう何年も聞いていないような気がする。
そんなに寂しかったのか、自分は――。
ロワールの水色の澄んだ瞳に、苦笑するシャインの顔が映っている。ロワールが空いている左手をそっと伸ばしたかと思うと、シャインは彼女が自分の肩を抱き寄せているのを朧げに感じた。
人ではなく精霊だろうが、ロワールは
「あなたの声、はっきりと聞こえたわ。シャイン」
「ああ……」
シャインは心地よい温かさに誘われるまま目を閉じた。
折られた右手の疼きも、鈍く淀む体の中の疲れも、ともすれば自分を内から苛む痛みも、まるで水の様に溶けて消えていく。
――あともう少しだけ。
もう少しだけこうしていよう。
目が醒めた時、彼女の優しさに溢れた温かさを、ちゃんと覚えていたいから。
額と手に当たる鐘の冷たさが増した気がする。空気中の水分までもが凍りつくような冷気が流れてきて、体が急に動かせなくなった。
けれどシャインの意識は闇の中の一点に向けられていた。
頭上に光る不気味な青い光とはまた別の『それ』に。
初めはただの点だった。しかしそれは朧げな影となり、ゆらゆらと不安定に揺れながら、見覚えのある小柄な人の形を取り始めた。
息も凍りつく冷気の中でシャインは口を開いた。期待に胸が熱くなる。
『そう……そうだ。
こっち
だ!』人というにはあまりにも不安定な存在のそれは、じりじりと、けれど迷う事なくシャインの呼びかけに応じるように、闇の中をこちらに向かって近付いてくる。
ただその道は平坦ではないのか、あるいは何か行く手を遮るものがあるのか、霞のような人の形をとったそれは、今にもかき消えそうな明滅を繰り返しながらも、確実に前へと進んでいる。
ざわざわと声が再び響いた。
『あの娘を呼び覚ますつもりか』
『あの者は……消えたはず』
シャインは思わず手を差し伸べた。
右手は今使えない事も忘れて前方へ差し出していた。
けれど立ち上がることはできなかった。
いつの間にかシャインの膝まで氷がびっしりと張りつき、地面に固定されていたからだ。
足は動かない。
でも彼女の――ロワールの形を帯びたそれは、シャインの方へ向かっている。
非常に緩慢な動きだが、一歩一歩、近付いてくる。
『もう少しだ。俺は君の所へ行く事はできないけれど、君の前から消える事はない!』
差し出した両手から白くて淡い光がいつしか灯り、始めはほんのりと、そしてだんだんその強さを増して溢れてくる。
『ありえぬ』
『……これ以上は危険だ』
『止めさせろ』
『はっ!』
シャインは両目を見開いた。
頭上からぞっとするような敵意に満ちた青い光が襲いかかる。
『あの娘の記憶を呼び覚ます……お前から取り込んでやる!』
幾重にも広がる水にも似た青い光がシャインを飲み込む。
その質量に息ができない。
同時にシャインは頭の中が真っ白になるのを感じた。
真っ白というか、唐突に、ロワールの記憶がごっそりと抜け落ちていく。
『……嫌だ……』
胸の奥に風が通り抜けた。
シャインはそれを必死で捕まえようと手を伸ばす。
理由もわからない恐ろしいまでの空虚感に体が支配されていく。
これは、何だ?
胸が、心が、痛い――。
その耐えがたい痛みのせいか。
シャインは定まらない視界をともすれば朦朧とする意識で前方を見つめた。
『――』
誰かに呼ばれた気がした。
よくわからないが、何かがこちらへ近付いてくる気配がする。
金色の幻――?
どこか温かな気配を伴ったそれは光の風となって、シャインを取り巻く青い闇へ向かっていった。
ざわめく頭上の悪意を持った気配がその金色の光に照らされると、彼らは驚愕の声を上げた。
『諦めないで。想いとはあなたから溢れるもの。あなたの心から生み出されるもの』
シャインの耳に誰かの声が囁いた。
『さあ、手を伸ばして。呼びなさい!』
シャインは金色の光が胸に空いた隙間へ入り込むのを感じた。
脳裏に浮かび上がるのは、黄昏の中で紅の髪を潮風に靡かせ、自分に微笑むロワールの姿。
『ロワール!』
シャインは思わず叫んだ。
自分の体を包む青き闇を振り払うように風が舞い上がる。
立ち上がり、両手を前方へ一杯に広げた。
ぽう……。
シャインの両手にはいつしかあの金色の光が灯っていた。
始めはほんのりと、そしてだんだんその強さを増して全身へと溢れてくる。
『俺は、ここにいる!』
両手を広げたシャインの体を飲み込む程大きくなったその光が、ついに空間一杯に広がり、周囲にたれ込めていた闇を駆逐しだした。
風が前から吹いている。
温かくてやさしくて、どこか自分を守ってくれるように。
『彼女の記憶は俺の魂に刻まれている。誰にも、それを奪われはしない!』
シャインは風が運ぶ空気を胸一杯に吸い込んで、再び彼女の姿を思い描いた。
海の水よりも透き通った水色の瞳。鮮やかな黄昏色の髪が、小柄なその体を包み込むようにうねり、風の声に耳をすまして真っ直ぐな笑みを浮かべているその姿を。
消え失せていく闇の間から、白く細い手がシャインに向かって伸びてきた。
闇が最後の抵抗を続けるように、その細い手を飲み込もうとしている。
シャインはその白い手に向かって自分の手を差し伸べた。
足が重い。
シャインの動きを再び氷が張りだして止めようとしている。
あと少しで手が届く。
シャインは体を前に倒し、あらん限り左手を伸ばし、闇に押し流されようとするその手を掴んだ。
絶対に、離さない。もう二度と――。
『迎えに来たよ。ロワール』
耳元で何かガラスのようなものが砕ける音が聞こえたかと思うと、シャインの歩みを押さえていた強力な力が一気に消失して、一陣の風が通り過ぎていった。思わずその場に膝をつきながらも、肩で息をしながらも、うつむいたシャインは、体が震えるのを抑えることができなかった。
喜びのあまり。
掴んだその手は、シャインの手の中に確かにあった。
手のひらの中にすっぽり収まってしまうその持ち主は、沈む夕日より鮮やかな黄昏色の髪をさわりとゆらしてシャインに向かって微笑んだ。
シャインはまだロワールの右手を握りしめていたが、それに視線を落とした時、普段と違う感覚に戸惑いを覚えた。
そう。ロワールの手を通して自分の手が透けて見える。
シャインはいつになく精霊としてのロワールを意識した。
とても痛いほどそれを意識した。
彼女は人の姿をとるが、決して人ではない。
人ではないけれど――握り返してきたその手はとても温かかった。
その温かさに触れたせいだろうか。シャインは急に全身に伝わる寒さを感じた。
「シャイン」
名前を呼ぶロワールの声が聞こえる。
あれからたった一ヶ月程しか経っていないと言うのに、彼女の声はもう何年も聞いていないような気がする。
そんなに寂しかったのか、自分は――。
ロワールの水色の澄んだ瞳に、苦笑するシャインの顔が映っている。ロワールが空いている左手をそっと伸ばしたかと思うと、シャインは彼女が自分の肩を抱き寄せているのを朧げに感じた。
人ではなく精霊だろうが、ロワールは
ここにいる
。「あなたの声、はっきりと聞こえたわ。シャイン」
「ああ……」
シャインは心地よい温かさに誘われるまま目を閉じた。
折られた右手の疼きも、鈍く淀む体の中の疲れも、ともすれば自分を内から苛む痛みも、まるで水の様に溶けて消えていく。
――あともう少しだけ。
もう少しだけこうしていよう。
目が醒めた時、彼女の優しさに溢れた温かさを、ちゃんと覚えていたいから。