4-26 化け物
文字数 3,332文字
「……ぐへぇっ!!」
鎖が鳴る音と共に、男が驚きながらひしゃげたうめき声を上げた。
シャインの首にかけられていた手の力が一気に緩む。
「てっ……てめへ……!」
シャインが握りしめた両手で、思いっきり男の顔面を殴りつけたのだ。
それが、見事に男の下顎に入ったらしい。
シャインは荒い息を整えながら立ち上がった。息を吸う度に喉に鈍い痛みが走り、ひゅーひゅーと音が鳴っているような気がする。男の顔面を殴った感触が気持ち悪く両手の拳に広がっていく。
男は再びシャインに向かって手を伸ばしてきた。ランプの光に照らされたその顔は赤銅色のヒゲ面で覆われていて、唇から血をいく筋も滴らせている。
シャインは枷についた鎖を手繰りよせて握ると、反動をつけてそれにぶら下がり、男の手をかわした。そして、飛びかかってきた男の首を両足ではさみこみ、体重をかけて床にその体を叩き付けた。
「……ぐはっ!」
頭をぶつける鈍い音が、チャラチャラ鳴る鎖の音と混じって辺りに響く。
肩で息をしながら、シャインは男を見下ろした。その首を足で挟んだまま。
「……お前は一体、何者だ……」
つぶれてかすれた自分の声に驚きつつ、シャインは床に倒れた男を睨んだ。
この男は二十年前、母リュイーシャが起こした嵐の事を知っている。
ならば、スカーヴィズの死について何かを知っているかもしれない。
もしもそれを聞き出す事ができたなら、ヴィズルの誤解を……アドビスが本当にスカーヴィズを殺したのか、知ることができる。
「……ケッ!」
男が口をすぼめて何かを吐き出す。どうやら折れた前歯のようだ。
「手前のツラなんぞ……二度と見たくねぇんだよ!!」
「……!」
男が信じられない力で上半身を起こした。
両手で鎖を持っているため、空いているシャインの右脇腹へ拳を突き出す。
シャインは慌てて男の首から足を放した。
だが鎖が邪魔をして間を広げる事ができず、男の拳が腹に食い込んだ。
息が詰まる。幸い肋骨には当らなかったものの、熱い痛みの本流が一気に押し寄せてきて、シャインは握っていた鎖を思わず手放した。
胃液が逆流してそれが喉まで上がってくる酸っぱい味に、吐き気がこみ上げてくる。
その刹那。
距離を詰めた男の足が目の前に迫り、シャインはやむを得ず、枷のはめられた両手でそれを受けた。
鉄の棒で殴られたような重い衝撃が右腕に走る。
バキッという乾いた音。
一瞬頭の中が真っ白になって、気がついた時、シャインは床に倒れていた。
身を起こそうとしたが、体重を乗せた右手が疼いて力が入らない。
「ゼイゼイ……手こずらせやがって……ゼイゼイ……」
チャリンと鎖が鳴る音がしたかと思うと、荒い息づかいの男が、シャインの手枷についたそれを持ち上げて、じっとこちらを見つめていた。
その視線をたどると、だらりと垂れた自分の右手が、枷のはめられている手首のすぐ下のところで、あらぬ方向に曲ってぶらぶらと揺れている。
「悪りィな。俺の靴は
流れる血で唇を真っ赤に染めながら、男は不敵な微笑を浮かべて、握った鎖から手を放す。支えを失い力が抜けたシャインの腕は、重力のなすまま床に叩き付けられる。腕に走ったえぐられるような痛みに、シャインは歯を食いしばった。額に浮いた脂汗が滴って目に入ってくる。
と、男が例の四本しかない右手でシャインの顎をつかんだ。顔に酒と口臭と血の臭いが混じった息がかかる。シャインは目を開けて、自分を見る男の顔を睨み付けた。男が、意外そうに目を細め、シャインの形相にたじろぐように肩を震わせる。
「……呻き声一つ上げやしねぇとはな。やっぱりてめえは、つまんねぇガキだ」
そう言いながら、後ろ手にまわされた男の太い手には、鈍く光る刃の短剣が握られていた。
「だから、殺してやる……」
シャインは男の手から逃れようと身じろぎした。だが、がっしりとしたその手は、シャインの顎をしっかりとつかんで放さない。
短剣の冷たい光がシャインの目を突く。
「その手を放しなさい。船長に言い付けますよ」
短剣を握りしめた男が、ぎこちなくその動きを止めた。
「この人は大切な預かり物だと、言われていたはずですが」
暗い部屋のどこからともなく聞こえてくる静かな声。シャインが上目使いで男を見ると、じっとりと冷たい汗をかきながら、目だけがぎょろぎょろと周囲を見回している。
「……くそっ。邪魔しやがって……」
「私は船長の命令に従っているだけです。最も、あなたがその人を殺したら、あなたもただではすみませんけど」
男は荒々しくシャインの顎にかけていた手を放した。シャインは安堵して、思わず大きく息を吐いた。
「ば、化け物の分際で……ケッ!」
明らかに怯えを見せつつ、男は立ち上がって、投げだされたシャインの右腕をブーツでぐっと踏み付けた。
「……俺はあきらめねぇぜ。助かったなどと思うんじゃねぇぞ!!」
「……」
シャインには男を見る余裕がなかった。ただひたすら折れた腕の痛みに耐えていたので、男がランプを拾い上げて、何時の間にか船倉から出たことにも気付かなかった。
「大丈夫ですか?」
自分を助けてくれた声が、静かになった暗い船倉の中で再び響いた。
シャインは体を横たえたまま、目を開けるべきか一瞬迷った。
男の言った、“化け物”という言葉が気になっていたからである。だが心を決めてシャインは目を開いた。ぼんやりとした暗がりの中、ほっそりとした足首の裸足の足が見える。
人間……?
少なくとも目の前の足は人間のものだ。
どうやらこの船倉には、シャインの他にも誰か閉じ込められていたらしい。今までそんな気配はまったくなかったのだが。
シャインはほっとして、身を起こそうとした。しかし両手は枷で固定されているうえ、あの男に右手を折られてしまった。
「あまり、無理をしてはいけませんよ」
物音一つ立てず、目の前の裸足の人物は、シャインの元へ近付いて、すっと両膝をついて座った。
シャインはなんとか左肘を使って体を支え、上半身を起こす事ができた。胡座をかいて船倉の板壁に背中を預ける。たったこれだけの動作なのに、自分が荒い息をついているのが恥ずかしかった。
「……どうも、さっきはありがとう……」
束ねていない髪が滑り落ちてきて視界を遮る。頭を振りつつ、シャインはなんとか礼を口にした。
「いえ。私は自分の役目を果たしただけにすぎません……」
シャインは正面に座る人物をぼんやりと眺めた。
黒くて腰ほどある髪を二つに分けて、お下げにしている女性……いや、外見は十五、六才の少女が目の前にいた。膝上までの白い袖無しのドレスをまとっていて、大人びた口調からは想像できないくらい、その顔は幼くて、かよわげに見える。
褐色の肌に翡翠のような緑色の瞳がじっとシャインを見つめているが、そこには感情というものがあまり感じられない気がした。そう……まるで磁器で作った人形のように表情が硬く、冷たいのだ。
きっと少女は怯えているのかも知れない。派手な殴り合いをしたのだから。
そう思ってシャインはできるだけ笑顔を浮かべながら、静かに口を開いた。
「君も……ここへ閉じ込められたのかい?」
少女がそっと体を震わせた。膝の上に置いていた両手を後ろに回す。
シャインはその手に、赤いリボンのようなものが巻き付いてなびく様を目に止めた。
「……」
少女はうつむいてシャインを見ようとしない。シャインはふと彼女に違和感を覚えた。ここは窓一つない暗い船倉だ。それなのに、自分は何故はっきりと、少女の肌の色や瞳の色を見る事ができるのだろう。
そして、細い手首に巻かれた鮮やかな赤いリボン。
「ひょっとして君は――」
シャインは確信した。
男が“化け物”といった意味がこれなら通じる……。
少女が再び顔を上げたが、シャインの視線に気付いて驚いたように両手を口に当てた。
「あなた、私が見えるの!?」
シャインはゆっくりとうなずいた。
「船の精霊 にね、何時もそう言われるんだ。幸せな事にね……レイディ」
鎖が鳴る音と共に、男が驚きながらひしゃげたうめき声を上げた。
シャインの首にかけられていた手の力が一気に緩む。
「てっ……てめへ……!」
シャインが握りしめた両手で、思いっきり男の顔面を殴りつけたのだ。
それが、見事に男の下顎に入ったらしい。
シャインは荒い息を整えながら立ち上がった。息を吸う度に喉に鈍い痛みが走り、ひゅーひゅーと音が鳴っているような気がする。男の顔面を殴った感触が気持ち悪く両手の拳に広がっていく。
男は再びシャインに向かって手を伸ばしてきた。ランプの光に照らされたその顔は赤銅色のヒゲ面で覆われていて、唇から血をいく筋も滴らせている。
シャインは枷についた鎖を手繰りよせて握ると、反動をつけてそれにぶら下がり、男の手をかわした。そして、飛びかかってきた男の首を両足ではさみこみ、体重をかけて床にその体を叩き付けた。
「……ぐはっ!」
頭をぶつける鈍い音が、チャラチャラ鳴る鎖の音と混じって辺りに響く。
肩で息をしながら、シャインは男を見下ろした。その首を足で挟んだまま。
「……お前は一体、何者だ……」
つぶれてかすれた自分の声に驚きつつ、シャインは床に倒れた男を睨んだ。
この男は二十年前、母リュイーシャが起こした嵐の事を知っている。
ならば、スカーヴィズの死について何かを知っているかもしれない。
もしもそれを聞き出す事ができたなら、ヴィズルの誤解を……アドビスが本当にスカーヴィズを殺したのか、知ることができる。
「……ケッ!」
男が口をすぼめて何かを吐き出す。どうやら折れた前歯のようだ。
「手前のツラなんぞ……二度と見たくねぇんだよ!!」
「……!」
男が信じられない力で上半身を起こした。
両手で鎖を持っているため、空いているシャインの右脇腹へ拳を突き出す。
シャインは慌てて男の首から足を放した。
だが鎖が邪魔をして間を広げる事ができず、男の拳が腹に食い込んだ。
息が詰まる。幸い肋骨には当らなかったものの、熱い痛みの本流が一気に押し寄せてきて、シャインは握っていた鎖を思わず手放した。
胃液が逆流してそれが喉まで上がってくる酸っぱい味に、吐き気がこみ上げてくる。
その刹那。
距離を詰めた男の足が目の前に迫り、シャインはやむを得ず、枷のはめられた両手でそれを受けた。
鉄の棒で殴られたような重い衝撃が右腕に走る。
バキッという乾いた音。
一瞬頭の中が真っ白になって、気がついた時、シャインは床に倒れていた。
身を起こそうとしたが、体重を乗せた右手が疼いて力が入らない。
「ゼイゼイ……手こずらせやがって……ゼイゼイ……」
チャリンと鎖が鳴る音がしたかと思うと、荒い息づかいの男が、シャインの手枷についたそれを持ち上げて、じっとこちらを見つめていた。
その視線をたどると、だらりと垂れた自分の右手が、枷のはめられている手首のすぐ下のところで、あらぬ方向に曲ってぶらぶらと揺れている。
「悪りィな。俺の靴は
特注で
底に鉄板を仕込んでるんだ。てめえが結構やるもんだから、つい本気を出しちまったぜ。ま、手の一本や二本折れたってどうってことねえさ」流れる血で唇を真っ赤に染めながら、男は不敵な微笑を浮かべて、握った鎖から手を放す。支えを失い力が抜けたシャインの腕は、重力のなすまま床に叩き付けられる。腕に走ったえぐられるような痛みに、シャインは歯を食いしばった。額に浮いた脂汗が滴って目に入ってくる。
と、男が例の四本しかない右手でシャインの顎をつかんだ。顔に酒と口臭と血の臭いが混じった息がかかる。シャインは目を開けて、自分を見る男の顔を睨み付けた。男が、意外そうに目を細め、シャインの形相にたじろぐように肩を震わせる。
「……呻き声一つ上げやしねぇとはな。やっぱりてめえは、つまんねぇガキだ」
そう言いながら、後ろ手にまわされた男の太い手には、鈍く光る刃の短剣が握られていた。
「だから、殺してやる……」
シャインは男の手から逃れようと身じろぎした。だが、がっしりとしたその手は、シャインの顎をしっかりとつかんで放さない。
短剣の冷たい光がシャインの目を突く。
「その手を放しなさい。船長に言い付けますよ」
短剣を握りしめた男が、ぎこちなくその動きを止めた。
「この人は大切な預かり物だと、言われていたはずですが」
暗い部屋のどこからともなく聞こえてくる静かな声。シャインが上目使いで男を見ると、じっとりと冷たい汗をかきながら、目だけがぎょろぎょろと周囲を見回している。
「……くそっ。邪魔しやがって……」
「私は船長の命令に従っているだけです。最も、あなたがその人を殺したら、あなたもただではすみませんけど」
男は荒々しくシャインの顎にかけていた手を放した。シャインは安堵して、思わず大きく息を吐いた。
「ば、化け物の分際で……ケッ!」
明らかに怯えを見せつつ、男は立ち上がって、投げだされたシャインの右腕をブーツでぐっと踏み付けた。
「……俺はあきらめねぇぜ。助かったなどと思うんじゃねぇぞ!!」
「……」
シャインには男を見る余裕がなかった。ただひたすら折れた腕の痛みに耐えていたので、男がランプを拾い上げて、何時の間にか船倉から出たことにも気付かなかった。
「大丈夫ですか?」
自分を助けてくれた声が、静かになった暗い船倉の中で再び響いた。
シャインは体を横たえたまま、目を開けるべきか一瞬迷った。
男の言った、“化け物”という言葉が気になっていたからである。だが心を決めてシャインは目を開いた。ぼんやりとした暗がりの中、ほっそりとした足首の裸足の足が見える。
人間……?
少なくとも目の前の足は人間のものだ。
どうやらこの船倉には、シャインの他にも誰か閉じ込められていたらしい。今までそんな気配はまったくなかったのだが。
シャインはほっとして、身を起こそうとした。しかし両手は枷で固定されているうえ、あの男に右手を折られてしまった。
「あまり、無理をしてはいけませんよ」
物音一つ立てず、目の前の裸足の人物は、シャインの元へ近付いて、すっと両膝をついて座った。
シャインはなんとか左肘を使って体を支え、上半身を起こす事ができた。胡座をかいて船倉の板壁に背中を預ける。たったこれだけの動作なのに、自分が荒い息をついているのが恥ずかしかった。
「……どうも、さっきはありがとう……」
束ねていない髪が滑り落ちてきて視界を遮る。頭を振りつつ、シャインはなんとか礼を口にした。
「いえ。私は自分の役目を果たしただけにすぎません……」
シャインは正面に座る人物をぼんやりと眺めた。
黒くて腰ほどある髪を二つに分けて、お下げにしている女性……いや、外見は十五、六才の少女が目の前にいた。膝上までの白い袖無しのドレスをまとっていて、大人びた口調からは想像できないくらい、その顔は幼くて、かよわげに見える。
褐色の肌に翡翠のような緑色の瞳がじっとシャインを見つめているが、そこには感情というものがあまり感じられない気がした。そう……まるで磁器で作った人形のように表情が硬く、冷たいのだ。
きっと少女は怯えているのかも知れない。派手な殴り合いをしたのだから。
そう思ってシャインはできるだけ笑顔を浮かべながら、静かに口を開いた。
「君も……ここへ閉じ込められたのかい?」
少女がそっと体を震わせた。膝の上に置いていた両手を後ろに回す。
シャインはその手に、赤いリボンのようなものが巻き付いてなびく様を目に止めた。
「……」
少女はうつむいてシャインを見ようとしない。シャインはふと彼女に違和感を覚えた。ここは窓一つない暗い船倉だ。それなのに、自分は何故はっきりと、少女の肌の色や瞳の色を見る事ができるのだろう。
そして、細い手首に巻かれた鮮やかな赤いリボン。
「ひょっとして君は――」
シャインは確信した。
男が“化け物”といった意味がこれなら通じる……。
少女が再び顔を上げたが、シャインの視線に気付いて驚いたように両手を口に当てた。
「あなた、私が見えるの!?」
シャインはゆっくりとうなずいた。
「