4-29 誓約
文字数 3,068文字
一方その頃。
ヴィズルは誰もいないグローリアス号の後部甲板に立っていた。舵輪があるその甲板は中央部より高く作られていて、船首の突き出した槍のような舳先まで、一通り見通す事ができる場所だ。
『それを見せればアドビスは必ず来る――必ずな』
骨灰色のしっとりした光沢を放つ、皮の手袋をはめた右手で、ヴィズルはその小さな物体――シャインの指輪をつまんでながめていた。
白んだ空に光る明けの明星――そんな描写が似合いそうな澄んだ水色の輝きが、ヴィズルの夜色の瞳に映る。
「アドビスに見せろ……か。ちょうどいい。あの連中をどうするか持て余していた所だからな」
指輪を赤い袖無しのジャケットのポケットにしまい込み、ヴィズルは左舷側の手すりに肘をついて、朝焼けの海に視線を向けた。
一ヶ月前、成りゆきでロワールハイネス号をアジトへ持って帰ってしまったため、その際に捕虜にした乗組員 の処遇を考えていたのだ。
邪魔をすれば殺す。だが、ロワールハイネス号の乗組員がどうなろうと、それは自分の関心事ではない。ボートに乗せて解放してやっても構わない。アジトの島からアスラトルの軍港まで、その気になればボートで一週間ぐらいで帰れるはずだ。
けれど、同じ解放するのなら、こちらの役に立ってもらうのもいい。
「アジトについたら、さっそく牢から連中を出してやることにするか。クラウス坊やがコンパスを読めればいいが……ククッ……」
ヴィズルは鼻で低く笑った。
連中がアスラトルへ無事に帰れるか、どうか、ということはどうでもいい。
遭難して海の藻屑になっても一向に構わない。
「あんなものがなくっても、アドビスは出てくるはずさ。奴は海賊を憎んでいる。エルシーア海から海賊船を追い払うことだけを考えている。ま、俺の見込み違いなら……その時は“切り札”を使うしかないがな」
ヴィズルは頬をなでる風に銀髪をゆらしながら、中央の甲板に下りるための階段へ歩き出した。
「……」
前方のメインマスト(中央)に張っている四枚の帆が、上手く風をはらまずばたばた音をたて、張りのない上げ綱がだらりと垂れ下がっている。同じように、一番前のフォアマストの帆も風をこぼしている。
「風が変わったぞ、グローリア」
小さく舌を打ち鳴らし、背後にある舵輪にヴィズルはとりついて、その黒光りする取っ手を握った。頬に風が当るよう意識しながら舵輪を回す。
「帰り道は知っているはずだろうが……まったく」
帆が再び東寄りの風を受けて、ばたばたという音がしなくなった。大きくふくらみ、しわ一つなくなったそれらはグロ-リアス号を動かす動力へと変わる。
調整を終えてヴィズルは舵輪から離れた。通常の航海の場合、ヴィズルの船では舵を取るための航海士が常時いる必要がない。風が変わっても手下をかりだして、総出で帆を広げたり角度の調整をすることもない。
ヴィズルの命令で、グローリアス号は自らの意志で動いているからだ。
正確にいえば、グローリアス号につけた“船の精霊”が。
人間が自力で船を動かすと、いろいろ時間を取られたり、障害物を見つけて急な方向転換を要した場合、すぐに反応する事ができない。
だが船の精霊は“船の魂”。彼女にとって宿る船は“体”だ。
どんなにすご腕の操舵手より正確に船を動かし、ヴィズルの持つ力を媒体にすれば、風が絶えて凪になっても自力で航行する事ができる。
なんと都合の良い存在だろう。
船を操る力を持っていると知った時ヴィズルは驚いたが、天からの贈り物だと思い、がらにもなく感謝した。
思い通りに精霊を操るにはそれなりの時間と鍛練がいった。今では優秀な能力を持った船の精霊を捕らえ、別の船に移し替えることもできるようになった。
だがこの世界で人智を超える力を操る者達“術者”には、己の信じる神と『誓約』を交わさねばならない決まりがある。己の力に制限を設けなければ、術者は内からあふれる“力”に体を蝕まれ、自滅する運命にあるからだ。
◇
ヴィズルが海神「青の女王」と誓約を交したのは十年前。
東方連国の雑多な闇市場で、出会った妖しげな老婆に、術者としての力を持っている事を見抜かれたのがきっかけだった。
『術者は“神サマ”の持つ力の、ごく一部を使う事が許された、限られた人間なんだよ。術者の数は最初から決まっていて、親から子へとその力が受け継がれていくんだ』
老婆はその後ヴィズルの師になった。
『あんたの能力は優れているよ。だが鍛練で精度は上げられても、それを強めることはできない。術者の使う力は、“誓約”の内容で制限されているからだ。しかし、あんたがその命を差し出してもいいと思うなら、あんたは限界まで自分に与えられた力を引き出す事ができるようになる。……どうするね?』
◇
耳にこびりついているそのしわがれた細い声。
我に返ったヴィズルは、階段の手すりに手をついて息を吐いた。
「俺はこれで充分満足しているさ……婆さん。俺の誓約ってやつも、結構厳しいと思うんだがな」
船の精霊を思うまま操る力を使い続ける為に、ヴィズルは青の女王に誓っていた。
『――陸には三日までしか留まらない』
海賊船で生まれ育った。海賊達が唯一の家族だった。しかし商船や客船を襲う海賊は各国の海軍から目を付けられ、その結果海という海をさすらう事になる。よって自分が所属する国籍などない。
つまり故郷を持たないヴィズルにとって、陸は単なる一時的な休息を得るだけの場所でしかないのだ。
言いかえれば、海こそが自分の居場所……故郷なのかもしれない。
「くそっ、何か俺は後悔してるのか? 辛気臭い事考えちまった」
自分には帰る場所などない。待っていてくれる人もいない。
意識したくないのに、脳裏にその言葉が浮かび上がっては消えていく。
「……」
ヴィズルは自分の部屋に戻ろうと、船尾楼の階段を駆け下りた。
その時目の前のミズンマストの前に、人影があることに気がついた。それは見覚えのある後ろ姿で、揺れる船以上にあぶなっかしく上半身がふらついている。
「ティレグ?」
そう呼び掛けると、両手で口元を押さえた副船長の青白い顔が見えた。
赤銅色の髪はぼさぼさで、ハリネズミのようにばらけているし、振り返った時にこちらを一瞬見た目は、驚きのあまり大きく見開かれていた。
ティレグはヴィズルに気がついて、そして何故だか取り乱したように前方へ歩き出した。
ミズンマストの前に置かれた、ヴィズルの腰の高さほどある、余った上げ綱を巻き付けておくための木製のレールに正面からぶつかり、「ぎゃっ!」と叫び声をあげ、よろよろと左舷側の手すりにつかまると、大きな息遣いをしながら、メインマストの前にある開口部へ急いで歩いていく。
その扉を押し広げ、手負いの熊のような副船長は、下の船室へもぐりこむように姿を消した。
「また――正体がわからなくなるほど、飲んだくれていやがったのかな。ティレグ……」
ヴィズルは鋭い瞳を細めて、困ったように腕を組んだ。だがティレグは自分の顔に気がついた。しらふではないだろうが、さほど酔っていたわけでもなさそうだ。
「……」
ヴィズルは先程ティレグがよろめいた甲板まで歩いて行った。ふと視線を落すと、琥珀色の甲板の上に、親指の爪ほどの大きさをした、小さな赤黒い液体が落ちている。その場にかがんで、手袋を外した指でヴィズルはそれをなぞった。
「血……? ティレグ……?」
ヴィズルは素早く立ち上がると、ティレグが消えたメインマスト前の開口部を見つめた。
ヴィズルは誰もいないグローリアス号の後部甲板に立っていた。舵輪があるその甲板は中央部より高く作られていて、船首の突き出した槍のような舳先まで、一通り見通す事ができる場所だ。
『それを見せればアドビスは必ず来る――必ずな』
骨灰色のしっとりした光沢を放つ、皮の手袋をはめた右手で、ヴィズルはその小さな物体――シャインの指輪をつまんでながめていた。
白んだ空に光る明けの明星――そんな描写が似合いそうな澄んだ水色の輝きが、ヴィズルの夜色の瞳に映る。
「アドビスに見せろ……か。ちょうどいい。あの連中をどうするか持て余していた所だからな」
指輪を赤い袖無しのジャケットのポケットにしまい込み、ヴィズルは左舷側の手すりに肘をついて、朝焼けの海に視線を向けた。
一ヶ月前、成りゆきでロワールハイネス号をアジトへ持って帰ってしまったため、その際に捕虜にした
邪魔をすれば殺す。だが、ロワールハイネス号の乗組員がどうなろうと、それは自分の関心事ではない。ボートに乗せて解放してやっても構わない。アジトの島からアスラトルの軍港まで、その気になればボートで一週間ぐらいで帰れるはずだ。
けれど、同じ解放するのなら、こちらの役に立ってもらうのもいい。
「アジトについたら、さっそく牢から連中を出してやることにするか。クラウス坊やがコンパスを読めればいいが……ククッ……」
ヴィズルは鼻で低く笑った。
連中がアスラトルへ無事に帰れるか、どうか、ということはどうでもいい。
遭難して海の藻屑になっても一向に構わない。
「あんなものがなくっても、アドビスは出てくるはずさ。奴は海賊を憎んでいる。エルシーア海から海賊船を追い払うことだけを考えている。ま、俺の見込み違いなら……その時は“切り札”を使うしかないがな」
ヴィズルは頬をなでる風に銀髪をゆらしながら、中央の甲板に下りるための階段へ歩き出した。
「……」
前方のメインマスト(中央)に張っている四枚の帆が、上手く風をはらまずばたばた音をたて、張りのない上げ綱がだらりと垂れ下がっている。同じように、一番前のフォアマストの帆も風をこぼしている。
「風が変わったぞ、グローリア」
小さく舌を打ち鳴らし、背後にある舵輪にヴィズルはとりついて、その黒光りする取っ手を握った。頬に風が当るよう意識しながら舵輪を回す。
「帰り道は知っているはずだろうが……まったく」
帆が再び東寄りの風を受けて、ばたばたという音がしなくなった。大きくふくらみ、しわ一つなくなったそれらはグロ-リアス号を動かす動力へと変わる。
調整を終えてヴィズルは舵輪から離れた。通常の航海の場合、ヴィズルの船では舵を取るための航海士が常時いる必要がない。風が変わっても手下をかりだして、総出で帆を広げたり角度の調整をすることもない。
ヴィズルの命令で、グローリアス号は自らの意志で動いているからだ。
正確にいえば、グローリアス号につけた“船の精霊”が。
人間が自力で船を動かすと、いろいろ時間を取られたり、障害物を見つけて急な方向転換を要した場合、すぐに反応する事ができない。
だが船の精霊は“船の魂”。彼女にとって宿る船は“体”だ。
どんなにすご腕の操舵手より正確に船を動かし、ヴィズルの持つ力を媒体にすれば、風が絶えて凪になっても自力で航行する事ができる。
なんと都合の良い存在だろう。
船を操る力を持っていると知った時ヴィズルは驚いたが、天からの贈り物だと思い、がらにもなく感謝した。
思い通りに精霊を操るにはそれなりの時間と鍛練がいった。今では優秀な能力を持った船の精霊を捕らえ、別の船に移し替えることもできるようになった。
だがこの世界で人智を超える力を操る者達“術者”には、己の信じる神と『誓約』を交わさねばならない決まりがある。己の力に制限を設けなければ、術者は内からあふれる“力”に体を蝕まれ、自滅する運命にあるからだ。
◇
ヴィズルが海神「青の女王」と誓約を交したのは十年前。
東方連国の雑多な闇市場で、出会った妖しげな老婆に、術者としての力を持っている事を見抜かれたのがきっかけだった。
『術者は“神サマ”の持つ力の、ごく一部を使う事が許された、限られた人間なんだよ。術者の数は最初から決まっていて、親から子へとその力が受け継がれていくんだ』
老婆はその後ヴィズルの師になった。
『あんたの能力は優れているよ。だが鍛練で精度は上げられても、それを強めることはできない。術者の使う力は、“誓約”の内容で制限されているからだ。しかし、あんたがその命を差し出してもいいと思うなら、あんたは限界まで自分に与えられた力を引き出す事ができるようになる。……どうするね?』
◇
耳にこびりついているそのしわがれた細い声。
我に返ったヴィズルは、階段の手すりに手をついて息を吐いた。
「俺はこれで充分満足しているさ……婆さん。俺の誓約ってやつも、結構厳しいと思うんだがな」
船の精霊を思うまま操る力を使い続ける為に、ヴィズルは青の女王に誓っていた。
『――陸には三日までしか留まらない』
海賊船で生まれ育った。海賊達が唯一の家族だった。しかし商船や客船を襲う海賊は各国の海軍から目を付けられ、その結果海という海をさすらう事になる。よって自分が所属する国籍などない。
つまり故郷を持たないヴィズルにとって、陸は単なる一時的な休息を得るだけの場所でしかないのだ。
言いかえれば、海こそが自分の居場所……故郷なのかもしれない。
「くそっ、何か俺は後悔してるのか? 辛気臭い事考えちまった」
自分には帰る場所などない。待っていてくれる人もいない。
意識したくないのに、脳裏にその言葉が浮かび上がっては消えていく。
「……」
ヴィズルは自分の部屋に戻ろうと、船尾楼の階段を駆け下りた。
その時目の前のミズンマストの前に、人影があることに気がついた。それは見覚えのある後ろ姿で、揺れる船以上にあぶなっかしく上半身がふらついている。
「ティレグ?」
そう呼び掛けると、両手で口元を押さえた副船長の青白い顔が見えた。
赤銅色の髪はぼさぼさで、ハリネズミのようにばらけているし、振り返った時にこちらを一瞬見た目は、驚きのあまり大きく見開かれていた。
ティレグはヴィズルに気がついて、そして何故だか取り乱したように前方へ歩き出した。
ミズンマストの前に置かれた、ヴィズルの腰の高さほどある、余った上げ綱を巻き付けておくための木製のレールに正面からぶつかり、「ぎゃっ!」と叫び声をあげ、よろよろと左舷側の手すりにつかまると、大きな息遣いをしながら、メインマストの前にある開口部へ急いで歩いていく。
その扉を押し広げ、手負いの熊のような副船長は、下の船室へもぐりこむように姿を消した。
「また――正体がわからなくなるほど、飲んだくれていやがったのかな。ティレグ……」
ヴィズルは鋭い瞳を細めて、困ったように腕を組んだ。だがティレグは自分の顔に気がついた。しらふではないだろうが、さほど酔っていたわけでもなさそうだ。
「……」
ヴィズルは先程ティレグがよろめいた甲板まで歩いて行った。ふと視線を落すと、琥珀色の甲板の上に、親指の爪ほどの大きさをした、小さな赤黒い液体が落ちている。その場にかがんで、手袋を外した指でヴィズルはそれをなぞった。
「血……? ティレグ……?」
ヴィズルは素早く立ち上がると、ティレグが消えたメインマスト前の開口部を見つめた。