4-20 副官への打診
文字数 2,738文字
『ヴィラード・ジャーヴィス中尉。参謀司令官のグラヴェール中将が、デスクでお前を待っているそうだ。早く行け』
『えっ? 何故私を?』
『そんなこと知るか。……けれど、お見それしたよ。君にグラヴェール中将っていう強力なコネがあったなんてね』
『まさか。そんなの……何かの間違いに決まってる』
それは半年ほど前のこと。
今と同じように、ロワールハイネス号のような後方業務に携わる運搬船に、ジャーヴィスは士官として乗っていた。この船にはジャーヴィスの他にラクートという若い中尉がいて、彼が副長を務めている。
二つ年下のラクートは、実はジャーヴィスより一週間早く中尉になったので、ただそれだけで副長に任じられたのだ。
あまり昇進願望がないジャーヴィスだったが、これには少々がっくりきた。
海軍は先任制度のため、同階級の者が複数いた場合、順位はその階級になった早い順で決められる。たった一週間の差で、大した能力を持たない者が自分の上官になることは、今回のケースのように結構ある。だが、実力主義のジャーヴィスにとって、これは耐え難い環境であった。
ラクートはジャーヴィスと同じ王都ミレンディルア出身で、貴族であることを鼻にかけ、水兵達をいいようにこき使っていた。艦長ですら、彼のやることは見てみぬ振りをしていた。ラクートのように裕福な貴族の息子とは、仲良くなったほうが、金なり縁故なり、それなりの見返りを期待できるからだった。
腐ったぬるま湯につかっているような、そんな日々を送っていたジャーヴィスに、アドビス・グラヴェールからの呼び出し命令が届いたのは、まさに晴天の霹靂 であった。
どういう因果なのかはわからない。
ジャーヴィスから見れば、参謀司令官であるアドビス・グラヴェールは雲の上の人間で、自分は何百人といる一中尉でしかなく、面識はもちろんない。
ジャーヴィスとてアドビスのことは、海軍指南書に出てくる内容――二十年前、実質エルシーア海賊を壊滅させた、優れた海将であることぐらいしか知らない。
内心爆弾を抱えたように緊張しつつ、ジャーヴィスはアドビスの執務室を訪ねた。そこで初めて間近で見たアドビスの姿は、ジャーヴィスの心に強烈な印象を与えたのだった。
物おじしない鋭い青灰色の双眸。じっと見入られただけで思考は停止し、身動きができなくなった。アドビスの目は何の感情もこもらない、暗い光が宿っているだけだったのだ。
ジャーヴィスは咄嗟に感じた。数えきれない場数の戦闘を繰り返せば、自分もこんな感情を凍り付かせたような目になるのだろうかと。漠然と海軍に入り過ごしてきた事をまざまざと意識しながら、ジャーヴィスは、これからの軍人としての生き方に戸惑いを覚えた。
「年はいくつだ? ジャーヴィス中尉」
執務席の前にジャーヴィスを立たせたアドビスが、低い声でつぶやいた。
「はっ……二十七になりました」
心臓の速くなる鼓動を聞きながらジャーヴィスは答えた。アドビスが自分の年を聞いてどうするのか、まったく予想できない。
「君の士官学校時代の成績は、かなり優秀であるのに……二十七にもなって、まだ中尉か」
執務机に肘をつき、アドビスは軽くため息をついた。
だから、何なのだ?
ジャーヴィスは思わず両手をぐっと握りしめた。
実質海軍省を牛耳っているアドビス・グラヴェールともあろう人物が、掃いて捨てるほどいる一中尉を呼び出した理由が、単なる嫌みを言いたかっただけとは思えない。
けれどジャーヴィスにも誇りがあった。昇進願望はないが、自分の能力がこんな所止まりであるとは思っていない。
脳裏をラクートの奢りきった醜い顔がよぎる。
たった一週間の差で昇進を逃した。運すら自分は見放されているのだろうか。
悔しい事に。
「気を悪くしたか。だがな、二十七で中尉ということは、君がいかに世渡りが下手であるかの何者でもない」
「……」
さらにたたみかけるアドビスの言葉に、ジャーヴィスは顔を青ざめさせたまま黙ってそれを聞いていた。もうどうでもよくなってきた。はやくアドビスが、自分を解放してくれないだろうか。ジャーヴィスはそれを願った。
「君は今の船から、どこか別の船に変わりたくはないか?」
「……」
ジャ-ヴィスのいら立ちを知っているのか。
興味深く見るアドビスの視線と顔を上げたジャーヴィスのそれがぶつかる。
「場合によりけりです……閣下」
ラクートよりもっと出来の悪い上官の下にいなければならないのだったら、即お断りだとジャーヴィスは思った。
「ならば、どうだね。私には息子がいるのだが、少し危なっかしい所があってな、あれの監視役を君に頼みたいと思っているのだ」
「えっ?」
意外なアドビスの申し出に、ジャーヴィスは一瞬戸惑った。
アドビスに息子がいるのは知らなかったし、何故自分がその監視役などしなければならないのかわからない。それに、気にしていないつもりだったが、アドビスに言われた言葉が胸にぐさりと深く突き刺さっていた。
『二十七で中尉ということは、いかに君が世渡りが下手であるかの何者でもない』
「……私はおべっか一つ使えず、金も縁故も持ち合わせない、世渡りの下手な人間です。けれども」
今となってはなんと大それた事を言ってしまったのだろう、と後悔したのだが、ジャーヴィスはしっかと胸を張り、アドビスを見据えて言葉を続けた。
「参謀司令の息子の副官――そんなものに食い付くほど、自分は落ちぶれておりません。自分の居場所は自分で選びます!」
ぴしゃりとそう言い放ち、震える両手をぐっと握りしめて、ジャーヴィスはアドビスに深々と一礼した。
「それでは、失礼いたします」
「……まあ待て」
笑いを含んだアドビスの声。聞き違いだろうか。
きびすを返そうとしたジャーヴィスは、今まで何の表情も浮かんでいなかったアドビスの顔に、穏やかな人間味ある微笑がたたえられているのを見た。
「やはり君は、私が思っていた通りの人物だ。ジャーヴィス中尉。君は己に誇りを持ち、何者の意見にも惑わされたり、誘惑されるような人間ではない」
「……」
だらだらと背中を冷や汗が伝っていく。
ジャーヴィスは満足そうに自分を見るアドビスを、ただ凝視しているだけだった。
今まで、そんな風に言われた事がなかったから。
頭の固い、融通がきかない人間だと、士官学校時代からずっと周囲の人間に、そう言われ続けてきたのだ。この性格は直らない。欠点だと思い込んでいたことが、アドビスの一言で、長所に変わった瞬間だった。
この時ジャーヴィスは、アドビス・グラヴェールという人物に興味を持ち、その申し出を僭越ですが、と受ける事にした。
自分の事を初めて認めてくれた、アドビスのために。
『えっ? 何故私を?』
『そんなこと知るか。……けれど、お見それしたよ。君にグラヴェール中将っていう強力なコネがあったなんてね』
『まさか。そんなの……何かの間違いに決まってる』
それは半年ほど前のこと。
今と同じように、ロワールハイネス号のような後方業務に携わる運搬船に、ジャーヴィスは士官として乗っていた。この船にはジャーヴィスの他にラクートという若い中尉がいて、彼が副長を務めている。
二つ年下のラクートは、実はジャーヴィスより一週間早く中尉になったので、ただそれだけで副長に任じられたのだ。
あまり昇進願望がないジャーヴィスだったが、これには少々がっくりきた。
海軍は先任制度のため、同階級の者が複数いた場合、順位はその階級になった早い順で決められる。たった一週間の差で、大した能力を持たない者が自分の上官になることは、今回のケースのように結構ある。だが、実力主義のジャーヴィスにとって、これは耐え難い環境であった。
ラクートはジャーヴィスと同じ王都ミレンディルア出身で、貴族であることを鼻にかけ、水兵達をいいようにこき使っていた。艦長ですら、彼のやることは見てみぬ振りをしていた。ラクートのように裕福な貴族の息子とは、仲良くなったほうが、金なり縁故なり、それなりの見返りを期待できるからだった。
腐ったぬるま湯につかっているような、そんな日々を送っていたジャーヴィスに、アドビス・グラヴェールからの呼び出し命令が届いたのは、まさに晴天の
どういう因果なのかはわからない。
ジャーヴィスから見れば、参謀司令官であるアドビス・グラヴェールは雲の上の人間で、自分は何百人といる一中尉でしかなく、面識はもちろんない。
ジャーヴィスとてアドビスのことは、海軍指南書に出てくる内容――二十年前、実質エルシーア海賊を壊滅させた、優れた海将であることぐらいしか知らない。
内心爆弾を抱えたように緊張しつつ、ジャーヴィスはアドビスの執務室を訪ねた。そこで初めて間近で見たアドビスの姿は、ジャーヴィスの心に強烈な印象を与えたのだった。
物おじしない鋭い青灰色の双眸。じっと見入られただけで思考は停止し、身動きができなくなった。アドビスの目は何の感情もこもらない、暗い光が宿っているだけだったのだ。
ジャーヴィスは咄嗟に感じた。数えきれない場数の戦闘を繰り返せば、自分もこんな感情を凍り付かせたような目になるのだろうかと。漠然と海軍に入り過ごしてきた事をまざまざと意識しながら、ジャーヴィスは、これからの軍人としての生き方に戸惑いを覚えた。
「年はいくつだ? ジャーヴィス中尉」
執務席の前にジャーヴィスを立たせたアドビスが、低い声でつぶやいた。
「はっ……二十七になりました」
心臓の速くなる鼓動を聞きながらジャーヴィスは答えた。アドビスが自分の年を聞いてどうするのか、まったく予想できない。
「君の士官学校時代の成績は、かなり優秀であるのに……二十七にもなって、まだ中尉か」
執務机に肘をつき、アドビスは軽くため息をついた。
だから、何なのだ?
ジャーヴィスは思わず両手をぐっと握りしめた。
実質海軍省を牛耳っているアドビス・グラヴェールともあろう人物が、掃いて捨てるほどいる一中尉を呼び出した理由が、単なる嫌みを言いたかっただけとは思えない。
けれどジャーヴィスにも誇りがあった。昇進願望はないが、自分の能力がこんな所止まりであるとは思っていない。
脳裏をラクートの奢りきった醜い顔がよぎる。
たった一週間の差で昇進を逃した。運すら自分は見放されているのだろうか。
悔しい事に。
「気を悪くしたか。だがな、二十七で中尉ということは、君がいかに世渡りが下手であるかの何者でもない」
「……」
さらにたたみかけるアドビスの言葉に、ジャーヴィスは顔を青ざめさせたまま黙ってそれを聞いていた。もうどうでもよくなってきた。はやくアドビスが、自分を解放してくれないだろうか。ジャーヴィスはそれを願った。
「君は今の船から、どこか別の船に変わりたくはないか?」
「……」
ジャ-ヴィスのいら立ちを知っているのか。
興味深く見るアドビスの視線と顔を上げたジャーヴィスのそれがぶつかる。
「場合によりけりです……閣下」
ラクートよりもっと出来の悪い上官の下にいなければならないのだったら、即お断りだとジャーヴィスは思った。
「ならば、どうだね。私には息子がいるのだが、少し危なっかしい所があってな、あれの監視役を君に頼みたいと思っているのだ」
「えっ?」
意外なアドビスの申し出に、ジャーヴィスは一瞬戸惑った。
アドビスに息子がいるのは知らなかったし、何故自分がその監視役などしなければならないのかわからない。それに、気にしていないつもりだったが、アドビスに言われた言葉が胸にぐさりと深く突き刺さっていた。
『二十七で中尉ということは、いかに君が世渡りが下手であるかの何者でもない』
「……私はおべっか一つ使えず、金も縁故も持ち合わせない、世渡りの下手な人間です。けれども」
今となってはなんと大それた事を言ってしまったのだろう、と後悔したのだが、ジャーヴィスはしっかと胸を張り、アドビスを見据えて言葉を続けた。
「参謀司令の息子の副官――そんなものに食い付くほど、自分は落ちぶれておりません。自分の居場所は自分で選びます!」
ぴしゃりとそう言い放ち、震える両手をぐっと握りしめて、ジャーヴィスはアドビスに深々と一礼した。
「それでは、失礼いたします」
「……まあ待て」
笑いを含んだアドビスの声。聞き違いだろうか。
きびすを返そうとしたジャーヴィスは、今まで何の表情も浮かんでいなかったアドビスの顔に、穏やかな人間味ある微笑がたたえられているのを見た。
「やはり君は、私が思っていた通りの人物だ。ジャーヴィス中尉。君は己に誇りを持ち、何者の意見にも惑わされたり、誘惑されるような人間ではない」
「……」
だらだらと背中を冷や汗が伝っていく。
ジャーヴィスは満足そうに自分を見るアドビスを、ただ凝視しているだけだった。
今まで、そんな風に言われた事がなかったから。
頭の固い、融通がきかない人間だと、士官学校時代からずっと周囲の人間に、そう言われ続けてきたのだ。この性格は直らない。欠点だと思い込んでいたことが、アドビスの一言で、長所に変わった瞬間だった。
この時ジャーヴィスは、アドビス・グラヴェールという人物に興味を持ち、その申し出を僭越ですが、と受ける事にした。
自分の事を初めて認めてくれた、アドビスのために。