4-64 ヴィズル、絶叫する
文字数 3,816文字
「頭のイカレた奴にこれ以上つきあってられるかってんだ! 何が何でも俺は島に戻ってやるからな」
鼻息荒くヴィズルは甲板へと出た。
外は雲一つない晴天。どこまでも続く青い空は、遥か彼方、前方の水平線の境がわからないほど透明で澄んだ色をしている。
見渡す限りの海も白い波頭が立たないほど穏やかで、ロワールハイネス号の碧色をした船体に、波がひたひたとぶつかる音が聞こえるぐらい辺りは静寂だ。
正午をすぎた太陽のまっすぐな光が、ざらついたロワールハイネス号の白い甲板に反射して、ヴィズルの顔に容赦なく照りつけてくる。
「なんだよ。すっかり凪 いじまったのか?」
ロワールハイネス号の一番前――フォアマストに上げられた四角い帆と、その先――舳先にはためいていた三角帆が力なくだらりと垂れ下がっている。
風まで自分にそっぽを向いてしまったのだろうか。
ヴィズルは小さく悪態をつき、かすかにそよぐ風を頬に受けながら、背後の後部甲板に上がる数段の階段を昇った。
後部甲板の中央に設置されているロワ-ルハイネス号の舵輪は、誰も舵をとっていないかのように、ゆらゆらと左右に動いている。ヴィズルはそれに近付くと左手を伸ばし、一つだけ金の覆いがつけられた柄を握りしめた。ぐっと力を込めて、それを左に回してみる。
「ぐ……ぐぐぐぐぅっ……!」
両足を踏ん張り右手も別の柄にかけ、歯を食いしばり、全身の筋肉の力をもって舵輪を回そうと試みる。だが舵輪は固定されているかのようにびくとも動かない。
「……」
ヴィズルは柄を握りしめたまま、大きく息をついて恨めしげに舵輪を睨んだ。
「くそっ……ロワール! 邪魔するのはよせよ。少しでも風が残っているうちに、島に向かった方がいいってこと、あんたにはわからないのか?」
ヴィズルは両腕を舵輪に預け、その上に顎をのせてつぶやいた。
体がだるい。
本調子ではないせいか、いまいち力が入らない。
そういえば昨晩は、多くの船に精霊を縛り付ける作業で力を使い、ろくに休息も食事もとっていないのだ。いや体力を取り戻しても、この舵輪を
静まり返った甲板で応える声はない。
それでもヴィズルは口を開いた。
「この船はロクに水と食料を積んでないんだぜ。こんなところにいたら、俺もシャインも日干しになって死んじまう。もって四日が限度だぜ……」
「シャインは大丈夫よ。だから私は、彼がいいと言うまでここを動かないわ」
ヴィズルは乾いてきた唇を舐めて、小さく毒づきながら、声がした前方を見つめた。そこには後部甲板の手すりにもたれ、太陽の光を受けて輝く鮮やかな紅髪を揺らし、船の精霊・ロワールが、ヴィズルを真っ直ぐ見据えて立っていた。
その姿を見たヴィズルは、ロワールに引っ叩かれた頬を無意識にさすった。
いい平手打ちだった。
初めて会った時にくらったそれと全く同じで。
さっき調理室で見た時は暗くてよく分からなかったが、彼女はヴィズルの虜になる以前そうであったように、生身の人間と見紛うくらい、生気と活気に満ちあふれた姿を取り戻しつつある。
その理由を想像するのは難くなかった。船の精霊は船を慈しむ人間の糧 を得たのだ。
シャインがロワールハイネス号に寄せる『想い』は、執着としかいいようのない深さを秘めている。それがロワールをより早く回復させたのだろう。
「……シャインは大丈夫だと? それは」
一瞬考え込むヴィズルを見て、ロワールが小さく唇を動かし微笑する。
それをいまいましげにながめながら、ヴィズルは思わず舌打ちした。
シャインが閉じこもった部屋は調理室の中の、しかも食料を一時的に
「くそっ!」
ヴィズルは後部甲板の階段を駆け降りて、昇降口 から船尾の下甲板に行った。艦長室へたどり着くと扉を開き、ずかずかと中に入り込むと、シャインの執務机の上に置いてあったランプをわしづかみにして部屋を出る。
ランプに火を灯し、ヴィズルはいそいそと船倉へ向かった。
一度見ているから水は駄目になっているし、食料や酒も残っていないことはわかっていたが――。
わかっていたから、蓋の開いた樽がいくつも床に転がっているのを見てそれを蹴飛ばした。腹の中が再びふつふつと煮えたぎってくる感覚を覚えながら、ヴィズルは艦長室へと戻った。
叩き付けるようにランプを執務机の上に置いて、ヴィズルはその引き出しという引き出しを開けて、中身を机の上にばらまきはじめた。
本。本。本。箱。インク壷。銀色のペーパーナイフ。便箋一冊。未使用の封筒数枚。海岸で拾ったのか淡い桃色をした二枚貝が一つ。
空になった小ビンが三つ。蓋を開けてみるとかすかに甘い臭いがする。砂糖の類いでも入っていたのだろう。すでに中身がないことにがっかりしつつ、ヴィズルは右側の引き出し三段を開けた。するとそこには、緑色の拳二個分ほどの大きさの箱がざっと二十箱ほど入っている。
ヴィズルは腹立たしさのあまり思わず叫んだ。
いや、絶叫かもしれない。
「なんだよ、この
ヴィズルは力任せに引き出しを抜いて、茶葉の入った箱を床にぶちまけた。
足元の近くに落ちたそれを思いきりブーツで踏み付ける。箱が潰れ、中身の茶葉がこぼれ、踏まれる度に乾燥した葉の甘酸っぱい匂いが部屋に立ちのぼる。
「冗談じゃないぜ! こん畜生め!」
まったくもって信じられない。ヴィズルは背後のクローゼットの中も開けて、何か食料や酒の類いが隠されていないか探しまくった。けれども一切それらしきものはでてこない。
むきになる自分を必死で抑えながら、ヴィズルはシャインの個室と執務室を区切っている、左舷側の水色のカーテンを開け放った。寝台と読書台しかない狭い部屋だが、そこもくまなく探してみる。
だが出てきたのはすでに干からびたスコーンの欠片と、ネズミが食い散らかした穴の開いた箱のみだった。
ヴィズルはそれを取り上げて、口元を引きつらせ、視線を中空に彷徨わせたまま、ぐしゃりと左手でつぶし、部屋の隅に放り投げた。
銀髪をひるがえし、どたどたと足音を鳴らして艦長室に戻る。
「シャインの奴……ふざけるなよ! 普通、船長や艦長って類いの連中は、自分用に酒の一本や二本は持ち込んでいるもんだぜ! 来客のために上質な酒だって置いているはずだ。それなのに、
ヴィズルは怒りのあまり拳で壁を殴りつけた。
「……自分の置かれた状況はわかったようね。だったら降参して、おとなしくシャインの言う通りにしたら?」
明らかに人を馬鹿にしたような声だ。
ヴィズルは反射的に振り返った。すると艦長室の戸口で、ロワールが両腕を組んで面白そうにヴィズルを見ながら立っているではないか。
「誰が……!」
ヴィズルは目を細め、ロワールに噛み付くようにそう言うと、彼女の脇を通りすぎて外の上甲板に向かった。
「誰が、シャインの言う通りにするか! くそっ。ロワールの回収なんかやめて、昨日の夜はさっさとアジトに戻れば良かったぜ」
今更後悔したところで何も変わらないが。
ヴィズルはただ一つの望みにかけて前方を眺めた。
そのために甲板に出たのだ。自力で島に帰るには、とにかく船が必要だから。
ロワールハイネス号を動かせないなら、船に積載されている雑用艇 を海に下ろし、それに乗って島へ向かえば良い。ヴィズルに残された手段はこれしかない。
シャイン達はまだ半日程度しか帆走していないから、島からさほど離れたわけではなかった。だから、小さな雑用艇 で島に帰ることは不可能ではないのだ。
しかし今、風はすっかり止んでしまっていた。じりじりと太陽の光がヴィズルに降り注ぎ、始めは心地よいと思っていたそれが、次第に体温を上昇させてくる。怒りで興奮しているせいで余計に暑い。
ヴィズルは甲板を船首方向に向かって歩いた。中央のメインマストの前にある、小さな建物――海図室の屋根を雑用艇 はひっくり返された状態で、上から帆布を被せてロープで固定してある。
――はずだった。
ヴィズルは両目を見開いてあるべき雑用艇 を見い出そうとした。
だが海図室の屋根の上にはその姿がない。
ロワールハイネス号に積載されている小船はその一隻のみなのに。
ヴィズルは雑用艇がこの場所にない理由を思い出した。
「ああ……そうだ!雑用艇 に乗せて海へ流したんだったぜ!」
ロワールハイネス号の雑用艇 は、その乗組員全員を乗せるのに丁度良い大きさだったので使用したのだった。
頭の中が太陽の光に照らされたように真っ白になっていく。なんともいえない虚脱感が襲ってきて、ヴィズルはその場にゆっくりと膝をついた。
「……」
ヴィズルは膝をついたまま顔を上げ、恨めしげに、もう一度海図室の屋根を見上げた。何もない平坦な屋根の上から、真っ青な空とフォアマスト が金色に輝き天を突き刺さんとする様が見える。
「くそったれ!!」
ヴィズルは体を後ろに倒して、甲板の上に仰向けに寝そべった。
拳を天に突き上げて、子供のようにわめきまくった。
「冗談じゃねえぞ! まったくーー!!」
鼻息荒くヴィズルは甲板へと出た。
外は雲一つない晴天。どこまでも続く青い空は、遥か彼方、前方の水平線の境がわからないほど透明で澄んだ色をしている。
見渡す限りの海も白い波頭が立たないほど穏やかで、ロワールハイネス号の碧色をした船体に、波がひたひたとぶつかる音が聞こえるぐらい辺りは静寂だ。
正午をすぎた太陽のまっすぐな光が、ざらついたロワールハイネス号の白い甲板に反射して、ヴィズルの顔に容赦なく照りつけてくる。
「なんだよ。すっかり
ロワールハイネス号の一番前――フォアマストに上げられた四角い帆と、その先――舳先にはためいていた三角帆が力なくだらりと垂れ下がっている。
風まで自分にそっぽを向いてしまったのだろうか。
ヴィズルは小さく悪態をつき、かすかにそよぐ風を頬に受けながら、背後の後部甲板に上がる数段の階段を昇った。
後部甲板の中央に設置されているロワ-ルハイネス号の舵輪は、誰も舵をとっていないかのように、ゆらゆらと左右に動いている。ヴィズルはそれに近付くと左手を伸ばし、一つだけ金の覆いがつけられた柄を握りしめた。ぐっと力を込めて、それを左に回してみる。
「ぐ……ぐぐぐぐぅっ……!」
両足を踏ん張り右手も別の柄にかけ、歯を食いしばり、全身の筋肉の力をもって舵輪を回そうと試みる。だが舵輪は固定されているかのようにびくとも動かない。
「……」
ヴィズルは柄を握りしめたまま、大きく息をついて恨めしげに舵輪を睨んだ。
「くそっ……ロワール! 邪魔するのはよせよ。少しでも風が残っているうちに、島に向かった方がいいってこと、あんたにはわからないのか?」
ヴィズルは両腕を舵輪に預け、その上に顎をのせてつぶやいた。
体がだるい。
本調子ではないせいか、いまいち力が入らない。
そういえば昨晩は、多くの船に精霊を縛り付ける作業で力を使い、ろくに休息も食事もとっていないのだ。いや体力を取り戻しても、この舵輪を
力
で回すことは誰にもできないだろう。静まり返った甲板で応える声はない。
それでもヴィズルは口を開いた。
「この船はロクに水と食料を積んでないんだぜ。こんなところにいたら、俺もシャインも日干しになって死んじまう。もって四日が限度だぜ……」
「シャインは大丈夫よ。だから私は、彼がいいと言うまでここを動かないわ」
ヴィズルは乾いてきた唇を舐めて、小さく毒づきながら、声がした前方を見つめた。そこには後部甲板の手すりにもたれ、太陽の光を受けて輝く鮮やかな紅髪を揺らし、船の精霊・ロワールが、ヴィズルを真っ直ぐ見据えて立っていた。
その姿を見たヴィズルは、ロワールに引っ叩かれた頬を無意識にさすった。
いい平手打ちだった。
初めて会った時にくらったそれと全く同じで。
さっき調理室で見た時は暗くてよく分からなかったが、彼女はヴィズルの虜になる以前そうであったように、生身の人間と見紛うくらい、生気と活気に満ちあふれた姿を取り戻しつつある。
その理由を想像するのは難くなかった。船の精霊は船を慈しむ人間の
想い
で生きているから、シャインと再会したことにより、ロワールは生きるためのシャインがロワールハイネス号に寄せる『想い』は、執着としかいいようのない深さを秘めている。それがロワールをより早く回復させたのだろう。
「……シャインは大丈夫だと? それは」
一瞬考え込むヴィズルを見て、ロワールが小さく唇を動かし微笑する。
それをいまいましげにながめながら、ヴィズルは思わず舌打ちした。
シャインが閉じこもった部屋は調理室の中の、しかも食料を一時的に
保管
しておく小部屋だったことに気付いて。「くそっ!」
ヴィズルは後部甲板の階段を駆け降りて、
ランプに火を灯し、ヴィズルはいそいそと船倉へ向かった。
一度見ているから水は駄目になっているし、食料や酒も残っていないことはわかっていたが――。
わかっていたから、蓋の開いた樽がいくつも床に転がっているのを見てそれを蹴飛ばした。腹の中が再びふつふつと煮えたぎってくる感覚を覚えながら、ヴィズルは艦長室へと戻った。
叩き付けるようにランプを執務机の上に置いて、ヴィズルはその引き出しという引き出しを開けて、中身を机の上にばらまきはじめた。
本。本。本。箱。インク壷。銀色のペーパーナイフ。便箋一冊。未使用の封筒数枚。海岸で拾ったのか淡い桃色をした二枚貝が一つ。
空になった小ビンが三つ。蓋を開けてみるとかすかに甘い臭いがする。砂糖の類いでも入っていたのだろう。すでに中身がないことにがっかりしつつ、ヴィズルは右側の引き出し三段を開けた。するとそこには、緑色の拳二個分ほどの大きさの箱がざっと二十箱ほど入っている。
ヴィズルは腹立たしさのあまり思わず叫んだ。
いや、絶叫かもしれない。
「なんだよ、この
大量
のシルヴァンティーの茶葉はー―!!」ヴィズルは力任せに引き出しを抜いて、茶葉の入った箱を床にぶちまけた。
足元の近くに落ちたそれを思いきりブーツで踏み付ける。箱が潰れ、中身の茶葉がこぼれ、踏まれる度に乾燥した葉の甘酸っぱい匂いが部屋に立ちのぼる。
「冗談じゃないぜ! こん畜生め!」
まったくもって信じられない。ヴィズルは背後のクローゼットの中も開けて、何か食料や酒の類いが隠されていないか探しまくった。けれども一切それらしきものはでてこない。
むきになる自分を必死で抑えながら、ヴィズルはシャインの個室と執務室を区切っている、左舷側の水色のカーテンを開け放った。寝台と読書台しかない狭い部屋だが、そこもくまなく探してみる。
だが出てきたのはすでに干からびたスコーンの欠片と、ネズミが食い散らかした穴の開いた箱のみだった。
ヴィズルはそれを取り上げて、口元を引きつらせ、視線を中空に彷徨わせたまま、ぐしゃりと左手でつぶし、部屋の隅に放り投げた。
銀髪をひるがえし、どたどたと足音を鳴らして艦長室に戻る。
「シャインの奴……ふざけるなよ! 普通、船長や艦長って類いの連中は、自分用に酒の一本や二本は持ち込んでいるもんだぜ! 来客のために上質な酒だって置いているはずだ。それなのに、
何もない
っていうのはどういうことだ! お子様かっ! てめえはよーー!!」ヴィズルは怒りのあまり拳で壁を殴りつけた。
「……自分の置かれた状況はわかったようね。だったら降参して、おとなしくシャインの言う通りにしたら?」
明らかに人を馬鹿にしたような声だ。
ヴィズルは反射的に振り返った。すると艦長室の戸口で、ロワールが両腕を組んで面白そうにヴィズルを見ながら立っているではないか。
「誰が……!」
ヴィズルは目を細め、ロワールに噛み付くようにそう言うと、彼女の脇を通りすぎて外の上甲板に向かった。
「誰が、シャインの言う通りにするか! くそっ。ロワールの回収なんかやめて、昨日の夜はさっさとアジトに戻れば良かったぜ」
今更後悔したところで何も変わらないが。
ヴィズルはただ一つの望みにかけて前方を眺めた。
そのために甲板に出たのだ。自力で島に帰るには、とにかく船が必要だから。
ロワールハイネス号を動かせないなら、船に積載されている
シャイン達はまだ半日程度しか帆走していないから、島からさほど離れたわけではなかった。だから、小さな
しかし今、風はすっかり止んでしまっていた。じりじりと太陽の光がヴィズルに降り注ぎ、始めは心地よいと思っていたそれが、次第に体温を上昇させてくる。怒りで興奮しているせいで余計に暑い。
ヴィズルは甲板を船首方向に向かって歩いた。中央のメインマストの前にある、小さな建物――海図室の屋根を
普通に
見上げた。海図室の上に、上陸用の――はずだった。
ヴィズルは両目を見開いてあるべき
だが海図室の屋根の上にはその姿がない。
ロワールハイネス号に積載されている小船はその一隻のみなのに。
ヴィズルは雑用艇がこの場所にない理由を思い出した。
「ああ……そうだ!
クラウス達
を、ロワールハイネス号の
頭の中が太陽の光に照らされたように真っ白になっていく。なんともいえない虚脱感が襲ってきて、ヴィズルはその場にゆっくりと膝をついた。
「……」
ヴィズルは膝をついたまま顔を上げ、恨めしげに、もう一度海図室の屋根を見上げた。何もない平坦な屋根の上から、真っ青な空と
「くそったれ!!」
ヴィズルは体を後ろに倒して、甲板の上に仰向けに寝そべった。
拳を天に突き上げて、子供のようにわめきまくった。
「冗談じゃねえぞ! まったくーー!!」