4-81 食わせ者

文字数 4,007文字

 濃紺の水平線に全貌を露わにした陽が昇るのを、ジャーヴィスは後部甲板の右舷側の手すりにもたれてながめていた所だった。

「中、中尉! 危ないっ!」

 ジャーヴィスは後方で舵輪を握る年かさの航海士の声で、頭上をよぎる黒い影に思わずその場へしゃがみこんだ。ミズンマスト(最後尾)の太い家の梁のような帆桁(ブーム)が、ぐるりと右に旋回してきたのだ。

「誰が転舵しろと言った!!」

 ジャーヴィスは当然のように航海士に向かって叫んだ。
 ロワールハイネス号は南東の風を左舷側に受けて帆走していた。それが今は、今まで向かっていた北西ではなく、太陽を背に西へと舳先が向いている。

「それが勝手に舵輪が物凄い力で動いたんです!」
「何だと? まあいい、すぐ元の針路へ戻してくれ」
「は、はいっ」

 航海士は潮焼けした二の腕に力を込めて、歯を食いしばりながらロワールハイネス号の舵輪を回そうと必死になっている。だが舵輪は凍り付いたようにびくともしない。

「駄目です! 操舵装置の索が絡まったのか、全然動きません」
「何だと?」

 舵輪の故障かとジャーヴィスが眉をひそめた時だった。

「ジャーヴィス副長」

 ジャーヴィスは後方から響いたシャインの声にはっと振り返った。
 シャインは青い航海服に左腕だけ通し、袂を押さえながら後部甲板の階段を昇ってきた所だった。

 旗のようにはためく航海服の裾と、束ねていない華奢な金髪を後方へ流しながら、ジャーヴィスを見据えるシャインの顔は、普段のそれより幾分上気している。
 ジャーヴィスはそそくさとシャインの前に立ち塞がった。

「舵の具合がおかしくなりました。ですが、これから調べますので、あなたはどうか下に戻ってお休み下さい」

 だがシャインはゆっくりと首を振った。

「舵が壊れたわけじゃないんだ、ジャーヴィス副長。俺がロワールに頼んで、船の向きを変更させてもらったんだ」
「えっ……?」

 ジャーヴィスは自分が発した驚きの声に焦りながらシャインを見返した。確かに、この船の精霊・ロワールは、シャインを助けるべく、ストームの船にロワールハイネス号を突っ込ませた事もある。
 シャインが熱にうかされてそんなことを口走ったのかという考えを、ジャーヴィスは即座に捨て去った。

「それは本当ですか? どうしてそんなことを」

 シャインはあくまでもすました表情でジャーヴィスを見つめている。
 ジャーヴィスは胸の内で、シャインにしてやられたという気持ちで一杯になるのを感じた。

「すまないが

ができたので、アスラトルへは帰らず、エアリエル号の所へ戻らせてもらうよ」

 ジャーヴィスはぎりと奥歯を噛みしめた。
 ああそうだ。いつもそうだ。
 いつだってシャインは、すべてを決めてからジャーヴィスに打ちあける。
 時と場合によっては、それがたまらなく許せなくなる。
 こちらの気持ちも知らないで――。
 ジャーヴィスは目を細め、断固拒否した。

「駄目です。私は今度こそ中将閣下と約束したのです。あなたを何が何でも、アスラトルへ無事に連れて帰ると」

 それを聞いたシャインは、上気した顔に気弱な笑みを浮かべた。
 ジャーヴィスの心情を察していても、決してシャインが自分の考えを改める事はない。自分の行動が正当だと信じている限り。そういう人なのだ。彼は。

「中将に命じられたのなら、君はその命令に従わなければならない。君の立場はよくわかるよ。だから、君を説得するより先に、船の向きを変えさせてもらった」
「大きなお世話です」

 ジャーヴィスはいらいらと言い返した。
 本当に、こちらの気持ちも知らないで。と、喉元まで込み上げた言葉を飲み込む。

 ジャーヴィス自身も実は、エアリエル号を残してアスラトルへの帰路につく事に、一抹の未練を抱いていたのだ。

 だがそれはアドビスたっての頼みだった。だからジャーヴィスは、アドビスのただ一つの不安を取り除き、その心が望むまま戦いに集中できるようにと願って、後ろ髪を引かれながらも命令に従ったのだ。

 シャインとリオーネの身を託されたからには、その命令を完遂する。
 やっとそう、自分の心を納得させた所だったのに。

「ジャーヴィス副長。シャインの言う通りにしてもらえませんか」

 ジャーヴィスはぎくりと身を固くした。目の前で立っていたシャインも驚いたように後方を振り返る。
 薄緑色の淡いケープを羽織り、白い長衣の裾を手でつまみながら、リオーネが後部甲板に上がってきた。

「リオーネさん……どうして」

 シャインが上がってきたリオーネの為に自分の場所を移動する。

「リオーネ様」

 ジャーヴィスも思わずリオーネに声をかけた。
 リオーネは薄く微笑し、ジャーヴィスに明るい新緑の瞳を向けた。

「私達を戦に巻き込むまいとする、アドビス様のお気持ちは良く分かります。でもこのままアスラトルへ帰れば、シャインの心には大きな悔いが残ってしまうの」
「悔い……」

 シャインは察する所、今のジャーヴィスと同じ心境なのだろうか。
 ジャーヴィスは、同意するようにゆっくりとうなずくシャインを見つめた。

「すまない。どうしても俺は戻りたいんだエアリエル号へ。それも急いでね」

 シャインが航海服の袂から左手を放し、そっと、だがしっかりとジャーヴィスの右肩をつかんだ。
 はっとするくらい鮮やかなシャインの青緑の瞳がジャーヴィスを見上げている。そこに浮かぶ感情は懇願だった。

「ジャ-ヴィス副長。俺は君に一切の仔細をまだ話していない。だが、これから時間の許す限りそれを話す。だから俺をエアリエル号まで送ってくれ。その後で中将の命令通り、リオーネさんを連れてアスラトルへ帰って欲しい」

 ジャーヴィスは右肩に置かれたシャインの手をそっとつかんで外した。
 驚くほどではないが、やはりその手は、手袋越しでもわかるくらい熱かった。

「嫌です」
「ジャーヴィス……!」

 ジャーヴィスは両腕を組んで、大きく一つため息をついた。
 それから額にかかる前髪をさっと払い、自分を見つめるシャインの顔をながめ、うんざりするかのようにつぶやいた。

「あなたは本当に……勝手だ」

 シャインが一瞬唇を噛みしめ、眉間を寄せた。

「それは分かっている。だから、君に理解してもらうために事情を話すし、それを聞いて欲しいと頼んでいるんだ」

 ジャーヴィスは再び腕を組んだまま、ふっと笑みを浮かべた。
 肩を震わせて、やがて込み上げてきたその感情に耐えきれずに、長身を深々と折って口元を押さえる。

「あなたが私に『頼む』ですって? 何でそんなことをする必要があるのですか。あなたは私の

で、このロワールハイネス号の

なのですよ?」
「ジャーヴィス……?」

 シャインの戸惑う表情を見据えながら、ジャーヴィスは小さく忍び笑いを続けて言った。

「私が勝手だと言ったのは、あなたが

でエアリエル号に行くという事に対してです。私はあなたの副官です。あなたを補佐するのが務めです。ですから、その職務を無視して、一人だけ置いて行かれるのはもう沢山なんです!」

 シャインは息を詰めてジャーヴィスを見つめていた。だがジャーヴィスの言わんとする一切のことを理解したシャインは、しかめていた眉間の緊張を解き、安堵したのか、階段の手すりに左手をついて、崩れかけた体勢を支えた。

「シャイン」

 リオーネが気遣うようにシャインの傍らに寄り添う。

「大丈夫です。ちょっと船が揺れたから……」

 見えすいた言い訳で照れを隠しつつ、シャインは笑っていた。
 頬が赤味を帯びているので、その笑みは十代の子供のように幼く、無邪気だった。

「ジャーヴィス副長。君って人は、とんだ食わせ者だよ!」

 シャインが久しぶりに見せた笑顔につられて、ジャーヴィスもにやりと微笑した。

「あなたにはかないませんがね。……それでは、水兵達に針路を命じて、エアリエル号へ戻る事にいたしましょうか。急がないと、中将閣下と海賊の戦闘が始まってしまいます」

 だがシャインは急に微笑を沈ませ、意味ありげにジャーヴィスを見つめた。
 今度は何か悪い事をしでかし、それを親に告白しなければならない子供みたいな表情だ。

「どうしました?」

 ジャーヴィスがシャインの顔をうかがうと、シャインはばつが悪そうに目を伏せた。

「俺がエアリエル号に戻るのは、あの人のためじゃない。ヴィズルを助けるためなんだ」
「何ですって? 確かにヴィズルは、無謀にも一人で中将閣下の所に乗り込んで、あえなく捕えられましたが……」

 シャインは唇を噛みしめ、かぶりを振った。

「やはりつかまったのか。それではなおの事、戻らなくては……」

 シャインは航海服の袂を押さえ、ジャーヴィスの肩ごしに動かぬ舵輪を握りしめたままいる航海士に声をかけた。

「西へ船を進めてくれ。君がその命令を違わぬ限り、舵輪が動かなくなる事はないから安心してほしい」
「は、はいっ。グラヴェール艦長」

 航海士はしわを帯びた両手をくねらせ、意を決したように、舵輪を再び握り直した。恐る恐る回してみる。舵輪は今までと変わらない感触で回転した。

「ああ、動いた! 動きました!」

 シャインはそれに満足して微笑すると、表情が再び険しくなったジャーヴィスに声をかけた。

「下へ来てくれるかい? ジャーヴィス副長。エアリエル号の元へ行くまでに数時間ほど話をする時間がある。リオーネさんも……ぜひ一緒に」
「もちろんです。ぜひ聞かせてもらいましょう」
「ええ」

 シャインとリオーネは連れ立って先に階段を降りて行った。
 その後からジャーヴィスも降りつつ、シャインに声をかける。

「水兵達に針路変更の指示を出してきます。五分以内に艦長室へ行きますから」
「わかった。それじゃあ部屋で待っている」

 ジャーヴィスは軽くうなずいて、後部ハッチから船内へ入るシャインの背中を見送った。

 ――アドビスの命にまた背いてしまった。
 その事に、わずかな後ろめたさと罪悪感を抱きながら。
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