第23話 本当は退屈しているあなた

文字数 1,898文字

 僕の言葉は口から零れると同時に揮発して、大気中の数多の微粒子の中に溶け込んだように感じられた。あるいは、発射された後、狙いを大きく外して、放物線を描いて彼女の手の中のコーヒーカップにちゃぽん! と落っこちたようにも見えた。
 が、しかし。
「そうなんだぁ」
 高く柔らかな声により、僕の言葉は彼女に

ように思えた。けれども、

はわからない。

 二人の間を、透明度の高い初秋の風が吹き抜けた。
 窓からは、風だけでなく夕方に近い時刻のオレンジに色づいた日射しも入り込もうとしていて、ダイニングテーブルの上に、レースのカーテンと同じ木の葉柄の影を作っている。風向きが変わってきたようで、テーブル上の黒い木の葉は、どんどんアクロバティックなダンスを披露し始め、お菓子の空袋がつーっとスケートのように滑った。彼女は僕から窓へと視線の行き先を変える。

 僕の方は、彼女の茶色い瞳を見つめる。よく見ると、コンタクトレンズ型のウェアラブルデバイスが瞳を覆っているのが見える。耳には、一見ファッション用イヤクリップのような骨伝導聴覚デバイス。

 それらの機械がある限り、彼女が

見ているのがこの部屋の窓なのか、聞いているのが僕の話なのか、僕からはわからない。動画、音楽、電子書籍だって、そばにいる人にわからないように視聴できるのだから。

 退屈な授業や会議の最中に、あるいは誰かと一緒にいるときだって、音楽を聞いたり、動画視聴をしたり、人知れず暇潰しする人が増えている。ある統計によれば、今や50パーセント以上の人が、他人の話をまともに聞いていないという。電子書籍の売り上げランキングには、いつも上位に「他人に気づかれないように動画を視聴するちょっとしたコツ」みたいな本が入っている。
 そうして、そのことについて、敢えて言及したりしてはいけない。それは個人の自由を侵すマナー違反だから。
 けれども、僕はそんな透明な壁を打ち破りたくてイライラしてしまう。

「さっき、さ」

 彼女は、物憂げな顔を僕の方へと向ける。
 その瞳が、本当は何を見ているのかはわからない。

「さっき窓の外を紫色の象が飛んでいるのを見たんだ」

 彼女は少し小首を傾げて、「ふぅん」と相槌とも疑問ともつかぬ小さな声を上げて僕を見る。

「それから……昨日なんだけど、歌舞伎町で五千万円の日本刀とマンゴー味のタピオカドリンクを買って、覚せい剤を積んだトラックを襲撃して、岡山でロケをやっていたハリウッド映画にエキストラ出演してきたんだ」

 それでも彼女は表情を変えることなく「そうなんだぁ」と相槌を打つ。その顔には、ずっと相変わらず張り付けたような穏やかな笑み。
 ああ、やっぱり聞いていない。僕の話の内容なんて、ちっとも聞いてはいないんだ――。

    ◇      ◇      ◇

「――相手の言うことを否定するのは避けましょう。ただし、なんでもかんでも肯定すると、わざとらしい感じがします。適度な距離感を感じさせるような曖昧な返事で……」

 視界の隅に見える「メンタルケアの基本」の一節を読みつつ、私は彼の様子を確認する。見た感じは普通だ。言ってることは無茶苦茶だけど。

 彼が病んでしまったのは、視聴覚デバイス<Beside>が普及して少し経ったあたりから。
 最初は、「え? アレ?」って感じで、それから視聴しているデバイスのせいだと思ったから「私と一緒にいるのに何見てるの」って今度は腹が立って。でも、そういうのを指摘するのはマナー違反ってなってるから、言えないし。言えないから、余計にムカつくし。

 でも、なんか違うなって思って。こっそり彼のデバイスの利用履歴調べたら、私といるときはほとんど使っていないし。
 それで、いろいろ調べてみて、わかったの。たぶんアレだって。
 今、話題になっている奴。視聴覚デバイスが発達しすぎて、人間関係に自信が持てなくなってメンタルを病む人が増えたって。彼は繊細だから、きっとメンタルをやられちゃったんだわ。

 だから私は、とりあえず彼の言葉に相槌を打つ。ひたすら肯定する。マニュアル通りに。どんなにその内容が矛盾だからけで荒唐無稽で正気を失うような内容であったとしても。ちょっとストレスだけど。

「それから……昨日なんだけど、歌舞伎町で五千万円の日本刀とマンゴー味のタピオカドリンクを買って、覚せい剤を積んだトラックを襲撃して、岡山でロケをやっていたハリウッド映画にエキストラ出演してきたんだ」

 ――また変なこと言ってる……ま、これはこれで退屈しなくていいか。

 私は彼に、曖昧でまろやかな笑顔を向け続ける。

(終わり)
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