第35話 自由の代償
文字数 2,407文字
「いや、ですからもちろん、強制 ではないんですよ。矯正 は。いや、話がややこしくなりますね。ともかく、ご自身の意思を最大限尊重はしますが……」
「でしたら、放っておいてください」
「しかし……」
男は玄関に立ったまま、家主の背後に広がる、家の中の混沌 をちらと見遣った。
テーブルの上には、封を切ったレトルトの空袋と何かの景品と思しきキャラクターグッズと萎れた花とコンビニのビニール袋が、食器類の間に雑然と乗っかっている。ダイニングの椅子の上から床にかけては、洗ったのか洗っていないのかが判然としない服が何着も零れ落ちていた。その横のゴミ箱からはインスタント食品のプラカップ、紙カップ、空き袋、割りばしが溢れている。
男が立っている玄関も、壁際にずっと色の変わった新聞紙や雑誌が腰ほどの高さに積みあがっており、ご丁寧にその頂点には虫の死骸がトッピングされている。――長い間、掃除はおろか、片付けもされていないことを伺わせる部屋は、男の目には人間の住処とも思えないものだった。。
しかし、男の前に立ちはだかるように仁王立ちしている初老の女性は頑 なな様子だ。
「あの、もう少し人間らしい生活を……」
最初の男の横にいた、若い男が言いかけるが、肘でつつかれて言葉を止める。
「人間らしい生活って何ですか。馬鹿にしているんですか」
女性に語気強く言い返されて思わず後ずさった若い男は、玄関の段差でコケそうになり、思わず手を付いた古新聞の山の上のホコリと虫の死骸に「ひぃ」と声にならない悲鳴を上げた。
ピリピリとした沈黙が三秒ほど続いた後、最初の男が、眉を八の字に寄せ、さも「困った」というような顔で切り出した。
「あの、一応ですね、説明の義務がありまして……もちろん、最終的な選択はご自身によるものなんですが、一応あの、説明だけ。終わったら、帰りますんで」
男の平身低頭といった態度に、女性も無言のまま早くしろと言わんばかりの溜め息だけつく。
男は手に持ったファイルから書類を取り出し、女に差し出しながら説明を始めた。
「えーと、昨今のですね、行動経済学の発展に伴いまして、人間の行動の不合理性と経済の二極化の相関関係について、いろいろと新たな発見がありまして……国としてもその新しい知見を福祉に役立てていこうと、まぁ、そういうわけでこのように一軒ずつ訪問させていただいております。お時間を頂きまして、本当、申し訳ありません。
それでですね、今回のご訪問ですが、先ほど矯正と言いましたが、脳チップを入れる手術を行うことで本人も意識しないくらいに楽に行動を変えられるので、その手術を
女の視線が手元の書類に落ちているのを確認して、男は続けた。
「最近発表された行動経済学の論文では、収入の多寡だけでなく、時間やお金をどのように使うかといった消費活動なども一部の方に不利に働いていると言われています。
つまり、自由というのは、
女性の眉根が少し寄せられるが、男は続ける。
「例えば、将来にわたって健康を維持することの重要性を認識できる人は、体にいい食品を選びジムなどで運動する習慣を作りますが、それができない人は、健康に悪い食品を食べて運動もせず、肥満や生活習慣病を抱えて、医療費がかさみ働くこともできなくなり貧困に陥る、とか。
あるいは、キャリアアップのための書物や講座を受ける人や、投資について勉強した人と、何もせずに一時の快楽のための買い物――分不相応なブランド品やたいして使わないレジャーグッズ、マンガやアニメのグッズ、なんかですね――そう言ったお金の使い方をして最後にはキャリアで行き詰まる人では、経済的な格差が開いていく、とか」
若い方の男の視線が、ちらりと、奥のテーブルの上でホコリを被ったキャラクターグッズへと動く。女性は、絞り出すように言う。
「……そんなの、個人の自由じゃない」
男は、かんで含めるように説明を続ける。目には憐れみめいたものが宿ってくる。
「ええ、ですからその自由が問題なんです。つまり、時間やお金の使い方が自由な世界において、自己研鑽、自己投資に使う率が高い知的優位者に対して、知的弱者はそれができないため、知的に、あるいは経済的に下位のままなのです。
その結果、選択において間違わない人達との格差が開いていくので、それを手術で矯正……」
突如、女性が声を荒げた。
「私は知的弱者じゃない。二級市民なんかじゃない!」
「皆さん、最初は抵抗感を持たれますが、脳チップを入れた後はお喜びに……」
「私はね、今までに脳チップを入れた友人を見てきたの。みんな変わってしまった。消費活動が、買物がっ、知的弱者からの搾取だってあんたたちは言うけど、それが楽しいのよ! 私たちは! それが!! 楽しいの!!!!!」
「……」
「いいじゃないの! 自分で自由の代償を支払っているんだから! 私は、自由のままでいさせてほしいのッ!」
女性は、役場からの使いの男たちにつかみかからんばかりの勢いで突進してきて、玄関のドアの外に押し出し、玄関のドアをバタンと閉めた。
二人の男たちは顔を見合わせ、仕方ないと言った顔で歩きだした。
「不幸になることを防ぐには
若い男がボヤくのに、年配の方の男が答えた。
「そもそも、管理される方が幸せだということすら理解できない人には、手の施しようがないんだなぁ。そちら側を選んで、
(終わり)
「でしたら、放っておいてください」
「しかし……」
男は玄関に立ったまま、家主の背後に広がる、家の中の
テーブルの上には、封を切ったレトルトの空袋と何かの景品と思しきキャラクターグッズと萎れた花とコンビニのビニール袋が、食器類の間に雑然と乗っかっている。ダイニングの椅子の上から床にかけては、洗ったのか洗っていないのかが判然としない服が何着も零れ落ちていた。その横のゴミ箱からはインスタント食品のプラカップ、紙カップ、空き袋、割りばしが溢れている。
男が立っている玄関も、壁際にずっと色の変わった新聞紙や雑誌が腰ほどの高さに積みあがっており、ご丁寧にその頂点には虫の死骸がトッピングされている。――長い間、掃除はおろか、片付けもされていないことを伺わせる部屋は、男の目には人間の住処とも思えないものだった。。
しかし、男の前に立ちはだかるように仁王立ちしている初老の女性は
「あの、もう少し人間らしい生活を……」
最初の男の横にいた、若い男が言いかけるが、肘でつつかれて言葉を止める。
「人間らしい生活って何ですか。馬鹿にしているんですか」
女性に語気強く言い返されて思わず後ずさった若い男は、玄関の段差でコケそうになり、思わず手を付いた古新聞の山の上のホコリと虫の死骸に「ひぃ」と声にならない悲鳴を上げた。
ピリピリとした沈黙が三秒ほど続いた後、最初の男が、眉を八の字に寄せ、さも「困った」というような顔で切り出した。
「あの、一応ですね、説明の義務がありまして……もちろん、最終的な選択はご自身によるものなんですが、一応あの、説明だけ。終わったら、帰りますんで」
男の平身低頭といった態度に、女性も無言のまま早くしろと言わんばかりの溜め息だけつく。
男は手に持ったファイルから書類を取り出し、女に差し出しながら説明を始めた。
「えーと、昨今のですね、行動経済学の発展に伴いまして、人間の行動の不合理性と経済の二極化の相関関係について、いろいろと新たな発見がありまして……国としてもその新しい知見を福祉に役立てていこうと、まぁ、そういうわけでこのように一軒ずつ訪問させていただいております。お時間を頂きまして、本当、申し訳ありません。
それでですね、今回のご訪問ですが、先ほど矯正と言いましたが、脳チップを入れる手術を行うことで本人も意識しないくらいに楽に行動を変えられるので、その手術を
特定の方
に無償
で受けていただくことが可能になりますよ、と、そういうことですね、ハイ」女の視線が手元の書類に落ちているのを確認して、男は続けた。
「最近発表された行動経済学の論文では、収入の多寡だけでなく、時間やお金をどのように使うかといった消費活動なども一部の方に不利に働いていると言われています。
つまり、自由というのは、
自分で選ぶことができる状態
を指しますが、選択を自分で行わなければならないわけですから、考える力の弱い方
に不利に働くわけですね。選択の前には考えなければならないから、選択肢が増えるほど間違った選択
も増えて、結果として零れ落ちる人が出てくるわけです」女性の眉根が少し寄せられるが、男は続ける。
「例えば、将来にわたって健康を維持することの重要性を認識できる人は、体にいい食品を選びジムなどで運動する習慣を作りますが、それができない人は、健康に悪い食品を食べて運動もせず、肥満や生活習慣病を抱えて、医療費がかさみ働くこともできなくなり貧困に陥る、とか。
あるいは、キャリアアップのための書物や講座を受ける人や、投資について勉強した人と、何もせずに一時の快楽のための買い物――分不相応なブランド品やたいして使わないレジャーグッズ、マンガやアニメのグッズ、なんかですね――そう言ったお金の使い方をして最後にはキャリアで行き詰まる人では、経済的な格差が開いていく、とか」
若い方の男の視線が、ちらりと、奥のテーブルの上でホコリを被ったキャラクターグッズへと動く。女性は、絞り出すように言う。
「……そんなの、個人の自由じゃない」
男は、かんで含めるように説明を続ける。目には憐れみめいたものが宿ってくる。
「ええ、ですからその自由が問題なんです。つまり、時間やお金の使い方が自由な世界において、自己研鑽、自己投資に使う率が高い知的優位者に対して、知的弱者はそれができないため、知的に、あるいは経済的に下位のままなのです。
その結果、選択において間違わない人達との格差が開いていくので、それを手術で矯正……」
突如、女性が声を荒げた。
「私は知的弱者じゃない。二級市民なんかじゃない!」
「皆さん、最初は抵抗感を持たれますが、脳チップを入れた後はお喜びに……」
「私はね、今までに脳チップを入れた友人を見てきたの。みんな変わってしまった。消費活動が、買物がっ、知的弱者からの搾取だってあんたたちは言うけど、それが楽しいのよ! 私たちは! それが!! 楽しいの!!!!!」
「……」
「いいじゃないの! 自分で自由の代償を支払っているんだから! 私は、自由のままでいさせてほしいのッ!」
女性は、役場からの使いの男たちにつかみかからんばかりの勢いで突進してきて、玄関のドアの外に押し出し、玄関のドアをバタンと閉めた。
二人の男たちは顔を見合わせ、仕方ないと言った顔で歩きだした。
「不幸になることを防ぐには
管理してあげる
しか手がないんだがなぁ」若い男がボヤくのに、年配の方の男が答えた。
「そもそも、管理される方が幸せだということすら理解できない人には、手の施しようがないんだなぁ。そちら側を選んで、
自由の代償を自らが支払う
こともまた、彼らの自由
なんだから」(終わり)