第26話 インプラント・パラダイス
文字数 2,275文字
始まりは、コロナの後遺症で嗅覚の異常が続く人々に対してのケアだった。鼻腔の奥深くに小さなチップを埋め込むインプラント手術により、嗅覚刺激を増幅し、失われた嗅覚を補い、食べる喜び、香水やアロマを楽しむこと、さらにはガスなどの匂いを検知して身の安全を計ることも再びできるようになる、というものだった。
そこに、アンモニア臭をジャスミンの香りに感じさせることで「トイレの芳香剤いらず」で「お掃除をサボっても安心」になるという付加機能や、「加齢臭を高級香水の香りに変換」、「生ゴミの匂いをフローラル系の香りに」などのさまざまな機能が加わり、嗅覚インプラントはどんどん広がりを見せた。
手術が一般化し、安全性も十二分に確認されたという頃合いをみて、僕はコロナに罹患して嗅覚が衰えたとこぼす母に、インプラント手術をプレゼントした。母はとても喜んでくれた。
それから三か月くらい経ったある日、学生時代の仲間から飲み会に誘われた。
その時、グループの中でも一番のお調子者だったKが、大皿に盛られたカラアゲにレモンをじゃーっと、絞ってしまった。
「おい、何するんだよ! かけるなら自分の分だけにしろよ!」
グループの中でもオタク気質で神経質なNが声を荒げた。
「ええやん。この方が美味しいし、ビタミンが取れて栄養価も上がるし」
「栄養なんか知るか! 俺は酸っぱいものが嫌いなんだよ! どうしてくれんだよ!」
「お前、口内インプラントしてないの?」
「はぁ?」
「え?」
「ん?」
K以外の面々がみな、頭の上に疑問符を浮かべてKの方を見る。Kはと言うと、なぜか得意げな顔をして、その様子を見ている。
「なんやぁ~、みんなまだやってないんかぁ~」
Kは、調子に乗ると妙な関西弁でしゃべる。学生の頃から変わらないなぁ、と思いながら僕はKの話を聞いていた。
Kによると、彼は口腔内へのインプラント手術を受けたことで、食べたものの味を調整できるのだそうだ。
もともとは、味が悪いと評判の、合成栄養食――一日分のカロリーと栄養素が詰め込まれたアレだ――に、焼肉や寿司、チョコレートやコーヒーなど、好みの味を付けられるように、舌にある味蕾 のレセプターに受容されると変化するナノ粒子を合成栄養食に混ぜて、美味しく食べられるようにするために開発されたのが、味蕾のレセプター自体に働きかけることで、合成栄養剤以外の食べ物の味も変えられるようになったそうで、例えば今のようにカラアゲにうっかり誰かがレモンをかけてしまっても、その
「いやぁ~、てっきり、みぃ~んなやっていると思っていたから、すまんすまん、俺のウッカリやったわぁ~」
Kは最後に、どことなく上から目線で得意げな顔でこう言った。
Nはぶすっとした顔でそれを聞いていたが、「だからと言ってレモンをかけていいわけではない! だいたい触感がふにゃっとしちゃうだろう! 酸味だけの問題じゃないんだよ、食感が変わるんだ!」と主張したが、Kによると、それが解決されるのも時間の問題だそうで「そのうちに、味だけでなく食感も硬さも、感覚を調整してくれるようになるだろう」とのことだった。
そうして、Kの言葉通り、しばらくすると、グルメ番組ご用達タレントが「味の宝石箱やぁ~」と叫ぶテレビCMが流れ始めた。
そのCMが流れるとのと時をおかず、聴覚インプラントのCMも流れ始めた。
――いつでも好みの音楽を。
音響機器の開発・販売と、ミュージシャンのマネジメントをトータルに手掛ける大手企業による、シンプルかつ格好いいCMが流れ始めると、街行く若者の多くが、歩きながら首を振ったり、電車の中で指先でリズムを取る、というような光景を見かけるようになった。
次に発売されたのは、脳の視覚野への干渉で景色や恋人の顔が変わる、ARインプラントだ。
「推しが、あなたの恋人に」
そんなチラシを見つけたのは、恋人の部屋。
問い詰めると、インプラント手術を受け、俺の顔が人気アニメの好きなキャラになるように設定していたと白状した。
当然、喧嘩になった。俺は、誰かの代用品じゃない。彼女は「あなただって、手術を受けて人気モデルや女優に設定すればいいじゃない」と言ったが、俺はそんなことはことはしたくない。
俺達は別れた。
心に空いた穴を埋めるように、俺は仕事に精を出すようになった。
そんな俺に、上司が「ちょっと」と声をかけてきた。
仕事用の端末に表示されているのは、「ワンランク上のビジネスパーソンに」の文字。
仕事に必要な知識を補うビジネス知識DL 脳インプラントのネット広告だった。日々刻々と増え、変わっていくビジネスの常識や最新の知識を、外部からダウンロードし放題になるという、ビジネス情報のサブスクだと言う。しかも、上司の推薦があれば、会社からの補助が出て、半額以下で手術を受けられるらしい。
「最近の君の仕事ぶりには感心していてね。君になら、推薦を与えてもいいと思ったんだ」
笑顔の上司に、俺はイエスと言うしかなかった。
脳インプラントを行った俺の頭には、「便利さに慣れさせて、依存させるビジネスが一番儲かる」という商売の仕組みが頭にインストールされた。
何もかもが腑に落ちた。
そして、何とも言えない虚無感に襲われた。
――他人が作ったビジネスセオリーであくせく稼いで、人為的に作られた感覚を楽しむなんて虚しい……
ふと、視界の隅に何かが見えた。それは、ネガティブな感情を幸福感に置き換える脳インプラントの広告だった。
(終わり)
そこに、アンモニア臭をジャスミンの香りに感じさせることで「トイレの芳香剤いらず」で「お掃除をサボっても安心」になるという付加機能や、「加齢臭を高級香水の香りに変換」、「生ゴミの匂いをフローラル系の香りに」などのさまざまな機能が加わり、嗅覚インプラントはどんどん広がりを見せた。
手術が一般化し、安全性も十二分に確認されたという頃合いをみて、僕はコロナに罹患して嗅覚が衰えたとこぼす母に、インプラント手術をプレゼントした。母はとても喜んでくれた。
それから三か月くらい経ったある日、学生時代の仲間から飲み会に誘われた。
その時、グループの中でも一番のお調子者だったKが、大皿に盛られたカラアゲにレモンをじゃーっと、絞ってしまった。
「おい、何するんだよ! かけるなら自分の分だけにしろよ!」
グループの中でもオタク気質で神経質なNが声を荒げた。
「ええやん。この方が美味しいし、ビタミンが取れて栄養価も上がるし」
「栄養なんか知るか! 俺は酸っぱいものが嫌いなんだよ! どうしてくれんだよ!」
「お前、口内インプラントしてないの?」
「はぁ?」
「え?」
「ん?」
K以外の面々がみな、頭の上に疑問符を浮かべてKの方を見る。Kはと言うと、なぜか得意げな顔をして、その様子を見ている。
「なんやぁ~、みんなまだやってないんかぁ~」
Kは、調子に乗ると妙な関西弁でしゃべる。学生の頃から変わらないなぁ、と思いながら僕はKの話を聞いていた。
Kによると、彼は口腔内へのインプラント手術を受けたことで、食べたものの味を調整できるのだそうだ。
もともとは、味が悪いと評判の、合成栄養食――一日分のカロリーと栄養素が詰め込まれたアレだ――に、焼肉や寿司、チョコレートやコーヒーなど、好みの味を付けられるように、舌にある
酸味だけを感じなくする
ことができるそうだ。「いやぁ~、てっきり、みぃ~んなやっていると思っていたから、すまんすまん、俺のウッカリやったわぁ~」
Kは最後に、どことなく上から目線で得意げな顔でこう言った。
Nはぶすっとした顔でそれを聞いていたが、「だからと言ってレモンをかけていいわけではない! だいたい触感がふにゃっとしちゃうだろう! 酸味だけの問題じゃないんだよ、食感が変わるんだ!」と主張したが、Kによると、それが解決されるのも時間の問題だそうで「そのうちに、味だけでなく食感も硬さも、感覚を調整してくれるようになるだろう」とのことだった。
そうして、Kの言葉通り、しばらくすると、グルメ番組ご用達タレントが「味の宝石箱やぁ~」と叫ぶテレビCMが流れ始めた。
そのCMが流れるとのと時をおかず、聴覚インプラントのCMも流れ始めた。
――いつでも好みの音楽を。
音響機器の開発・販売と、ミュージシャンのマネジメントをトータルに手掛ける大手企業による、シンプルかつ格好いいCMが流れ始めると、街行く若者の多くが、歩きながら首を振ったり、電車の中で指先でリズムを取る、というような光景を見かけるようになった。
次に発売されたのは、脳の視覚野への干渉で景色や恋人の顔が変わる、ARインプラントだ。
「推しが、あなたの恋人に」
そんなチラシを見つけたのは、恋人の部屋。
問い詰めると、インプラント手術を受け、俺の顔が人気アニメの好きなキャラになるように設定していたと白状した。
当然、喧嘩になった。俺は、誰かの代用品じゃない。彼女は「あなただって、手術を受けて人気モデルや女優に設定すればいいじゃない」と言ったが、俺はそんなことはことはしたくない。
俺達は別れた。
心に空いた穴を埋めるように、俺は仕事に精を出すようになった。
そんな俺に、上司が「ちょっと」と声をかけてきた。
仕事用の端末に表示されているのは、「ワンランク上のビジネスパーソンに」の文字。
仕事に必要な知識を補うビジネス知識
「最近の君の仕事ぶりには感心していてね。君になら、推薦を与えてもいいと思ったんだ」
笑顔の上司に、俺はイエスと言うしかなかった。
脳インプラントを行った俺の頭には、「便利さに慣れさせて、依存させるビジネスが一番儲かる」という商売の仕組みが頭にインストールされた。
何もかもが腑に落ちた。
そして、何とも言えない虚無感に襲われた。
――他人が作ったビジネスセオリーであくせく稼いで、人為的に作られた感覚を楽しむなんて虚しい……
ふと、視界の隅に何かが見えた。それは、ネガティブな感情を幸福感に置き換える脳インプラントの広告だった。
(終わり)