こんなお話いかがでしょう③ *転載分

文字数 1,428文字

『牛が三つで犇めく』

 灰色の海が渦巻いている。おかしい。私は家で夕食の準備をしていたはずだ。箸をテーブルの下に落としてしまい、慌てて拾おうとしたら、したたかに頭をぶつけた。気が付いたらこの海の上だった。

 アテナイの王子テセウス。同船している子供たち曰く、それが身体も名前も入れ変わってしまった今の自分の身分らしい。クレタ王のもとへ送られる14人の生贄の一人として、黒い帆をはった船に乗っている。クレタ王ミノスには、ミノタウロスと呼ばれる牛頭の怪物が息子におり、敗戦国のアテナイは、その怪物に捧げる生贄を送るよう命じられているのだそうだ。そう言われれば思い出してきた。学生時代ギリシャ神話にハマっていてずいぶん読んだのだが、年を経るごとに忘れてきてしまっていたのだ。まさかこんな若い男性に転生?するだなんて、どんな功徳のタマモノなのやら、でも生贄にされるんだからあまり有り難くもない。

 さてクレタ島に着いたその晩、私たちが閉じ込められている牢へ、一人の少女が訪ねてきた。クレタ王ミノスの娘アリアドネ。本物のお姫さまである。うわっ、かわいい。まだティーンなのだろうが、手の込んだ作りのドレスをまとって優美な身のこなしは、まさに高貴なご出身と思われる。うーん、飾っときたいくらいかわいいけど、娘にはできないなー。育てられる自信無いわ。
「明日、父はあなたがたを兄様のいる迷宮へと連れていくでしょう。これをお持ちになって下さい」
 渡されたものは毛糸玉だ。知ってる知ってる。迷宮の入り口に結びつけておいて、怪物を倒したら、その糸を辿って戻ってこれるっていう算段よね。
「えっ……ちょっと待って、私、ミノタウロスと戦わなきゃならないの」
 勇者と称えられるテセウスが弱気なことを口走ったので驚いたのか、アリアドネは大きな目を瞬かせた。
「いえ……兄様のいる奥の間で一晩隠れていて下さい。次の夜に戻ってきていただければ、アテナイへの船を手配します」
 どういうことだろう。ミノタウロスは生贄を喰らうのではないのだろうか。
「私たちは父のやり方に賛成できません。アテナイを服従させるために、生贄を要求して恐怖心を植え付けるなんて……兄様は人を食うなどなさいません」
 牛頭という姿でも優しい兄様です。自ら怪物であるように振る舞って、犠牲を抑えようとなさっているのです。切々と訴えるアリアドネが嘘を吐いているようには見えない。子供の隠し事などすぐ分かる。母親経験も短くないのだ。
「まあそうよね。そもそもポセイドン神からの預かり物を返さなかったミノス王が原因なんだし」
「そうです。母だって被害者だと思います」
「自分だって牛に化けたゼウス神とエウロパとの間の子供なのにね」
「その通りです。牛は父上の守り神ではありませんか」
 迷宮で出会ったミノタウロスは見た目こそ恐ろしげだったが、アリアドネの言った通り、“牛のように“穏やかで紳士的な青年であった。息子に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいである。
「じゃあ、私が倒したことにして、皆でこの国から脱出しましょう!」
 アリアドネと示し合わせ、ミノタウロスを倒した勇者テセウスがアリアドネを娶りたいと言い出したという筋書きで、まんまとアリアドネと船倉に隠れたミノタウロスと一緒にクレタの港を出ることできた。と船が揺れて赤い帆を掲げたマストに頭をぶつけてしまった。

 夕食の準備はまだ終わっていなかった。水炊きにしようかと思っていたけれど、すき焼きに変更だ。
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