5.2佐伯と歩田の試み
文字数 2,586文字
時間も近づいてきたので、僕は部屋を出てリラクゼーションエリアへと向かった。予め場所を確認していなかったので、記憶を頼りに歩いていく。確かドアがあったはずで、それを開くとモデルルームのような部屋が広がっている。そのことがかなり印象に残っていたので覚えていた。……もっとも、覚えているのは部屋のことだけだけれど。この辺りにあったな、と記憶しているだけで、正確な場所までは分からなかった。
見慣れている通路から見慣れていない通路へと選択的に移動する。記憶にないということは普段は通らない場所にあるのだろう。そう思ってのことだった。
そうして歩いているとなんとなくだけれど見覚えのある廊下に入った。確かこの辺だと、記憶にある扉を探すと一致する光景が目の前に現れた。
僕はドアを引き、中へと入る。するとそこには円形の照明、フローリングの床、ソファとテーブル。そして、すでに果実酒のようなものを目の前にした大川さんの姿があった。
「お、来たね」
そう僕はソファの上であぐらをかく大川さんに手招きで歓迎される。ソファはもとの位置から移動させられたのだろう。机との間に隙間が無かった。
僕は靴を脱ぎながら、挨拶代わりに「酔ってますか?」と聞いた。
「まだ平気」
「大丈夫そうですね」
そして奥の方からバタバタと音が聞こえてくる。
向こうはキッチンだろうか。エプロンをした佐伯さんが現れる。
「お邪魔してます」と僕は無意識に言った。
「あ、いえ、どうぞ。ゆっくりしていってください」
漠然とした不自然さに、なにか間違えたかなと思っていると、やはり「ここは誰の家でもないよ」と横から野次が飛んできた。
僕は「酔ってますか?」と聞いた。
「酔ってないよ」
そう言うので僕は認識を若干修正した。本当に酔っているときはうとうととし始めるので、そこまでは達していないようだけれど、片足は突っ込んでいそうだった。
佐伯さんが「もう少しで片付くので私は戻りますね」と言う。
僕はなんのことかと思って情報を結び付けていく。そんなに難しい話ではなかった。日中、キッチンのある場所を聞いてきた大川さん。今さっき、キッチンの方から現れた佐伯さん。そして「これ食べなよ」と大川さんが指を差すテーブル上の料理。佐伯さんは調理器具の片付けに行ったのだろう。
僕は空いているソファを同じように机の方へ寄せ、
「もしかしてこれ、全部佐伯さんが?」
とペットボトルのお茶をグラスに注ぎながら尋ねる。
「そう。歩田くんは自炊はするのかな」
「館に頼りっきりです」
「それなら美味しいと思うよ」
そう言われたので空いている皿を取って、目の前の醤油ベースの炒めものを食べてみた。
「どう?」
「美味しいですね」
「身体が喜んでいる感じがするよね」
言われてみるとその言葉が的確かもしれないと僕は思った。懐かしいというか、本来の美味しさというか。他の料理も口にしてみる。館の堕落した食生活で味覚が鈍磨していたのだろう。期待を超え、感覚が刺激される。
「おはようございます?」
「うん、おはよう」
大川さんはそう反射的に挨拶を返してきた。
そうこうしていると「やっと終わりました」と佐伯さんが戻ってくる。
「歩田くんが美味しいってさ」大川さんはいの一番にそう報告した。
「お口にあったようで良かったです」
佐伯さんは最後の空いているソファに座りながら、そう笑みを向けてきた。
「ダメだよ、歩田くん」
なぜか注意される。
「急にどうしたんですか」
「心を持ってかれちゃあダメだ」
「酔ってますね」
「今のは酔っているね」
そう言って大川さんは認めた。
それからのことというのは、まあ、いつもとだいたい変わらない。大川さんが酒を飲み、昔の上司の話をする。この館という環境は未来へも過去へも進まない。だから新しい話は生まれてこず、過去の話に花が咲く。この話を聞くのは何度目だろう。僕は半分聞き流しながら、料理を食べていた。
「ねえ。叶枝、知ってるかな。歩田くんってお酒が飲めるんだって」
「え、そうだったんですか?」
急に話題に上がって僕は戸惑う。
「え、ええ。一応」
いつもと少し違う点は佐伯さんの飲むペースだった。多分だけれど、普段の佐伯さんというのは、大川さんが潰れるのを見越していくらかセーブして飲んでいた。けれど今日は傍目から見ても順調なペースだった。
まるで自分だけが置いて行かれるような肩身の狭さをわずかにでも感じないわけではない。そんなときに矢印が向けられたので困惑した。
「どういうときに飲むんですか?」佐伯さんに聞かれる。
「飲んでもいいんですけど」
「あれ、私が言っても聞かないくせに」
「これ、どうぞ」
僕は佐伯さんの飲んでいたグラスを渡された。
あまりアルコール類には詳しくないけれど、少なくとも白濁りした酒は飲んだことがない。試しに口にしてみる。まろやかだった。
「どうですか?」
「久しぶりだと簡単に酔いますね」
「あんまり変わらないタイプなんだ」
「そうみたいです」
「歩田くんっぽさが出てますね」
もっとも思考回路のパターンが変わっているのは自覚していた。
なんていうか、酔うといつも考えることで、アルコールというのは人の思考フィルターを取っ払うものなのだろうと思う。要するに頭に浮かんでくる考え自体はいつもと変わらなくて、それをアウトプットするときの制限が壊れているらしい。
だから変わらない。
そして決まって思うのが、つくづく僕は言葉でできた人間だということだった。こうして自分さえも俯瞰して見ているというのがその証拠だろう。なんとなくthinkerという言葉を思い出す。そこに辿り着いて僕の思考は止まった。満足したらしい。
すると大川さんの笑い声が聞こえてくる。
「歩田くんだね」
それから手を伸ばす佐伯さんに肩を叩かれる。
「すみません、戻りました」
「いえいえ、何考えていたんですか?」
僕は「つまらないことです」と答える。
「今日は教えてください」佐伯さんも酔っているのだろう。
「ええと、なんでしたっけ」僕は本気で忘れていた。
「酔うってそんなもんだよね」
そう言われたので「大川さんは簡単に記憶を飛ばしすぎです」と反論した。
「今日はまだ平気」威張るように言う。
「佐伯さんはどう思いますか?」
「どうでしょう?」
そう言っていると、しばらく後に大川さんは眠りにつくのだった。
見慣れている通路から見慣れていない通路へと選択的に移動する。記憶にないということは普段は通らない場所にあるのだろう。そう思ってのことだった。
そうして歩いているとなんとなくだけれど見覚えのある廊下に入った。確かこの辺だと、記憶にある扉を探すと一致する光景が目の前に現れた。
僕はドアを引き、中へと入る。するとそこには円形の照明、フローリングの床、ソファとテーブル。そして、すでに果実酒のようなものを目の前にした大川さんの姿があった。
「お、来たね」
そう僕はソファの上であぐらをかく大川さんに手招きで歓迎される。ソファはもとの位置から移動させられたのだろう。机との間に隙間が無かった。
僕は靴を脱ぎながら、挨拶代わりに「酔ってますか?」と聞いた。
「まだ平気」
「大丈夫そうですね」
そして奥の方からバタバタと音が聞こえてくる。
向こうはキッチンだろうか。エプロンをした佐伯さんが現れる。
「お邪魔してます」と僕は無意識に言った。
「あ、いえ、どうぞ。ゆっくりしていってください」
漠然とした不自然さに、なにか間違えたかなと思っていると、やはり「ここは誰の家でもないよ」と横から野次が飛んできた。
僕は「酔ってますか?」と聞いた。
「酔ってないよ」
そう言うので僕は認識を若干修正した。本当に酔っているときはうとうととし始めるので、そこまでは達していないようだけれど、片足は突っ込んでいそうだった。
佐伯さんが「もう少しで片付くので私は戻りますね」と言う。
僕はなんのことかと思って情報を結び付けていく。そんなに難しい話ではなかった。日中、キッチンのある場所を聞いてきた大川さん。今さっき、キッチンの方から現れた佐伯さん。そして「これ食べなよ」と大川さんが指を差すテーブル上の料理。佐伯さんは調理器具の片付けに行ったのだろう。
僕は空いているソファを同じように机の方へ寄せ、
「もしかしてこれ、全部佐伯さんが?」
とペットボトルのお茶をグラスに注ぎながら尋ねる。
「そう。歩田くんは自炊はするのかな」
「館に頼りっきりです」
「それなら美味しいと思うよ」
そう言われたので空いている皿を取って、目の前の醤油ベースの炒めものを食べてみた。
「どう?」
「美味しいですね」
「身体が喜んでいる感じがするよね」
言われてみるとその言葉が的確かもしれないと僕は思った。懐かしいというか、本来の美味しさというか。他の料理も口にしてみる。館の堕落した食生活で味覚が鈍磨していたのだろう。期待を超え、感覚が刺激される。
「おはようございます?」
「うん、おはよう」
大川さんはそう反射的に挨拶を返してきた。
そうこうしていると「やっと終わりました」と佐伯さんが戻ってくる。
「歩田くんが美味しいってさ」大川さんはいの一番にそう報告した。
「お口にあったようで良かったです」
佐伯さんは最後の空いているソファに座りながら、そう笑みを向けてきた。
「ダメだよ、歩田くん」
なぜか注意される。
「急にどうしたんですか」
「心を持ってかれちゃあダメだ」
「酔ってますね」
「今のは酔っているね」
そう言って大川さんは認めた。
それからのことというのは、まあ、いつもとだいたい変わらない。大川さんが酒を飲み、昔の上司の話をする。この館という環境は未来へも過去へも進まない。だから新しい話は生まれてこず、過去の話に花が咲く。この話を聞くのは何度目だろう。僕は半分聞き流しながら、料理を食べていた。
「ねえ。叶枝、知ってるかな。歩田くんってお酒が飲めるんだって」
「え、そうだったんですか?」
急に話題に上がって僕は戸惑う。
「え、ええ。一応」
いつもと少し違う点は佐伯さんの飲むペースだった。多分だけれど、普段の佐伯さんというのは、大川さんが潰れるのを見越していくらかセーブして飲んでいた。けれど今日は傍目から見ても順調なペースだった。
まるで自分だけが置いて行かれるような肩身の狭さをわずかにでも感じないわけではない。そんなときに矢印が向けられたので困惑した。
「どういうときに飲むんですか?」佐伯さんに聞かれる。
「飲んでもいいんですけど」
「あれ、私が言っても聞かないくせに」
「これ、どうぞ」
僕は佐伯さんの飲んでいたグラスを渡された。
あまりアルコール類には詳しくないけれど、少なくとも白濁りした酒は飲んだことがない。試しに口にしてみる。まろやかだった。
「どうですか?」
「久しぶりだと簡単に酔いますね」
「あんまり変わらないタイプなんだ」
「そうみたいです」
「歩田くんっぽさが出てますね」
もっとも思考回路のパターンが変わっているのは自覚していた。
なんていうか、酔うといつも考えることで、アルコールというのは人の思考フィルターを取っ払うものなのだろうと思う。要するに頭に浮かんでくる考え自体はいつもと変わらなくて、それをアウトプットするときの制限が壊れているらしい。
だから変わらない。
そして決まって思うのが、つくづく僕は言葉でできた人間だということだった。こうして自分さえも俯瞰して見ているというのがその証拠だろう。なんとなくthinkerという言葉を思い出す。そこに辿り着いて僕の思考は止まった。満足したらしい。
すると大川さんの笑い声が聞こえてくる。
「歩田くんだね」
それから手を伸ばす佐伯さんに肩を叩かれる。
「すみません、戻りました」
「いえいえ、何考えていたんですか?」
僕は「つまらないことです」と答える。
「今日は教えてください」佐伯さんも酔っているのだろう。
「ええと、なんでしたっけ」僕は本気で忘れていた。
「酔うってそんなもんだよね」
そう言われたので「大川さんは簡単に記憶を飛ばしすぎです」と反論した。
「今日はまだ平気」威張るように言う。
「佐伯さんはどう思いますか?」
「どうでしょう?」
そう言っていると、しばらく後に大川さんは眠りにつくのだった。