2.2ある日の大川と歩田

文字数 2,552文字

 引き戸を開ける音が聞こえてくる。その瞬間、鼻腔をつくような新鮮な空気が入ってきて、外にいることを錯覚させた。
 もっとも簡単に館から出られるはずがないので僕はその可能性をすぐさま否定し、妥当な可能性を考える。思いあたるもの。
「植物園ですか」
「そう。五感を働かせるにはここが一番だから」
 自然エリアの三階には植物園があった。植物園では蛇行する小道があり、その両サイドに手入れのされた植物たちが茂っている。
 緑があるということは日光もあった。天井はガラス張りになっていて、空が満遍(まんべん)なく見渡せる。今日は日差しが温かい。
 そしてどこかに換気扇があるのだろう。この場所は晴れると新鮮な空気で満たされていた。
「緑があるとやっぱり空気がいいね」
「独特の香りですよね。土の香りですか」
「そうそう。うつ伏せで顔をうずめたい衝動に駆られるから困るんだ」
 そんなことで困るのは大川さんしかいないと思う。諧謔(かいぎゃく)だけれど。
 あるとするなら、せいぜい設置されているベンチで寝ていることぐらいだろうか。熟睡しているところに何度か遭遇したことがある。
 僕たちはゆっくりと歩き出した。変調に探り探りで一歩の幅を整えていく。
 感覚が掴めてきたとき、大川さんが
「時が止まっているみたいに静かだね。歩田くんはここに来て何を思うのかな」
と聞いてきた。
「なにって、」
「例えば一本の道があるよね」
 そう言われ真っすぐと続く道を想像した。それは果てがなくどこまでも続いていた。
「その道は必ずしも真っすぐではないんだ。ときには右にそれ、ときには左にそれる」
 大川さんの肩にぶつかった。道が左に弧を描いているらしい。
「道の外側はどうなっているかな」
「暗闇ですけど」
「そっか、暗闇か」
 そう言っておいてなんだか変だとは思った。道が見えているのに、つまり光は存在するはずなのに、外側が見えていない。今、何を見ているのだろうか。
 今度は手を引っ張られる。道が右に続いているらしい。腕が痛むと言っていたので慌てて軌道を修正する。
「それは愉快ではないね」
「ええ。だからといって気が滅入ることもありませんけど」
「どうすれば楽しくなるかな?」
「さあ。変な想像しかできませんでした」
 さすがに何を想像したかまでは言えなかった。いや、別に変なことではないけれど。いや、変なことか。どっちでもいい。
「それじゃ質問の角度を変えてみよう。君は誰と歩いているのかな」
「誰と……」
 僕は想像を膨らませた。いろんな顔が浮かんでくるものの、一人で歩いているところしか想像できない。僕は
「分かりません」
と答える。
「じゃ私でいいよ。君は私とその道を歩いている」
 闇に浮かぶ道に突如、大川さんが現れる。今の状況とそっくりだった。僕たちは並んで道を歩いていく。
「どう感じるかな」
「どうって……安心、ですか」
「安心」
 そう言って大川さんは沈黙する。僕は次に続く言葉を考えていた。けれど、見当もつかなかった。
「今日は天気がいいみたいだ」
「天気ですか?」
「特に白い雲が呑気に浮かんでいるってのがいい」
「平和な感じがしますからね」
「自然エリアに川ってないよね」
「無いですね」
「そこがここの欠点だ」
 どうしてか僕は田舎の田んぼ道を想像していた。太陽の下で、爽やかな風を受けながら、田に挟まれた道を歩いていく。静かで不穏だけれど、平和な風景だった。
「ところで歩田くん」
「なんですか?」
「今、何の話をしているんだろうね?」
「大川さんがそれを言いますか?」
「太陽の下に出てくるとダメだね。すっかりのびてしまう」
 間延びした会話だった。まるで寝起きかのようなぼんやりとした話が続いていく。僕はあくびが出そうになったのを我慢した。
「なるほどねえ。そこで私は歩田くんのことが好きだと言ってみるんだ」
「ええと」
 一瞬だけ頭が真っ白になった。館の調査。偽装恋愛。すぐさま切り替える。
「僕も好きですけど」
「君は本気ではないみたいだね」
「本心ではありますよ」
「それじゃ期待してもいいってことかな」
 大川さんの言葉は演技に聞こえてこない。僕は何が何だか分からなくなってくる。
「この道は永遠に続いているんだ。果てはないみたいだよ。そんな道を私たちは歩いている」
 とぼけるつもりは無い。
「ねえ、歩田くん」
「なんですか」
「今からされることは全部忘れていいから」
 そう言って手が離された。まるで世界から大川さんが消えたかのように、孤独を感じる。
 僕は何をされるのかと息を殺して待っていた。
 この状況は、この流れは、偽装とは。
 ……けれど、そう思っていると、突然空は悪天候となったようだ。雷が鳴るように「やっぱり」と感情を殺した語調の強い言葉が大川さんから発せられた。
「ここからが本番だ」
「どういうことですか?」
「魚が釣れたって意味だよ……て、川は無いって言ったばかりか。とにかく思った通りに事態が急変した」
 特にそれらしいことが起きたとは察知できなかった。つまり音では分からないことが起きたのだろう。視覚的に何かが変化したことになる。
「要するにさ、尾行が始まったんだ」
「尾行……ですか?」
 僕は館の人間の顔を思い浮かべた。すぐさま首を振る。そんなはずはない。
 では、誰なのだろうか。大川さんの驚きは未知との遭遇との驚き方ではなかった。想定の範囲内で起こった現象なのだろう。第三者の存在ではない。となると、
「まさか、ロボットが」
「そういうこと。逃げるよ、歩田くん」
 そう言うと訳も分からないまま強く手を引っ張られていた。僕はそれに従って走り出す。
 ただでさえ歩くのだけでも困難だったのに、そのうえ走るとなると、靴を踏むだとかそういうのを気に掛ける余裕なんて無い。流石に横に並んで走ることはできなかった。そうなることで腕の心配はあるけれど……それどころではないのだろう。とにかく走る。ロボットは、
「モーターはつまれていないみたいだね」
 付いて来られていないらしい。大川さんの足が一旦弱まった。だから今起きたことについて質問してみる。
「どういうことですか?」
「まだその話は早いよ」
 そう却下される。いったい何が起きているのだろう。
「とりあえず水族館に逃げようか」
「分かりました」
と言ったものの、どうして水族館が出てくるのかさえ分からなかった。
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登場人物紹介

歩田悟。館を徘徊する人。

嬉野祐介。館に閉じ込められた大学生。歩田と同じ歳。

猫飼可優。執事。いつも何かしている。

屋敷光明。引きこもり。特に何もしていない。

大川ひすい。マッサージチェアが好き。

佐伯叶枝。大川によく捕まる。

椎名盟里。藤堂にメガネを壊され、コンタクトに変えさせられた。

藤堂律。夕飯が楽しみ。

流田桂花。暇つぶし。

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