2.1ある日の大川と歩田

文字数 2,295文字

2.

 歩くのに視界が無いというのは、いくらガイドがあるとはいえ簡単なことではなかった。特に軸がないのだ。真っすぐ歩こうにも右へ左へとそれていく。
 前後の感覚もそうだった。大川さんに引っ張られているので、大川さんが先を行き、僕が後をついていく形になっているけれど、繋がれた腕の角度からしか距離感が掴めなかった。何度か靴を踏んだので、今ではわざと遅れるようにして引っ張られる格好となっている。角度は百八十度付近。
 どこに向かっているのかは分からない。行先は伝えられていなかった。歩きながらデートという言葉を思い出すものの、どうして改まってデートと呼んでいるのか、そこも分からなかった。
 大川さんとの腕の角度が鋭くなっていく。その度に角度を大きくするのだけれど、今度は前へと進めなくなった。
「遠慮が好きだね。隣を歩けばいいのに」
「ろくに歩けもしませんから」
「私の肩を使えばいいんじゃない?」
 確かにそれで軸ができないこともない。
「私は構わないけど」
 大川さんがそう提案するなら従うことにする。なるべく触れないようにはしていたけれど、それがまた難しかった。腕と腕の角度がゼロに近づいて行く。
「なかなか面白いね」
「この状況を面白がれるのって大川さんだけじゃないですか?」
「君の心が手に取るように分かるみたいだ」
 むしろどうしてこの状況で平然とできるのだろう。
 けれど……大川さんから、何も考えないこと、と言われたことを思い出す。昨日のことを踏まえると、僕たちは館について調べているはずだった。デート、何も考えない、館の調査。ここから導かれること。
 偽装恋愛?
 その呈で向き合うなら、ラクになるのだけれど。
「歩田くんはここを出たらどうするつもり?」
 この質問は以前にも誰かから聞かれた気がする。
「どうもしませんけど」
「そっか。どうもしないか」
 声音から思案しているのが分かる。
 僕は「大川さんはどうされるんですか」と聞いてみた。
「私は仕事に戻るかな」
「そういえばセラピストでしたっけ」
 要するにカウンセラーだった。明るめの茶髪と、見た目からは想像できないものの、大川さんは心理療法士をしている。
 教えられた当初はそんなものなのかなと思っていた。正直、半信半疑だった。
 そんな様子を察した大川さんに以前、書庫に連れられたことがあった。そしてとある学術書を引っ張り出してきて、「これでどう?」と序論を読まされた。
 それは
「自分もそうでなければ相手を理解することは難しい」
という文章だった。
 この文章を読んで意味を理解したとは思わない。僕は大川さんを外から観察した情報でしか理解していないのだから、内面までは憶測でしかなかった。ただ、なんとなくだけれど、向いているのかもしれない、とは思った。寝間着のまま館を歩いているのは大川さんだけだった。
「それ以外することがないからね」と大川さんは言う。
「ところで歩田くんは私のこと……て、そういえば、行先を教えていなかったね」
「当てもなく歩いているんだと思ってました」
「それも魅力的だ」
 つまり、計画性があるということ。
「私たちはリラクゼーションエリアと自然エリアの間、その三階から出発した」
「ええ」と僕。
「そこから行ける場所はもちろんリラクゼーションエリア、自然エリアの二択になる」
 もしもここが一階ならば中央広場という選択肢もあった。それも人の来ない場所ということで三階が選ばれているのだから選択肢はその二つだろう。そう言って二人も通って行ったのがあの場所だけれど。直感と事実は必ずしも一致しないのだろう。
 エレベーターに乗った記憶は無かった。
「どっちに向かったと思う?」
「……分かりません」
 記憶があやふやだった。
「意外だね。君なら勘ぐってくると思った」
「それどころではなかったので」
「そういえばショッキングなことがあったとか言ってたっけ」
 大川さんらしい返答だった。もし大川さんの指示によってアイマスクをしていることが周囲にバレたとしても、まったく動じないのだろう。その証拠が今だった。堂々と館内を歩いている。つまり、相手を納得させられるだけの正当な理由がある。
 アイマスクをして偽装恋愛。ただ、この二つは仲が悪かった。
「向かったのは自然エリアだね」
「自然エリア……この状況と場所の関係性があまり見えませんが」
「そうだねえ。例えばここが自然エリアなら他のエリアは不自然エリアって言うこともできるよね」
「そうですけど……自然エリアにあるものは全てが自然だなんて、この状況を正当化させるための方便なんて言いませんよね」
「人間の存在は自然かな?」
「広義には生物の存在は不自然だと思います」
「じゃあ、違うね」
 僕の繋がれた手が大川さんに引っ張られる。
「何が自然かな、いや、何を自然にさせたいのかな」
「分かりません」
「例えば私たちの心、つまり恋心とか」
 僕はその言葉を聞いて数秒だけ息がつまった。デートとは聞いたものの、偽装とはいえ、恋愛とは大川さんの口からは一度も聞いていない。それが今、上塗りされたようだった。
 自然な心。本能。
 だからアイマスクなのだろうか。なるべく情報を取捨選択させないためのアイマスク。人は第一印象がなんとかと言う。視覚の情報を遮断することで、偽装を限りなく本物に近づけようとしているのかもしれない。
「君は本当に分かりやすいね」
 僕は何を言われているのかが分からなかった。
「考え出すと歩くのが遅くなるんだ。そして考えが終わると戻ってくる。覚えていて欲しいことがあるのだけれど」
「なんですか?」
「腕、筋肉痛なんだよね。引っ張られると少し痛いんだ」
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登場人物紹介

歩田悟。館を徘徊する人。

嬉野祐介。館に閉じ込められた大学生。歩田と同じ歳。

猫飼可優。執事。いつも何かしている。

屋敷光明。引きこもり。特に何もしていない。

大川ひすい。マッサージチェアが好き。

佐伯叶枝。大川によく捕まる。

椎名盟里。藤堂にメガネを壊され、コンタクトに変えさせられた。

藤堂律。夕飯が楽しみ。

流田桂花。暇つぶし。

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