1.1ある日の大川と歩田
文字数 2,948文字
1.
正五角館の人口密度は計算してみるとほとんどゼロになるのだと思う。それは正五角館が広すぎるということでもあるし、その広さに対して人が少なすぎるということでもある。
例えば、自然エリア、学術エリア、エンタメエリア、スポーツエリア、リラクゼーションエリア。広さを語るとき、別の何かと比較して語られることがあるけれど、この場所は実家の近所にあった有名な公園の数十個分の広さがあるのだろう。要するによく分からない。
とにかく、正五角館はとてつもなく広いということだった。そしてそこに閉じ込められた、言わば住民は僕を含めて九人になる。
だから館内を歩いていて人とすれ違うことはほとんどなかった。屋敷さんは部屋から出てこないし、流田さんも書庫にいることが多い。他の人もだいたいは決まった場所で過ごしているので、なおさらすれ違うことは無かった。
それでも、念には念を入れて、最も人の寄らなさそうな正五角形の頂点の一つである、リラクゼーションエリアと自然エリアの間にやってくる。
この場所は食堂、休憩所、医務室になっていて、特色のない空間となっていた。フロア全体が円形というのもその象徴かもしれない。正五角形のルールから外れた場所。他にはエレベーターや螺旋階段があり、エリアの属性は無属性だった。
待ち合わせ場所は食堂だった。僕は適当な注文口の前に立ってポケットからアイマスクを取り出した。
アイマスクをする。
当然のことだけれど、前が見えなくなる。
すぐに平衡感覚も怪しくなってきて壁に寄り掛からざるを得なくなった。そこに壁があるはずなのに無いような錯覚がして、不意な衝撃を受ける。昨日の筋肉痛が悲鳴を上げた。
それでもアイマスクは外せない。僕はそのままじっと待っていた。
もちろん自分が何をしているのかぐらいは分かっていた。誰もいない場所で、アイマスクをして、立っている。百人の審査員がいれば九十九人が批判するバカみたいなことで、人が来れば間違いなく品性を疑われるだろう。これは賭けでもあった。人の最も来なさそうな場所でアイマスクをして待つ。待っている相手は大川さんだった。
どれぐらい待っただろう。大川さんの到着が遅く感じるのは焦っているからかもしれない。時間が経てば経つほど大川さん以外の人と遭遇する確率が上がっていくのだから、時間の感覚は多分人よりもずっと遅くなっていた。
すると、一つの足音が近づいてくる。僕は安心して壁から離れた。
「あれ、歩田じゃん」
藤堂さんだった。そして笑い声が続いた。
「なんだ、その恰好」
「人違いじゃないですか?」
何かが崩壊した僕は咄嗟に嘘をつく。
「じゃ誰だって言うんだよ」
「恐らく初対面だと思いますね」
「へえ。初対面ねえ。あたし達の状況からすればそれって大発見のはずだが、そうなりゃ今すぐ他の人を呼ぶしかないよな?」
「歩田でした。おはようございます」
「おはようさん」
そうして、僕は藤堂さんと出会ったことを、この状況を、すべてを諦めることにした。
僕は藤堂さんの出方をうかがう。
どういうわけか食いつきが弱いように思えた。こんな状況に遭遇しておいて、手放しで喜ばないのは藤堂さんらしくない。どこか通りすがりのような、気まぐれで話しかけてきているかのような、そんな声音だった。早朝だからだろうか。
「で、何してるんだ? こんな朝から、こんな場所で、そんな恰好で」
「藤堂さんこそ何されてたんですか」
「朝の散歩に決まってるだろ。そんなことよりお前の話だ。見たところ他に怪しい所は無いようだが」
左から右へ声の発信源が移動していく。
「こんな場所で目隠しねえ。十中八九、変態――」
「ではないです」
「だったらなんだって言うんだよ。気になるだろ」
そう言ってアイマスクの上から額を突いてきた。
「なあ、そんなことして楽しいのか?」
「いえ、まったく」
「じゃ、つまらないのか?」
「どちらかといえば」
「変な奴だな」
その通りだった。自分でもそう思うのだから、他の人から見ればより不審に思うのだろう。
「ま、お前のことはある程度は信頼してるつもりだぜ? だから話も聞かずに頭ごなしに決めつけるってこたあないが……しっかしなあ、その他の理由が思いつかないんじゃどうしようもないよな?」
「実は自分でもよく分かっていません」
「だったらその目隠し取れよ」
「……遠慮しておきます」
分かっていないのに取れない矛盾。僕はこの瞬間どうにもならないことを悟った。
藤堂さんを納得させるには、本当のことを話さない限り不可能なのだろう。朝とはいえ好奇心は辛うじて健在らしい。まいったな。
「あの、逃げてもいいですか?」
「どうやって逃げるんだ? 目隠しは取れないんだろ?」
「確認しただけです」
僕はそう言って次に話す言葉を考える。本当のことを話すのか話さないのか、案外これが究極の選択肢だった。
この後、大川さんが来ることになる。実を言えば、アイマスクをして立っていろという指示は大川さんから出されたものだった。これは愚直に言うことを聞いた自分が悪いのだけれど、この後にデートが始まること以外は何も知らされていない。そして、そんなことを話せば間違いなく火に油を注ぐこととなる。
だから事実は話せない。どう話したものか。とりあえず都合の悪いところは隠すことにした。
「実は昨日、館のある部分を壊しました」
藤堂さんは「へえ?」と促す。
「どうして壊したのかは知りません。大川さんが言うには収穫無しみたいです」
「大川が絡んでくるんだな?」
アイマスクの下からでも藤堂さんの表情が動いたことが分かった。
「……ええ。そして昨日の今日です。大川さんからここでアイマスクをして立っていろと言われました」
「なるほど、なるほど」
「何か調べられているんだと思いますよ。なので、趣味趣向でもなんでもなく、恐らく館について考えがあるんだと思います」
「考えねえ。歩田はどう考えたんだ? 当事者だろ。ある程度の考察はしたんじゃないか?」
「大川さんの考えていることについてですか? 正直、分かりません。大川さんが言うには知ってはいけないみたいですけど。だから昨日は何も話してはくれませんでした」
「ふうん。変なのは大川の方か」
その一言で、どこで間違えたかな、と僕は思った。伝え方が悪かったのだろうか。昨日、大川さんと話した限りでは、熟考のすえ行動しているように思えた。その姿勢が伝わらなかったのかもしれない。
慌てて僕は「いえ、そうじゃなくて……」と訂正しようとする。
「ん? ああ。心配するな。お前の考えているようなことにはなってないと思うぜ。あれだろ、館について調べてんだろ? その一環でお前が目隠しをしてここに立ってる」
ちゃんと伝わっていた。
「それならいいですけど」
「まあ、これ以上お前に聞いても何も出てこないんだろうな」
そう言って僕は背中を叩かれる。筋肉痛になっていることを伝えておくべきだった。叩かれたところを中心に痛みが広がった。
そんなことになっているとはつゆ知らず「んじゃ、そろそろ行くわ」と藤堂さんは続けた。
僕は「え、ええ」と答える。正面から人の気配が消えた。足音が遠ざかっていく。大川さんは何をしているのだろうか。まだ来なかった。
正五角館の人口密度は計算してみるとほとんどゼロになるのだと思う。それは正五角館が広すぎるということでもあるし、その広さに対して人が少なすぎるということでもある。
例えば、自然エリア、学術エリア、エンタメエリア、スポーツエリア、リラクゼーションエリア。広さを語るとき、別の何かと比較して語られることがあるけれど、この場所は実家の近所にあった有名な公園の数十個分の広さがあるのだろう。要するによく分からない。
とにかく、正五角館はとてつもなく広いということだった。そしてそこに閉じ込められた、言わば住民は僕を含めて九人になる。
だから館内を歩いていて人とすれ違うことはほとんどなかった。屋敷さんは部屋から出てこないし、流田さんも書庫にいることが多い。他の人もだいたいは決まった場所で過ごしているので、なおさらすれ違うことは無かった。
それでも、念には念を入れて、最も人の寄らなさそうな正五角形の頂点の一つである、リラクゼーションエリアと自然エリアの間にやってくる。
この場所は食堂、休憩所、医務室になっていて、特色のない空間となっていた。フロア全体が円形というのもその象徴かもしれない。正五角形のルールから外れた場所。他にはエレベーターや螺旋階段があり、エリアの属性は無属性だった。
待ち合わせ場所は食堂だった。僕は適当な注文口の前に立ってポケットからアイマスクを取り出した。
アイマスクをする。
当然のことだけれど、前が見えなくなる。
すぐに平衡感覚も怪しくなってきて壁に寄り掛からざるを得なくなった。そこに壁があるはずなのに無いような錯覚がして、不意な衝撃を受ける。昨日の筋肉痛が悲鳴を上げた。
それでもアイマスクは外せない。僕はそのままじっと待っていた。
もちろん自分が何をしているのかぐらいは分かっていた。誰もいない場所で、アイマスクをして、立っている。百人の審査員がいれば九十九人が批判するバカみたいなことで、人が来れば間違いなく品性を疑われるだろう。これは賭けでもあった。人の最も来なさそうな場所でアイマスクをして待つ。待っている相手は大川さんだった。
どれぐらい待っただろう。大川さんの到着が遅く感じるのは焦っているからかもしれない。時間が経てば経つほど大川さん以外の人と遭遇する確率が上がっていくのだから、時間の感覚は多分人よりもずっと遅くなっていた。
すると、一つの足音が近づいてくる。僕は安心して壁から離れた。
「あれ、歩田じゃん」
藤堂さんだった。そして笑い声が続いた。
「なんだ、その恰好」
「人違いじゃないですか?」
何かが崩壊した僕は咄嗟に嘘をつく。
「じゃ誰だって言うんだよ」
「恐らく初対面だと思いますね」
「へえ。初対面ねえ。あたし達の状況からすればそれって大発見のはずだが、そうなりゃ今すぐ他の人を呼ぶしかないよな?」
「歩田でした。おはようございます」
「おはようさん」
そうして、僕は藤堂さんと出会ったことを、この状況を、すべてを諦めることにした。
僕は藤堂さんの出方をうかがう。
どういうわけか食いつきが弱いように思えた。こんな状況に遭遇しておいて、手放しで喜ばないのは藤堂さんらしくない。どこか通りすがりのような、気まぐれで話しかけてきているかのような、そんな声音だった。早朝だからだろうか。
「で、何してるんだ? こんな朝から、こんな場所で、そんな恰好で」
「藤堂さんこそ何されてたんですか」
「朝の散歩に決まってるだろ。そんなことよりお前の話だ。見たところ他に怪しい所は無いようだが」
左から右へ声の発信源が移動していく。
「こんな場所で目隠しねえ。十中八九、変態――」
「ではないです」
「だったらなんだって言うんだよ。気になるだろ」
そう言ってアイマスクの上から額を突いてきた。
「なあ、そんなことして楽しいのか?」
「いえ、まったく」
「じゃ、つまらないのか?」
「どちらかといえば」
「変な奴だな」
その通りだった。自分でもそう思うのだから、他の人から見ればより不審に思うのだろう。
「ま、お前のことはある程度は信頼してるつもりだぜ? だから話も聞かずに頭ごなしに決めつけるってこたあないが……しっかしなあ、その他の理由が思いつかないんじゃどうしようもないよな?」
「実は自分でもよく分かっていません」
「だったらその目隠し取れよ」
「……遠慮しておきます」
分かっていないのに取れない矛盾。僕はこの瞬間どうにもならないことを悟った。
藤堂さんを納得させるには、本当のことを話さない限り不可能なのだろう。朝とはいえ好奇心は辛うじて健在らしい。まいったな。
「あの、逃げてもいいですか?」
「どうやって逃げるんだ? 目隠しは取れないんだろ?」
「確認しただけです」
僕はそう言って次に話す言葉を考える。本当のことを話すのか話さないのか、案外これが究極の選択肢だった。
この後、大川さんが来ることになる。実を言えば、アイマスクをして立っていろという指示は大川さんから出されたものだった。これは愚直に言うことを聞いた自分が悪いのだけれど、この後にデートが始まること以外は何も知らされていない。そして、そんなことを話せば間違いなく火に油を注ぐこととなる。
だから事実は話せない。どう話したものか。とりあえず都合の悪いところは隠すことにした。
「実は昨日、館のある部分を壊しました」
藤堂さんは「へえ?」と促す。
「どうして壊したのかは知りません。大川さんが言うには収穫無しみたいです」
「大川が絡んでくるんだな?」
アイマスクの下からでも藤堂さんの表情が動いたことが分かった。
「……ええ。そして昨日の今日です。大川さんからここでアイマスクをして立っていろと言われました」
「なるほど、なるほど」
「何か調べられているんだと思いますよ。なので、趣味趣向でもなんでもなく、恐らく館について考えがあるんだと思います」
「考えねえ。歩田はどう考えたんだ? 当事者だろ。ある程度の考察はしたんじゃないか?」
「大川さんの考えていることについてですか? 正直、分かりません。大川さんが言うには知ってはいけないみたいですけど。だから昨日は何も話してはくれませんでした」
「ふうん。変なのは大川の方か」
その一言で、どこで間違えたかな、と僕は思った。伝え方が悪かったのだろうか。昨日、大川さんと話した限りでは、熟考のすえ行動しているように思えた。その姿勢が伝わらなかったのかもしれない。
慌てて僕は「いえ、そうじゃなくて……」と訂正しようとする。
「ん? ああ。心配するな。お前の考えているようなことにはなってないと思うぜ。あれだろ、館について調べてんだろ? その一環でお前が目隠しをしてここに立ってる」
ちゃんと伝わっていた。
「それならいいですけど」
「まあ、これ以上お前に聞いても何も出てこないんだろうな」
そう言って僕は背中を叩かれる。筋肉痛になっていることを伝えておくべきだった。叩かれたところを中心に痛みが広がった。
そんなことになっているとはつゆ知らず「んじゃ、そろそろ行くわ」と藤堂さんは続けた。
僕は「え、ええ」と答える。正面から人の気配が消えた。足音が遠ざかっていく。大川さんは何をしているのだろうか。まだ来なかった。