4.1嬉野と歩田の画策

文字数 2,312文字

4.

 フードコートに来ると嬉野の姿は無かった。腕時計を見る。早くも遅くも無い。待っていればそのうち来るだろう。そう思ってコーヒーを飲んで待つことにした。
 嬉野が現れたのはカップの中身がいい感じに冷めてきたときだった。急いで来たようで息が若干切れていた。
「すまん、遅くなった」
「いや、ベストタイミング。なにかあった?」
「来る途中でばったり椎名と会ってな」
 話は見えてこない。
 藤堂さんと一緒にいる印象はあるけれど、たまに一人ですれ違うこともあるので、珍しいことではない。
「そしたら藤堂ともめたって言うんだ」
「まさか。昨日のあの後で?」
 昨日、十番目の扉を壊した後、確かもう一つの扉を壊そうと提案したら藤堂さんが不機嫌になったのだ。別れた後も二人は一緒にいたはずだ。それが起因して何かあったのかもしれない。
「俺も最初はそう思った。ただ話を聞いているとそうでもないみたいでな」
「ますます分からないけど」
「まあ、なんていうか、椎名と会えば分かる」
「ぼかすんだ」
「会えば分かるからな。それなりに察しがつくと思うぜ」
 僕は「察し、ね」と言って、ある程度の予想をする。嬉野が「俺も飲み物取ってくるわ」と言って去って行った。その間、椎名さんについてもう少し考えた。
 会って分かること。なんだろうか。……何かが変化した? そうかもしれない。椎名さんはここに閉じ込められた当初メガネをかけていたはずだ。それがコンタクトになったのは藤堂さんの影響だった。無理やり変えさせられたのだ。そのときも相当喧嘩したと聞いた。今回もまた似たようなことをさせられたのだろう。そんな気がしてきた。
 僕はこれかもしれないと予想し、これ以上考えないようにする。もっとも脱出が実現したら一生会わない可能性もあるのだけれど。
 嬉野が戻ってくると同じコーヒーカップを手にしていた。砂糖もミルクも無かった。甘党の嬉野にしては珍しかった。
「そんな日もあるさ」
「雨が降りそうだ」
「虹がかかるからいいんだよ」
 特に意味のない会話だった。
 嬉野がコーヒーカップに口をつける。カップを離すと微妙そうな顔をした。「苦いな」と一言。「慣れだね」と僕は反応する。「慣れるのか?」と嬉野が言うので、「味すら分からなくなってくる」と答えた。
 僕はコーヒーカップを置く。嬉野も手を離した。さて。
「昨日のことなんだが」先に話し出したのは嬉野だった。
「二人でカプセルを流したよな。それで排水溝をつまらせた。その対処はロボットがやってくれたんだが、覚えてるか? 回収されたカプセルは九つ。十、流して九つだ」
 気づかなかった。その話が本当なら昨日のプランは成功したことになる。
「それなら」
「いや、失敗だ。あの後調べたんだよ。排水溝を流れるカプセルがどうなるか。あそこは温泉だろ? 温泉水は直接、外には排出されない。要するに成分を取り除いて排出するらしい」
 それを聞き、言われてみればそうかもしれないことに気が付く。温泉の含有(がんゆう)する成分は水質汚染となる。生態系などを考えると直接流すことはできないはずだ。
「なるほど、ろ過されるから、館のどこかしらでカプセルも止められる」
「そうなればロボットが対処するはずだ」
「だから失敗か」
 僕は別の可能性を考えた。つまり温泉水でなければ成功するということだ。
「歩田、この話はもういいんだ。これ以上先は無い」
「分かってる。続けて」
「そこで他の経路からの方法を検討した。どの経路が外と繋がっているのか。そしたらすぐ身近にそれがあることに気が付いた。もう分かってるんだろ?」
「「ゴミ箱」」
 嬉野は勝ち誇った笑みを浮かべた。この経路なら途中で邪魔されることはない。したがって真っすぐと外へ向かうことができた。
「いやあ、この方法を思いついたときはしびれたな」
「それで眠れなくなったんだろ」
「悪かったよ」
「おかげでこっちが眠れなくなった」
 もっとも考えていたのは長くても一時間ほどだったのかもしれない。眠るとき、難しいことを考えようとするとかえって寝られるときがある。
「どうだ、この可能性に穴は無いか?」
「気になることはあるけど、それほど問題にはならないんじゃないかな」
「歩田がそういうなら大丈夫そうだな」
「どうして。評価が高すぎると思うけど」
「俺よりは頭が回る」
「本当に信頼できるのは出口の場所を知る人間だけだよ」
「それを隠してる時点で信用はないけどな」
 もっともだった。もし館の誰かがここから出る方法を知っていたら、周囲を(あざむ)潜伏(せんぷく)していることになる。
 もちろんその可能性を考えたことは幾度もあった。実はこの中の一人だけすべてを知る者がいるんじゃないか。疑い出すと切りが無い。
 それもそのはずで、誰もが自然に過ごしているように見えるのだ。だからこの疑いは思考から除外することにしていた。それこそ突き詰めてしまえば密室空間での疑心暗鬼ゲームが始まる。事件が起きたなら防衛手段になるけれど、平和なうちは争いを生むだけだった。
 館からの脱出は信頼が前提となって話し合われる。暗黙の了解だった。
 僕は「決行は?」と尋ねる。
 嬉野は「今すぐ」と答えた。
 そうとなればお茶している暇はない。さほど減ってもいないコーヒーを一気に飲み干す。嬉野もそうしたようだった。
 嬉野がカップを置いて「まじい」と言う。そして「味が分からなくなるってこういうことか?」と聞いてきた。
 僕は嬉野の言いたいことを考えさせられた。やや遅れて「ああ、一気に飲むからってことか」と理解する。考えてみればそうだった。味わって飲まないから味が分からない。当たり前だけれど。
 僕は「だから味が分からなくなるのか」と一人納得した。
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登場人物紹介

歩田悟。館を徘徊する人。

嬉野祐介。館に閉じ込められた大学生。歩田と同じ歳。

猫飼可優。執事。いつも何かしている。

屋敷光明。引きこもり。特に何もしていない。

大川ひすい。マッサージチェアが好き。

佐伯叶枝。大川によく捕まる。

椎名盟里。藤堂にメガネを壊され、コンタクトに変えさせられた。

藤堂律。夕飯が楽しみ。

流田桂花。暇つぶし。

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