第九章 月夜の廃墟にて人の縁に感謝する(2)
文字数 2,732文字
黒猫に話しかけたところ、リラを見上げて尻尾をくねらせるだけだが、自信と威厳に満ちた声が頭の中にこだまする。それは聞き覚えのある声だった。
「君は見かけない顔だな。どうやら新入りのようだが……怪しいものではないのかね?」
リラの視野は
魔術との高い親和性を示すことから、猫は長いあいだ研究の対象にされてきたが、戦乱の時代、狂気に当てられた魔術師は、この小さな生物さえも駆り出そうと魔術の開発に明け暮れた。
猫を諜報や暗殺の
「ちっとも怪しくなんてないわ。あなたからすれば確かに新入りかもしれないけれど、ここには何度も来たことがあるのよ」
「それは本当かね? にわかには信じかねるな。我々は先祖代々この地を治めてきたのだが……」
リラの目には、黒猫が目を見開いたあと、今度は細めて侵入者を値踏みしているように映った。
この不完全な魔術は猫との意思疎通を可能にするが、やりとりは簡単なものに限られる。実用化を阻んだ人間の言語の複雑さは、術者の記憶に代用させることで大ざっぱな解決が図られていた。
双方の記憶や感情のうち、似通ったものを結びつけて聴覚に働きかける仕組みだが、言語の置き換えがいい加減なために時として著しい
「嘘じゃないわ。たぶん、あなたのおじいさまが生まれるよりも、ずっと前のことだけれど」
「だとしてもだ。ここは君のような者が踏み入るべき場所ではないよ。見たところ、なんとも
声は、どうしたことか、とある魔術師のものだった。口調まで再現されている点には閉口しかないが、当の黒猫は術にかかっているため微動だにしていないはずだ。
「出ていけだなんて、ずいぶんな言い方ね。それより、あなたがとてもすてきな毛並みをしているのはなぜ? うっとりするくらい……本当よ、嘘じゃないわ!」
「ふむ……よくわかっているではないか。とはいえ、生まれてこちら
誇らしげに、つんと鼻を持ち上げる。あきれたことに魔術の効果が視覚にも及んでいた。
――ロスロー卿と同じ、自尊心の
猫の記憶に存在しない情報が、術者の記憶から補完される特性上、半ば自らと対話するようなものだ。ちなみに、会話でのやりとりを想定して開発された術ではなかった。
「やっぱり! わたしも鍛錬をさぼったことなんてないから、そうだと思ったの。もしかすると、わたしたち仲良くなれるんじゃない? それに見て、色だって同じよ」
売り込みをあしらうように、黒猫が鼻で笑ったように見えた。
「……どうも勘違いしているようだが、君は卑しきカラスのように、みすぼらしくて見るに堪えない。身繕いをなまけた結果ではないか。人間は
出し抜けに平手打ちを食らわされたようで、あやうく術が解けそうになった。
「うっ……そそ、そうなの? 知らなかった。今度から気をつけようかな」
相手が猫でなければ逃げ出していたかもしれない。踏みとどまるとリラはつづけた。
「じつはね……お聞きしたいことがあるの。教えてくれたらすぐにでも立ち去るわ。このあたりに出入りしていた人間を見たことはない? そうね、痩せていて目がぎらぎらしたオスで、夜中に姿を現すのよ」
すると、ロスローの声がいっそう明確に響いた。
「オスに興味はないのだが、干し魚を納めに来る有益な生物だと認識している。痩せていて冴えないが、まずは
恥を忍んだ甲斐があった。エルトランはこの場所に来ていたのだ! リラは、してやったりの笑みを浮かべたが、わざわざ猫のために餌を持参するとはどういうわけか。まったくの別人、もしくは複数の人物が出入りしていたとも考えられる。
「干し魚……。そうね、なんて有益な生き物かしら。じつは、わたしも魚が大好き……小さな頃からね。でも、その人間はどこから来るのかな、それに棲みかは」
「暗い川を縄張りとするようだ。そこで幾度となく遭遇したのだから間違いない。ただし、冷たい壁の前で足跡が途絶えてしまってな」
意味深長な言葉だが、黒猫がもつ、偽りのない記憶のはず。
「あなた本当にすてきよ! 達人だか貴族だか知らないけれど、偉そうにするだけの誰かさんとは大違い。でも、その人間は冷たい壁の向こうで何をしていたのかしら。もしかしたら、悪いことをする生き物じゃないの?」
「かわいそうだが、それに答えてあげることはできないな。君を疑うわけではないのだが、物事には道理が、世の中には道義というものがあるのだ」
つまり、それ以上は何も知らないということだろうか。時折、リラの視界が大きく歪む。集中力の限界だ。
「ありがとう、すてきな毛並みのお方。このお礼はいずれ……そうだ! おいしい魚を届けに来るわ」
心にもないことをよく言えたものだが、ずいぶんと気を大きくしていたようだ。
「ふむ、よい心がけだ。おおいに期待するとしよう。とはいえ、君はそれまでにきちんとした身繕いを覚えねばならんな。
強い意志をともなう感情は、魔術の効力にも影響を及ぼすという。リラの精神力はこの時、意識が遠のくような疲労でさえも
「……石頭のロスロー……」
「なんだね、それは」
「高尚な響きの、すてきな名前。あなたへの贈り物よ」
その時だった。耳元で呼ぶ声がしたため、そちらへ目を向けると、男の顔が至近に迫っていたものだから、リラは「うわぁっ!」と声を上げて跳び退いた。口から心臓が飛び出るとはこのことだが、足は力なくよろめいて仰向けのまま地面にひっくり返ってしまう。
急速に、失われていた感覚が戻ると、視界いっぱいに星空が広がった。
「大丈夫かい? リラくん」