第七章 荒れ地の老人と天幕の記憶(3)

文字数 2,299文字

「はい、おんぼろの研究室ですね。噂には聞いています。わたしもすこしですが調べてみました。古代史研究の、えっと……アマダさん!」

「そうだ。優れた学者だし、なかなかに気のいいやつでな。ほかに紹介したい男もおるのだが、それはいずれ話すとして、今日は、おまえの考えを聞きたいのだ」
 おずおずと表情をうかがうアトワーズの姿は、娘に縁談をもってきた家長(かちょう)のようだ。
 問題さえ起こさなければ、あと二年もしないうちにリラは学業を終える。その後は、学費を返済し終えるまでのあいだ、研究への従事が義務付けられていた。

「歴史研究は大好きですわ! ロウマン先生からたくさん教わりましたもの」
「どうだ。おまえさえよければ卒業後の配属先として推薦してやってもよいと思っとる。とはいえ、噂にたがわぬ見事な

家でなあ……。はたして本当に、おまえをあそこへやってよいものか、いささか迷うておるのだ」
 気がかりなのは廃屋(はいおく)のような研究棟を、いざ目の当たりにしたリラが逃げ出してしまわないかということだ。

「崩れそうな壁や抜けた床板なんて、わたしちっとも気にしません。腐った柱はちょっとだけ怖いけれど……。(こけ)だらけの屋根は、なんだか故郷の家みたいですてき! それに、先生が言うのですから変わり者で有名なアマダさんって、きっといい人です。香草茶だって気に入ってくれるはずです」
 いくら厳しい訓練によって魔術の思考法を会得(えとく)していたとしても、人は千里眼(せんりがん)にはなれない。初めての香草茶を知らず口にしたアマダが、とくに重要な資料を台無しにしてしまう未来など、知る由もなかった。

「よしよし。おまえの気が変わらんうちに、明日にでも書状をしたためんとな」
「ありがとうございます。受けた御恩は、いつか必ずお返しいたしますので、その日まで、その……、ずっとお体を大事になさってくださいね――」
 急ぐようなアトワーズを見るにつけ、不安でならない。
「――けれども、配属のお話は、いくらなんでも早すぎるのではないでしょうか」
「そんなことはない。せっかくの才能を研究機関同士の競争や、ろくでもない戦場魔術の開発なんぞに使われとうはないからな――」
 学院への愚痴(ぐち)は年々増えるいっぽうだ。(そば)で理解を示すリラの存在は、決して小さなものではなかった。

「――などと、我が学院の心配ばかりもしておれん。ときにリラよ、ロシュフォード校をどう見る」
「えっと……ロシュフォードは、ですね、学術研究をおろそかにして人材の質を下げている、と聞きます。でも、町の中であちらの子たちとすれ違うと、みんなとても明るい顔をしていますわ。なので、わたしには何が正しいのか、よくわかりません」
 率直(そっちょく)に述べた。ロシュフォード魔術師養成学校は奨学金(しょうがくきん)制度こそないが、一般の市民に向けて門戸(もんこ)を広げ、格式にとらわれない自由な校風を生み出している。
 リラは、ぎょろりと向けられた両の碧眼(へきがん)(ひそ)む、いつもの愚痴にはない

を見た。

「そうか、おまえには彼らの笑顔がうらやましく見えるだろうな。だが、もし、ふたたび大きないくさが始まったら、と考えたりはしないか?」
「大きないくさ……ですか? そんな恐ろしい想像なんてしたことがありません。五年前、ロウマン先生はおっしゃいました。当分のあいだ、いくさは起きないから安心してキャンタベリーに行ってきなさい、って」
 数十年前に最後の大きないくさが終結したことは、歴史に(うと)い者でも知っている。さらには、戦場で魔術が本格的に使われたことも。アトワーズは、そしてロウマンも、口を固く閉ざして話さないけれど、矢と、強力な戦場魔術が飛び交う激しい戦いをくぐり抜けてきたはずだ。

「競うように魔術師の養成機関が建ち始めたのは、まだわしが若い頃だ。魔術が大きな戦果をあげた事と無関係ではなかろう。もちろん、学業がそのままいくさの準備になりはせんが、現在は静かな世の中も、この先どう転んでいくかわかったものではない」
「だから、わたしたちには、歴史の研究や過去の教訓から学ぶ使命が与えられているのですね。ロウマン先生の口癖(くちぐせ)でした……、あれ? 本で読んだのだったかな……」
 アトワーズが歴史学者アマダのもとへの配属を持ちかけたのは、リラを取り巻く環境に配慮するためだけでなく、生死を共にした友人の意志を()んでのことだった。

 まるで大仕事を終えたあとのように深く椅子へもたれかかると、アトワーズは(おだ)やかな表情を浮かべ、(せき)(しず)めながら、ゆっくりと息をついた。
 ふたたび天幕(てんまく)が音をたてて揺れたかと思えば、室内が薄暗くなる。厚い雲が日の光を(さえぎ)ったのだろう。洗練された、トルシャンの住まいだが、この中にいると屋外からの刺激を常に受けるため、都市で暮らす者にとっては馴染(なじ)みにくいという。

 娘は靴を脱ぎ捨てて、行儀悪くも素足のままで椅子に両膝を抱え、すぐにも冬がやってきそうだから、チャタンへは厚手の毛布を持っていこうかな、などと、早くも明日からの実習に思いをはせていた。
 そんな様子を眺めながら、老人は冷めた香草茶に手を伸ばす。配属の話に興味を示し、何より、自分の将来に希望を抱く教え子の姿が彼を安堵(あんど)させた。

 一年前のこと。豊かな黒髪を、娘は突然ばっさりと切ってしまったのだ。修行には邪魔だからと話すものの、嘘であることぐらいアトワーズにもわかった。いまは、すこしだけ伸びた髪を後ろへ追いやり、(わずら)わしそうに髪留めで束ねている。
 学院にやってきた頃と比べると体も大きくなり、老人からすると直視できないほどにまぶしい生命力の(かたまり)に感じられた。老いていく我が身と、成長著しい娘の上に流れる時間が同じものだとは思えない。

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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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