序章 冬の訪れ
文字数 1,651文字
少女は振り返り、優しくほほえんで見せた。
「危ないから待てと言っておるのに……」
老人は知性の宿る目を細めて、白い息を残しながら走り行く小さな後ろ姿に呟いた。深いしわが刻まれた顔には生気が満ちているのに、追いかけるどころか歩くのさえままならず、冷えきった岩にすがっては、やっとのことで身を起こしていた。
下り坂にさしかかり、その姿が
老人は少女の身を案じつつも、それを見送ることしかできなかった。
ふたりは、もうじき冬が訪れる山の中腹まで、杖をこしらえるのに適したヤマカニワの
折しも、ねずみ色の雲が山の頂を見る間に覆い隠そうとしていた。近くには背丈の低い草木しかなく、火を起こして暖をとることも、身を隠すこともできない。
心配なのは制止も聞かずに「里のみんなを呼んでくる! あとそれから、
山並みは黒さを増し、ちっぽけな老人へと、いまにものしかかりそうだった。
どれほど時がたったのだろう。すっかり日も暮れた頃、老人を呼ぶ声がした。子供の声も混じっているようだ。
「いよいよ幻聴か……」
顔を上げると、点々とした
岩陰で横たわる人影を最初に見つけた少女は、こらえていたものが
ひとしきり泣きじゃくったあと、たいへんなことに気がついて、大慌てで駱馬の
集まってきた者が、その上からさらに毛布をかけると、小さな寝息が聞こえた。少女は約束を果たしたのだ。
大人たちが、体を温めるようにと酒袋を持ってきた。老人は片目をつむって見せるが「これがいちばんじゃて」とは言わない。功労者の手前、口に出すのをはばかったのだ。
酒を控えるように。少女は日頃から口うるさい。
* * *
里をあげての捜索から一夜が明けた。外れにある石造りの小屋で、天井より吊るされた干し肉を手でまわしながら、少女は寝床の老人に尋ねた。くるりと振り向いた顔には、いたずらな笑みを浮かべている。
「ひとりで待っているあいだ怖かったでしょ? うん、きっとそのはずよね」
昨日、心細い中をふもとまで駆け下りたのだ。老人に抱きついたままぐったり眠ったあとの帰り道、父親の背中であったために聞きそびれていた。
「いや、そんなことなんぞ、これっぽっちも思わん。出来のよい助手が戻ってくるのをわかっておったからの、安心して居眠りこいとったわい」
恩人のいたずら話には乗らず、腰を押さえて豊かなひげを揺らしながら笑った。少女は、たくらみが空振りに終わるとつまらなそうに口を尖らせる。けれども、ふと浮かんだ疑問を投げかけた。
「ねえ先生、腰がよくなる魔法はないの? 魔法使いなんだから作ればいいのに」
老人は重い上体を起こすと、曇った小窓を拭いて外を眺め、まぶしくもないのに目を細くして言った。
「腰痛は人類永遠の持病じゃよ。おそらく、わしらは千年先も腰の痛みと戦っておるじゃろう」
つぎは何を話そうか、少女は考え込む。ふたりの時間はどこまでも、永遠につづくものだと思っていた。それを見て老人は切り出した。
「そうじゃ、おまえにもヤマカニワの杖を作ってやろう。今日から魔術の基本を学びなさい」
里には、冬の到来を告げる初雪が降り始めていた。
第一章につづく