序章 冬の訪れ

文字数 1,651文字

「大丈夫、落ち着いているわ! えっと……わたしはとっても冷静よ」
 少女は振り返り、優しくほほえんで見せた。
「危ないから待てと言っておるのに……」
 老人は知性の宿る目を細めて、白い息を残しながら走り行く小さな後ろ姿に呟いた。深いしわが刻まれた顔には生気が満ちているのに、追いかけるどころか歩くのさえままならず、冷えきった岩にすがっては、やっとのことで身を起こしていた。

 下り坂にさしかかり、その姿が稜線(りょうせん)に沈もうという所で少女が足を止めて振り向いた。手を高く振って見せ、しきりに何かを叫んでいるが、声は、原野を震わす風にさらわれていく。
 老人は少女の身を案じつつも、それを見送ることしかできなかった。

 ふたりは、もうじき冬が訪れる山の中腹まで、杖をこしらえるのに適したヤマカニワの古木(こぼく)を探しに来ていたのだった。日は傾き、冷気が山肌を下り始めた時、老人は持病の腰痛に襲われて倒れ込んでしまう。
 折しも、ねずみ色の雲が山の頂を見る間に覆い隠そうとしていた。近くには背丈の低い草木しかなく、火を起こして暖をとることも、身を隠すこともできない。
 
 心配なのは制止も聞かずに「里のみんなを呼んでくる! あとそれから、駱馬(リャマ)も!」と、斜面を駆け下りていった少女のことだ。山岳地帯の夜は早く、日が落ちると冬眠前の獣が獲物を求めてさまよい始めるだろう。少女の苦難を思うと生きた心地がしない。それでも、いまは底知れぬ不安に身をゆだねるしかなかった。
 山並みは黒さを増し、ちっぽけな老人へと、いまにものしかかりそうだった。


 どれほど時がたったのだろう。すっかり日も暮れた頃、老人を呼ぶ声がした。子供の声も混じっているようだ。
「いよいよ幻聴か……」
 顔を上げると、点々とした松明(たいまつ)の灯りが揺れ動きながら、取り囲む輪を狭めてくるところだった。

 岩陰で横たわる人影を最初に見つけた少女は、こらえていたものが(せき)を切ってあふれ出し、顔をしわくちゃにして抱きついた。
 ひとしきり泣きじゃくったあと、たいへんなことに気がついて、大慌てで駱馬の背負(しょ)(かご)から毛布を引っ張り出し、冷えきった老人の体を包んだ。
 集まってきた者が、その上からさらに毛布をかけると、小さな寝息が聞こえた。少女は約束を果たしたのだ。

 大人たちが、体を温めるようにと酒袋を持ってきた。老人は片目をつむって見せるが「これがいちばんじゃて」とは言わない。功労者の手前、口に出すのをはばかったのだ。
 酒を控えるように。少女は日頃から口うるさい。

   * * *

 里をあげての捜索から一夜が明けた。外れにある石造りの小屋で、天井より吊るされた干し肉を手でまわしながら、少女は寝床の老人に尋ねた。くるりと振り向いた顔には、いたずらな笑みを浮かべている。
「ひとりで待っているあいだ怖かったでしょ? うん、きっとそのはずよね」
 昨日、心細い中をふもとまで駆け下りたのだ。老人に抱きついたままぐったり眠ったあとの帰り道、父親の背中であったために聞きそびれていた。

「いや、そんなことなんぞ、これっぽっちも思わん。出来のよい助手が戻ってくるのをわかっておったからの、安心して居眠りこいとったわい」
 恩人のいたずら話には乗らず、腰を押さえて豊かなひげを揺らしながら笑った。少女は、たくらみが空振りに終わるとつまらなそうに口を尖らせる。けれども、ふと浮かんだ疑問を投げかけた。
「ねえ先生、腰がよくなる魔法はないの? 魔法使いなんだから作ればいいのに」
 老人は重い上体を起こすと、曇った小窓を拭いて外を眺め、まぶしくもないのに目を細くして言った。
「腰痛は人類永遠の持病じゃよ。おそらく、わしらは千年先も腰の痛みと戦っておるじゃろう」

 つぎは何を話そうか、少女は考え込む。ふたりの時間はどこまでも、永遠につづくものだと思っていた。それを見て老人は切り出した。
「そうじゃ、おまえにもヤマカニワの杖を作ってやろう。今日から魔術の基本を学びなさい」
 里には、冬の到来を告げる初雪が降り始めていた。


第一章につづく
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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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