第九章 月夜の廃墟にて人の縁に感謝する(3)
文字数 3,329文字
頭上からは、男が心配そうに覗き込んでいる。リラは状況を
「ウルイさん? え……ええっ!?」
男が
「なんで? なんでいるの?」
引き起こされながらも、気が動転して何がどうなっているのやらさっぱりだ。目まいがひどく、足元がおぼつかないために杖で体を支える。不完全なうえ、無駄だらけの魔法構文が原因で体力を消耗しきっていた。
案じるように見つめつつ、ウルイと呼ばれた男は穏やかに話す。
「すまないねえ……何も驚かせるつもりではなかったんだ。君がしゃがみ込んだまま、つらそうにしていたものだから――」
ウルイとは、研究室において気持ちのはやるアマダ室長を
「――だけど、いまにも猫に飛びかかりそうだったよ。ものすごく怒った顔でね」
「あはは、それは……。わたし、何かおかしなことを言っていなかった?」
見回すと猫たちの姿はない。あまりの騒がしさに逃げ散ってしまったようだ。
「さあねえ。わたしが見かけた時、君は顔をひきつらせて本当に苦しそうだったんだ。ほら、汗だってびっしょりじゃないか」
指摘されてようやく、リラは額や頬に髪が貼りついていることに気がついた。
「でもどういうこと? どうしてウルイさんがこんな所にいるの? ちっとも状況がわからない」
「君を
「あなただったのね! あの時に視線を感じたのは。てっきり別の人だと思っていた」
月明かりに照らし出された男の長衣が、そこかしこと破れているのに気がつき、リラは両手で口を覆った。疲れきった男の顔が
「これかい?
エルトランの私室で見つけた服にも破れ跡があったことを思いだす。けれども、ウルイと同じ感想を抱いていたことがおかしくて、リラは思わず、くくっと喉を鳴らした。機密はともかくとして、隠し事をしたって始まらない。
「忍び込んだのは、もちろん任務に向けた調査のため。さっきは、以前に覚えた方法で猫に尋ねていたところだったのよ。でも、心配してくれていたのね」
「やはり、役目に関するものなんだね……。よし、こうなったら、わたしにも何か手伝わせてくれないか。もっとも、知られちゃまずい話だというのも分かってはいるんだが」
いつになく真剣な表情で、素直に引き下がるようには思えない。断る理由を探しても、どれもがつまらぬことだった。それよりもウルイの気持ちがありがたい。リラは降参したようにため息をつくが、これでは失礼だと考え直して背筋を正す。
「見つかったらたいへんよ、と言いたいところだけれど……ありがとう。ウルイさんがいてくれると、とても心強いわ! わたしからもお願い。でも、なんだか巻き込むような事になってしまって、ごめんなさい」
そう言うと、リラはぺこりと頭を下げた。
思えばロウマンには、わざわざ弟子に遠回りを押しつける
不満を口にしようものなら、「結果ばかり求めようとするから、とかく、おまえは近道を選ぼうとする。大切なのは答えに近づこうとする心じゃよ」と言っては、意気込む弟子をやきもきさせた。
リラは知っている。たとえ間違った一手だとしても、その一つひとつが着実にエルトランを追い詰めていくことを。師匠の言葉は、いつしか彼女の一部となっていた。
黒猫の言う冷たい壁が何を指すのかは不明だが、いっぽうの暗い川については、心当たりがあった。東の敷地と同じく、庭園に水を引くための水路がある。めぼしがついた以上は疲れたからといって休んでなどいられない。
歩き始めてすぐのこと、リラの後ろをついて歩く同行者が好奇心を隠せない様子で尋ねた。
「さっき猫に使っていたあれは、行方知れずの魔術だね。どうやって覚えたのかは知らないけど、まあ、あまり
ウルイは独学で魔術を習得しているというが、いきさつは気になるところだ。彼は探索に向いた魔術を専門とするため、リラが使用したものに興味をもったのだろう。これについても隠す必要はない。
「屋根裏で見つけたのだけれど、いくさのための研究だったって聞いたから、ちょっと後ろめたくなってしまって……。べつに、隠すつもりじゃなかったの」
ある時、あばら家の
がらくた
を物色していたリラが偶然に見つけ、それと知りつつも、興味本位で魔法構文を解析してしまったのだった。「なんだ、そんな身近な所にあったのか。まあ、君ならば会得もたやすいだろう――」
「――ところでウルイさん!」
前を行くリラが唐突に振り向いたものだから、ぶつかりそうになったウルイは顔をのけぞらせる。間近に覗き込むリラの目には、ごまかしなど認めないだろう気迫がこもっていた。
「どうしてこっそりとつけてきたのよ。声をかけてくれたらよかったのに!」
ウルイは、そっぽを向いて苦笑いを浮かべたが、すぐにあきらめて、きまりが悪そうに
「アトワーズ師匠……」
「え? いま、なんて……」
ウルイは確かに故人の名を口にした。それから師匠とも。そして、鼻先を
「これを話していいものか……。あまり言うな、と口止めされていたんだけど。わたしの師匠、つまりアトワーズ師範から君のことをよろしくと頼まれているんだよ」
「アトワーズ先生と知り合いなの!? それに師匠って……」
ウルイは
「生前、師匠はリラ君を実の娘さんのように思われていてね……、息を引き取る間際、陰ながら君を見守るよう、わたしに遺言を託されたんだ。だからさ、こうやって、あとをつけてきたのは」
攻撃呪文を食らった時ほどの衝撃が体を突き抜けた。朝から驚き通しの一日だけれど、それらのなんと
「先生がわたしを、そんなふうに思ってくれていただなんて、ちっとも知らなかった! それにウルイさんのことも……。
告げずに逝ってしまったが、あの日、天幕の中でアトワーズが口にした、紹介したい男とは、ウルイだったのかもしれない。おそらく、最期を看取ったのも。
「わたしも家族がいないものだから、リラ君を見ていると我が子みたいに思うことがあって、師匠の気持ちもよくわかるんだ。君にとっちゃ迷惑だろうけどねえ……」
「そんな! 迷惑だなんて思うわけない。ただ、もったいなくて、でも、すごく嬉しくて……。わたし、なんとお礼を言ったらいいんだろう……」
リラは感謝を伝えようとしたけれど、急性の失語に見舞われたのか、うまく言い表せない。さらに、肺がしゃくりを上げて呼吸さえままならないことに気がついた。
「ありがとう、ウルイさん。傍でアトワーズ先生が見守ってくれているみたいで、こんな……嬉しいこと……」
声が震え、最後は
夜の闇といえど、立ったまま背も向けず、子供のように泣きじゃくるものだから、ウルイはすこし離れて星空を見上げていた。その顔は、どこか、遺言を打ち明けたことを後悔しているようでもあった。