第八章 うごめく者たち(4)

文字数 2,083文字

 推論が飛躍しすぎだ、とリラはかぶりを振ったが、ようやく手にしえた情報のもつ意味は大きい。結界魔術こそエルトランの専門に違いないのだ。さらに、結界で隠蔽(いんぺい)された禁書庫が実在するのであれば、彼がその術を破り侵入したことも考えられる。

 積み上がった書物を片づけるために、開かれたままの卒業者名簿を閉じようとして、ふと手を止めた。
 引っかかりを感じたためだが、その正体はわからない。本来なら存在するはずのものが見当たらないように思えた。卒業生のすべてを覚えてはいないが、少なくともリラの知る事実とは一致しない。

 脳裏に立ち込めた霧の、すぐ向こう側に誰かがいる。褐色(かっしょく)の肌に薄亜麻色(うすあまいろ)の長い髪……。伸ばした指先に触れるものは何もなく、ただ、空を切るのみで、一陣の風が吹き消すように、すべてをさらっていった。

 じっと見つめる視線に気がついたのはその時だ。リラはあたりを見回すが、増えつつある学生たちのなかに何者か混じっているように錯覚したのは、朝から学院中を奔走(ほんそう)した疲れのせいだろう。

 居心地の悪さを感じたため、残る時間をウトロへの旅に向けた調べ物に当てようと席を立った。
 猫を踏みつけないよう柱の螺旋階段(らせんかいだん)を上がりきると、天井が間近だ。眼下には、わずかに幼い面影を残す生徒たちが、二人、三人と連れ合いながら照明を灯して回っているのが見える。
 火の気を嫌うここでは、天井より吊るされた照明器具から、柱に掛けられた灯火(とうか)に至るまで、灯りのすべてが魔術の光によるものだ。夕暮れに向けた照明の点灯は、講義を終えた初等部の生徒による当番制となっていた。

 丸い天井に描かれたポロイの叙事詩を照らす光は、時間とともに位置を変える。かげりつつある太陽が浮かび上がらせているのは、新天地に巣くう魔物との戦いで傷つき倒れたポロイが、後継者たちに見守られるなか、その目を閉じようとしている場面だ。

 リラは、地質学や産業学などの書籍をかき集め、椅子にどかっと腰を下ろすと、急いで目につく記述を拾っていく。表紙を開くと(ただよ)湿(しめ)った匂いは、霧深いウトロ村の記憶に直結した。

 広義(こうぎ)におけるウトロとは、山脈を越えた東の森林地帯に点在する集落および〈薄暮(はくぼ)の森〉を含めた一帯をいう。ウトロ村という場合、中心を成している大きな集落を指すことが一般的だ。
 村は、ポロイ終焉(しゅうえん)の地である聖地ポロイヤートへの巡礼路にあたることから宿場の役割を担っている。また、()き出す温泉に()かり、傷や病気を治そうと集まってくる湯治客(とうじきゃく)も多い。この素朴な村は、カドマク・ニルセンが砂金を発見したことによる、一連の騒動の中心地でもあった。

 地質学の研究記録には、千年以上の昔にウトロで起きた気候変動について記されていた。火山活動による地形の変化で川がせき止められたために、水量の豊富なポウトリ湖が生まれ、森の形成が(うなが)されたという。
 一帯は、年間を通じて雨が多いことで有名だ。以前、リラが滞在した時も雨だった。雨と霧の印象が強かった。〈薄暮の森〉は昼間でも薄暗く、樹木の育ちが緩慢(かんまん)だ。その分、材質は堅牢(けんろう)で質がよく、材木の切り出しなどの産業が村を支える。森は、魔物が巣くう場所としても名高い。
 考古学書から得た情報は、なかなかに興味深いものだった。〈薄暮の森〉の深くには、木々が生い茂るにつれて放棄された、多くの古代遺跡が眠っているという。

 ポウトリ湖の周辺では、大小四十もの村落が共同体を築いている。中心を担うのが、リラも宿泊を予定するクイルツッカという漁村。宿場としての役割以外にも、産物の集積、加工地として栄え、小都市ともいえるにぎわいを見せている。

 クイルツッカは、ウトロから、いかだを組んで運ばれてきた木材が加工されるのをはじめ、ヌルイカ酒やパクナス魚醤(ぎょしょう)醸造(じょうぞう)といった産業が盛んだ。リラは、漂う魚醤の匂いに、鼻を押さえて歩いたことを忘れない。
 ポウトリ湖よりあふれる水はシューリール川となって海へそそがれ、加工品も船でフランパーナの港へと運ばれる。
 また、毎夜のごとく発生する霧は、その幻想的な美しさから多くの歌に()まれている。リラが訪れた時も、外套(がいとう)や、まつ毛にまで水滴がつくほどの濃霧だった。

 明日からの旅で、リラは初めて東の山脈を越えることになる。これまでにもクイルツッカやウトロを訪れた経験はあるが、船で川を行くことで、難所として名高い峠を回避していた。
 険阻(けんそ)なミュルヌーイ峠が待ち受ける旧街道を旅する者といえば、まずあげられるのが、峠にある、ポロイゆかりの史跡に立ち寄る巡礼者。つぎに、陸路での交易のみが許された品を扱う行商人たちだ。
 フルミドやマレッタが言うように、近頃、川では海賊行為が横行しているため、峠越えを選ぶ者が少なくないと予想される。

 リラは明日からの任務に思いをはせた。いまだ気持ちは晴れないが、もともと旅は好きだった。
 小さな頃は、旅人や老師から聞かされる、未知の世界を夢見ていたし、山を、川をひとつ越えるたびに、見知らぬ人々や風景に出会えるからだ。クイルツッカでは魚料理が待ち受けているが、そのための対策もぬかりない。
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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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