第八章 うごめく者たち(3)
文字数 3,770文字
にかわで汚れた前掛けの製本職人が、修繕した書物を棚に並べ、工房へ引き返していく。リラがやってきた場所は、研究論文のほか、卒業生や在籍者の名簿など、保存記録が並ぶ一画だ。
彼女は棚から手当たりしだいに本を抜き出し、表紙を開いては戻していたが、やがて椅子に腰を下ろすと、つぶさに読み始めた。
エルトランによって盗み出された魔術書には、学院の研究が記されているという。傘つきの燭台が淡い光で照らすなか、研究記録の蔵書目録に片っ端から目を通したが、手がかりになりそうな記述を見つけることはできなかった。
役目について、いっさいの口外を禁じる、という役員たちの物々しさは魔術書に向けられたものだろう。学院の威信に関わる機密であることに、もはや疑う余地はない。
いやな予感も覚える。研究や習得が条例で禁止され、所持すら処罰の対象となる異端の書を、破棄どころか学院自らが隠し持っていたのではないのか。
だとすれば、エルトランが研究に手を染めた事実とのあいだに符合が生まれる。奇妙なことに彼は厳しい処罰をまぬがれているのだ。
異端魔術について調べる必要を感じ、魔法学の区画にも足を延ばした。
残念なことに、異端魔術の危険性を訴えた〈闇の魔術に鉄槌を〉や〈魔道の系譜〉といった書籍が見られるのみで、リラにとっては異端学のおさらいをしたにすぎなかった。
ロスローの話によると、エルトランの研究は、疫病のように広がる支配魔術と、生贄をともなう対価魔道だが、その他にも異端と定義される魔術は数多い。呪いや暗殺に使われる感染呪術、死霊術に代表される妖術などで、なかでも禁忌とされるのが異界との接触だ。
過去に歴史を終わらせた天変地異の原因を、異界からの侵入者に求める説も一部では根強い。
また、研究が推し進められるいっぽうで、習得は禁止とされる魔術がある。それはおもに、戦場魔術と呼ばれる破壊力や殺傷能力に秀でた、戦乱による負の産物で、書籍〈手にしてはならない力 甚大な被害をもたらした戦場での集団魔術〉に詳しい。
いくさの表舞台に躍り出た魔術による戦果は計り知れず、主役の座を奪われた戦士たちから反発をまねいただけでなく、若かりし賢者ゼラコイをはじめとする魔術師のなかから戦場魔術の廃止を訴える声が上がったこともあり、戦後は国同士の取り決めにより使用禁止とされた。
手のひらにマメが出来るほど剣を振り回した腕で、書物を抱えて駆け回ったわりに得たものはない。リラはぐったりと椅子に腰かけたまま固く目をつむり、重たくなった両腕をうんと高く伸ばした。
除名者記録を開いたのは、マレッタが新米だった頃に異端研究がもとで学院を追放されたという人物を調べるためだ。「しつこく言い寄られて困ったことがあってさ……」と言うマレッタを思い出し、口元をにやにやさせながら頁をめくっていると、二十年ほど前のものに、学院条例の著しい違反を事由とする除名の記述が三件見つかった。
詳細は不明だが、「ベイケット・クラン」「オハラス」「セノルカ・バリン」という名が記されている。彼らと、エルトランの研究に接点を見出そうとしたが、除名時期とエルトランの就学には五年もの開きがあった。
ふたたび、盗み出された書物について考えをめぐらせた。危惧したように禁術を扱ったものだとしても、彼はどのような経緯で知り得たのか。
閲覧室の蔵書には、まれに禁断の書が紛れ込んでいるという。また、書物に記された魔法構文そのものが魔力を帯びている場合もあり、特定の者と共鳴し合う可能性についての論文を目にしたこともある。ただ、魔術書が盗まれたのは書庫からだ。
閲覧室や通常の書庫から盗み出すのであれば、猫が出入りする通風孔を使えば、やりようはあるが〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉ことネイドルの言う書庫とは、おそらく異なったものを指す。
リラは耳にしたことがある。学院には、重要なものを保管するため、人の認識を歪めてしまう結界魔術によって守られた部屋がある、という噂を。重要なもの、と聞こえはいいが、つまりは公にできないような物品の隠蔽場所で、禁書庫と呼ぶのがふさわしい。
初歩の結界による遮蔽だと、わずかに人間の知覚を鈍らせる程度だが、習熟した術師たちによる強力な結界の場合、軍勢や小さな町そのものを隠してしまえるという。仮にそうだとしても、エルトランはいかにして踏み込めたのだろう。
「分からないことだらけなのに、また結論を急ぎすぎたかな……。こんなことだから先生にも、フルミドさんにも笑われるんだろうなあ」
周囲の騒がしさに顔を上げると、午後の講義を終えたのか学生の姿が増えていた。閉館となる夕刻の鐘までには十分な時間がある。手ぶらのまま引き返すつもりはなかった。
リラは名簿をもとに、除名者たちが残した文献を探し当てたが、危険な研究に結びつくような兆しは見られない。骨折り損であっても、真実を洗い出すために、余人には真似のできない集中力で黙々と作業をこなしていく。それは〈第三・古代史研究室〉における彼女の日常そのものだった。
除名者たちの名を頭の片隅へしまうと、最後に、学生時代にエルトランが書き記した論文と向き合った。
「はじめましてと言うのも、ちょっと違うかな。でも、かならず探し出して見せるから待ってなさい」
文脈から伝わるのは、剥きだされた、鋭利なまでの若さだった。
――我々が、魔力の暴走や戦火など、抗えぬ脅威に怯えていたのは、もはや過去のこと。魔術の多大な恩恵を得て、人類がさらなる発展を遂げていくのは自明の理である。
灯りは闇夜に安息をもたらすにとどまらず、間断のない経済活動をも現実のものとするだろう。さらに、不安定な風に依存することのない船舶での輸送や、水源確保による、雨水を頼らない農業、大規模事業による治水などの試みもすでに始まっている。治癒の魔術は遠い将来に死の病すらも克服するはずだ。また、研究の過程で得られる知識や法則も我々の進歩に不可欠なものといえよう。
古代の魔法国家では、宗主が魔術によって領地を支配していた。特権であった魔術に民が触れるのはむろん、加護を受けることさえなかった。魔術の力のみを拠り所とした社会構造では持続など望めないため、天変地異がなくとも早晩に崩壊したことは想像に難くない。
現在、魔術師に特権は認められていない。産業魔術の浸透により、ともすれば技術職の一部と言わんばかりの認識だ。それは、人々が遥か千年も過去の教訓を戒めとするからであるが、人類の進歩にとっては時として足かせとなる。
いかにして我々の権利は制限されたのか。四十年前に終結した戦乱では、津波のように押し寄せる重騎兵をなぎ払った〈破軍〉や、鉄壁の城塞を打ち砕いた〈破城の鉄槌〉など、新鋭の集団魔術が多くの戦場において、その趨勢を左右した。戦後、地位の低下を恐れた戦士たちは、政治的手段を用い、これらの戦場魔術を廃止へと追いやったのだ。
至る背景に垣間見えるのは、復興と再建の時代に台頭してきた、人間は自然のごく一部にすぎない、などと唱える安直な自然融和主義だ。結果はどうか、林野における魔物の脅威は放置され、人間に従属すべき自然はいまだ我々に牙を剥く。
古代国家が犯した過ちとは栄華への固執だ。歴史を学びとする我らには、魔術を有効に活用し、荒れ狂う自然を制御する使命こそあれ、生命や営みを脅かされてまで、その摂理に従ういわれはない――
「安直な自然融和主義って……、先生たちの悪口を言っているの? なんだか、ひどい言われようだわ!」
リラの老師が主張する、人間を自然の一部とする考えは、決して災害や魔物の脅威にさらされた人々を軽視したものではないけれど、魔術師の復権を訴える声がこの学院には少なくない。
また、戦場魔術のなかには、兵士たちの精神を麻痺、高揚させて、痛みや恐怖を意に介さず戦わせたり、降りそそぐ死毒の雨が、敵兵のみならず土壌をも長年にわたって蝕んだりするような、人の道にもとる、魔道との判別すらつかないものが存在した。
惨たらしい戦場を目の当たりにしたからこそ、ゼラコイをはじめとする多くの者が戦場魔術廃止の声を上げたのだ。大事な視点が抜け落ちたエルトランの主張に、リラは歯がゆさを覚えた。
――王立カンタベル本来の使命は、他国に先んじた魔術の研究にこそある。それには、チャタン中心部の謎を解き明かすことが先決だ。
なぜならば、かの遺跡こそ最大規模の結界によって守られた場所だからである。結界魔術そのものと言ってもよい。秘匿されたものが、古代の秘宝、もしくは高度な魔術であること明白だ。
我々に必要なのは、足かせでしかない制限を撤廃することではないだろうか。自由な研究による競争こそが、人類の永続的な発展にとって必須である――
「チャタンそのものが結界魔術ですって!? そんなの聞いたこともない……」
不意の話で、裏付けもされておらず、リラにしてみれば突拍子がないように思える。若いエルトランによる提言は、こう締めくくられていた。
――我々が世の中を導いてこそ、無用な戦争をも抑止できうるのだ。以上のことから、わたしは魔術師がその能力にふさわしい地位を手にしてしかるべきだと考える。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)