第七章 荒れ地の老人と天幕の記憶(2)
文字数 2,401文字
「えっと……十七になりました」
手渡された茶杯を両手で包み、ふうっと息を吹きかけると温かい湯気が顔を湿らせる。目を閉じて、胸いっぱいに香りを吸い込むと茶杯の
机の上に伏せられた、傷みの激しい古書を棚の奥へと隠すようにしまうと、アトワーズは振り向き、幸せそうなため息をつく教え子に尋ねた。
「明日からまた、チャタンに下りると言っとったな。聞いたところ、先日の実習では盗掘村の連中と衝突して、えらく派手にやり合ったそうだが?」
カンタベル学院は、遺跡がひしめくチャタンでの訓練を伝統的に行なってきた。現地の安全な地帯に
「だってあの人たち、ずっとあとからやってきたくせに、ここは俺たちの縄張りだと勝手に主張し始めて、まるでこちらが侵入者扱い――」
「――それから突然、矢をたくさん射かけてきて、わたしたちを追い払おうとするのですもの。それも毒の矢ですよ、毒の! 防ぐうちに、わたしもついカッとなってやり返したのですが、そこからはもう、めちゃくちゃな騒ぎになってしまって」
言い終えて息をつくリラの頬が、ほのかに紅潮していた。
動乱の時代が終わる頃、定まり始めた国境により、自由な営みを奪われた民族がいた。土地に縛られることなく風のように暮らす
「まったく無茶しおって……。危険な呪文は使わなかっただろうな? おまえにもしもの事があるとゼラコイ……いや、ロウマンのやつになんと怒鳴られるかわからん。この場におれば、あいつは間違いなく言うぞ。『武勇談ばかりこさえおって、アトワーズはいったい何を教えとるのか!』とな」
声を張ったアトワーズはすこし咳き込み、やがて、鼻から長いため息を漏らした。
「大丈夫です。誰も傷つけたりしていません。けれど、あちらにも魔術を使える人がいて、それも見たこともない
老人を安心させようとしたのか、リラは上気した顔に、くすりと笑みを浮かべた。
「盗掘師たちは、わしの部族とは遠い親戚のようなものだからな……。しかし魔術だけではない。戦いや暗殺の技術だって古くから受け継がれとる。つまり、需要がある以上、連中の
学院は今日に至るまで、盗掘師たちへの表立った非難を避けてきた。理由は、彼ら一族が継承してきた特殊技能にある。平時においても、要人の警護や誘拐、他国への密偵など、その能力を高く買う者は多い。もし、いくさにでもなれば、日頃からチャタンで腕を磨く彼らには、さらなる活躍の機会が約束されているだろう。
落ち着き払った教え子を見ていると、かえって心配でならない。アトワーズは腰もかけずに天幕の中をうろうろしていたが、ふと娘が、袖をまくり上げてあらわになった自身の右腕を、じっと見つめるのに気がついて、ぎょろりとした目を細める。
「どうしたのだ? 何か気になることでもあるのか」
「うーん……思いだせない。わたしの右手にこんな大きな傷なんて、あったのでしょうか」
娘は困り顔で眉を寄せ、手首から
「……おそらく、去年の
「そ、そうでした! これは、あの時の事故の
込み上げる後悔と、恥ずかしさを隠すために、娘が体を揺らして何度も大げさに
彼女が起こした騒ぎを発端として条例が改正され、旧敷地への立ち入りが禁止となったことや、境界に鉄柵が設けられたのは、つい一年ほど前の出来事だった。
「ともすれば命をなくしとったのだから、傷だけで済んで何よりだ。あれからは静かになったものだが、喧嘩っ早いおまえを見とるとな、どうも老体によくない。年寄りをいじめるのも、ほどほどにせんといかんぞ」
老いを指摘された仕返しに、冗談めかしたつもりだが、リラは亡くした祖父が頭をよぎったのか、慌てて姿勢を正すと、顔を伏せて固く目をつぶる。
「わたしは、アトワーズ先生に甘え、ご迷惑をおかけしてばかり。まだまだ修行が足りません……。これからは、何事にも冷静になることを誓います。ですから……」
言葉をつづけることは、できなかった。ふたりのあいだには、いつしか重苦しい空気が流れ込んでいた。
リラが固い決意を胸に故郷を離れたことは紛れもない事実だが、アトワーズの支えがなければ、学院での暮らしはより困難なものになっていただろう。
〈カンタベル騎士団〉と称する急進派との決闘騒ぎのなかで、リラがある事件を起こした時、後援貴族会が異例の会合を開いて首謀者の処罰を叫んだ。彼は自らの進退を賭けて立ち回り、評議会で決議された教え子の除名処分を撤回させたのだ。
ゆえに、リラは頭が上がらない。
「そうそう、先日の話のつづきだが、覚えておるか」
雰囲気を変えようと、アトワーズが話題を振った。教え子の将来についてだが、彼にとっては、こちらこそが本題といえた。