第七章 荒れ地の老人と天幕の記憶(1)

文字数 2,240文字

 叩きつけるような風で頭上の硬い布がばたついた。すぐ近くでは、誰かが妙な咳をしている。どこかで湯が鳴っている。沈香(じんこう)の煙が漂うなか、うっすら、まぶたをあけると見慣れた光景に安堵した。

 椅子に深く腰掛けたまま寝入っていたらしい。体は温かく、ひと足先に支度を済ませていたようだ。肩からかけられた肌触りのよい毛布が優しく頬に触れる。まどろんではいるが、寝覚めのよい朝を思わせる心地よさだった。
 蝋引(ろうび)きされた布張りの天井から日が差し込んで、天幕(てんまく)の内側に陰影の少ない、やわらかな光を届けている。

 天幕は、荒れ地を渡り歩く剽悍(ひょうかん)な部族、トルシャンの住居だという。朱の織物が足元や室内を彩り、空間に調和を生み出していた。天幕をはじめとする、簡素な机や布製の長持(ながもち)など、少ない生活道具のほとんどが、運搬の容易な、旅に適したつくりだ。
 屋根が低くなった片隅にある、小瓶の並べられた棚や薬草壺、流水を形どったようなオイバザクラの杖、そして、漂泊民の住まいには似つかわしくない大きな書棚が、学院における住人の身分を物語っていた。

 赤銅色(しゃくどういろ)の長衣をまとった男が、火の入った炉の前でなにやら手鍋を揺すっている。(よわい)七十を過ぎるが、しなやかな立ち姿は褐色の肌と相まって、トルシャン特有の精悍(せいかん)さを感じさせた。
 伸びきっていない黒髪を、むりやりに後ろで束ねた娘が体を起こそうとしたのに気がつくと、男は待っていたように声をかけた。

「よく眠っておったな、ナージャ。具合はどうだ」
「……アトワーズ先生? わたしはリラです。ナージャさんは……えっと、この春に卒業したところです。また、名前を間違えましたね」
「ああ……、やってしまったか……師範ともあろう者が生徒の名を間違ってはいかんなあ」
 頭髪のない褐色の頭をぺしりと叩き、おどけて見せた。リラと名乗る黒髪の娘は、くすくす笑って指折り数え、開いた手を差し出した。
「はい。これでもう五度目になります」
「よく覚えておるな。さすがは賢者の弟子、見上げた記憶力だ」
 アトワーズと呼ばれた男は、トカゲを思わせる、ぎょろりと鋭い碧眼(へきがん)で、教え子の黒曜石(こくようせき)の瞳をまじまじと見入る。顔に何か書いてあるかのように(のぞ)き込まれたものだから、娘は照れくさそうにうつむいて初めの問いかけに答えた。
「えっと……、とてもいい気分です。午後の講義は……そう、わたし明日から、また、実習でチャタンに行くのだった。それで、先生にあいさつをするために(うかが)ったのでした」
 故郷における老師の小屋ほどではなくても、事あるごとにアトワーズの天幕を訪れていた。ぐっすり眠ってしまったことも一度や二度ではない。

「どうやら意識はしっかりしとるようだな。もう、頭痛はせんかな?」
 老人は確かめるように言うと、体をふたたび炉に向けた。
「え、頭痛ですか? はい、すっきりです。わたし、また疲れて眠っていたのですね」
 覆っていた毛布を膝まで下ろすと、娘は小さな肩をぶるっと震わせ、息を吐きかけた両手をこすり合わせた。ふたたび、季節の変わり目を告げる風が天幕を揺らす。咳き込むアトワーズの背中を、唇を噛みしめながら見つめた。
「外は強い風……、すごい音ですね。このぶんだと明日からは、うんと冷え込みます。わたしはいくら寒くても平気ですが……」
「おまえのふるさと、クルルはとうに雪景色だろう。このあたりにも、じき冬が来るから、ぼちぼちこの天幕はたたむべきかもしれん。言われんでもわかっとるのだが、硬い壁に囲まれて寝るのは、どうも落ち着かんのだ」
 アトワーズは寂しげに笑った。魔術師範の住居として、学院中央棟の尖塔(せんとう)に立派な一室があるにもかかわらず、流浪(るろう)の民トルシャンとしての縛られない生き方が抜けないため、敷地の一角に天幕を張って暮らしている。それでも冬のあいだは、体力の(おとろ)えを指摘する口うるさい教え子の勧めで、しかたなく、暖かい尖塔の中で暮らすことにしていた。

 娘は、膝の毛布をぎゅっと握り締めた。
「わたしは、小さな頃に寒さで祖父を亡くしています……。先生はこのごろ、お体を壊しやすいから……、風邪を引いてしまわれないか心配なのです」
 この数年で、アトワーズは床に伏せることがめっきりと増えていた。成長していく教え子とは対照的な肉体の衰えを感じているのだろうか、口を閉ざすのみだった。

 気を悪くさせては体に毒だと思い、娘は話題を変えようとあたりを見まわす。以前に訪れた時よりも天幕の中が整理され、広く感じられた。足元にある平たい香炉から、糸のような細い煙が立ちのぼっては、時折吹く風で揺らいでいる。強めの沈香の香り以外にも香ばしいものが漂っており、目をつぶると鼻から目一杯に吸い込んだ。
「いい香り。先ほどから香草を()っていらしたのですね。それで目が覚めました」
「おまえが目を覚ましたら、うまい茶を入れてやろうと用意しとったのだ」
「嬉しい! わたしもお手伝いします」

 足を勢いよく振り上げて跳ね起きると、長持に駆け寄って中から茶器一式を取り出した。炉に掛かる釜から湯をくんで茶杯を温める。
 アトワーズが細長い茶瓶に、煎ったばかりの香草を落とし込んで重しを置き、湯冷ましにあけて粗熱をとった湯をそそいだ。茶瓶の中をゆっくり対流させることで、ほどよく風味が抽出される。
 娘の故郷では、出来上がりを待つあいだに手遊び歌のひとつでも歌ったものだ。

「リラよ、いくつになった? おまえが泣きそうな顔で学院にやってきた日から、もうじき五年……、わしも歳をとるはずだ」
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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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