第七章 荒れ地の老人と天幕の記憶(1)
文字数 2,240文字
椅子に深く腰掛けたまま寝入っていたらしい。体は温かく、ひと足先に支度を済ませていたようだ。肩からかけられた肌触りのよい毛布が優しく頬に触れる。まどろんではいるが、寝覚めのよい朝を思わせる心地よさだった。
天幕は、荒れ地を渡り歩く
屋根が低くなった片隅にある、小瓶の並べられた棚や薬草壺、流水を形どったようなオイバザクラの杖、そして、漂泊民の住まいには似つかわしくない大きな書棚が、学院における住人の身分を物語っていた。
伸びきっていない黒髪を、むりやりに後ろで束ねた娘が体を起こそうとしたのに気がつくと、男は待っていたように声をかけた。
「よく眠っておったな、ナージャ。具合はどうだ」
「……アトワーズ先生? わたしはリラです。ナージャさんは……えっと、この春に卒業したところです。また、名前を間違えましたね」
「ああ……、やってしまったか……師範ともあろう者が生徒の名を間違ってはいかんなあ」
頭髪のない褐色の頭をぺしりと叩き、おどけて見せた。リラと名乗る黒髪の娘は、くすくす笑って指折り数え、開いた手を差し出した。
「はい。これでもう五度目になります」
「よく覚えておるな。さすがは賢者の弟子、見上げた記憶力だ」
アトワーズと呼ばれた男は、トカゲを思わせる、ぎょろりと鋭い
「えっと……、とてもいい気分です。午後の講義は……そう、わたし明日から、また、実習でチャタンに行くのだった。それで、先生にあいさつをするために
故郷における老師の小屋ほどではなくても、事あるごとにアトワーズの天幕を訪れていた。ぐっすり眠ってしまったことも一度や二度ではない。
「どうやら意識はしっかりしとるようだな。もう、頭痛はせんかな?」
老人は確かめるように言うと、体をふたたび炉に向けた。
「え、頭痛ですか? はい、すっきりです。わたし、また疲れて眠っていたのですね」
覆っていた毛布を膝まで下ろすと、娘は小さな肩をぶるっと震わせ、息を吐きかけた両手をこすり合わせた。ふたたび、季節の変わり目を告げる風が天幕を揺らす。咳き込むアトワーズの背中を、唇を噛みしめながら見つめた。
「外は強い風……、すごい音ですね。このぶんだと明日からは、うんと冷え込みます。わたしはいくら寒くても平気ですが……」
「おまえのふるさと、クルルはとうに雪景色だろう。このあたりにも、じき冬が来るから、ぼちぼちこの天幕はたたむべきかもしれん。言われんでもわかっとるのだが、硬い壁に囲まれて寝るのは、どうも落ち着かんのだ」
アトワーズは寂しげに笑った。魔術師範の住居として、学院中央棟の
娘は、膝の毛布をぎゅっと握り締めた。
「わたしは、小さな頃に寒さで祖父を亡くしています……。先生はこのごろ、お体を壊しやすいから……、風邪を引いてしまわれないか心配なのです」
この数年で、アトワーズは床に伏せることがめっきりと増えていた。成長していく教え子とは対照的な肉体の衰えを感じているのだろうか、口を閉ざすのみだった。
気を悪くさせては体に毒だと思い、娘は話題を変えようとあたりを見まわす。以前に訪れた時よりも天幕の中が整理され、広く感じられた。足元にある平たい香炉から、糸のような細い煙が立ちのぼっては、時折吹く風で揺らいでいる。強めの沈香の香り以外にも香ばしいものが漂っており、目をつぶると鼻から目一杯に吸い込んだ。
「いい香り。先ほどから香草を
「おまえが目を覚ましたら、うまい茶を入れてやろうと用意しとったのだ」
「嬉しい! わたしもお手伝いします」
足を勢いよく振り上げて跳ね起きると、長持に駆け寄って中から茶器一式を取り出した。炉に掛かる釜から湯をくんで茶杯を温める。
アトワーズが細長い茶瓶に、煎ったばかりの香草を落とし込んで重しを置き、湯冷ましにあけて粗熱をとった湯をそそいだ。茶瓶の中をゆっくり対流させることで、ほどよく風味が抽出される。
娘の故郷では、出来上がりを待つあいだに手遊び歌のひとつでも歌ったものだ。
「リラよ、いくつになった? おまえが泣きそうな顔で学院にやってきた日から、もうじき五年……、わしも歳をとるはずだ」