第三章 ジュナンとヴィルジット(1)

文字数 2,827文字

 薄暗い廊下の窓から見えるのは、紺鼠(こんねずみ)に染まる景色の中を回廊に沿い、点々と連なる常夜灯(じょうやとう)の光。学院の回廊以外にも、中央棟をはじめとするおもな施設、さらに町の大通りなどは、魔術の灯りに照らされて夜中でも闇に包まれることがない。

 部屋を出たリラは、大袋を提げて炊事場までやってきた。カンタベル学院に勤める者の多くは寮での暮らしを送っており、彼女もいくつかの設備をほかの住人たちと共同で使用している。
 空がいくぶん白んできたといっても、窓から差し込む光は頼りない。リラは頭上の(すす)けた(はり)に杖先を向けると、右手を添えて(ささや)いた。

 音も立てず、はかなく光る泡のようなものが次々に浮かび上がり、はじけて霧散しながら降りそそぐと、たちまち光が満たしていく。

 水瓶(みずがめ)が澄んだ水をたたえており、壁には鍋や鉄串の影が揺らいでいた。扉の奥と地下には貯蔵庫があって、夕食時には専属の調理人が腕を振るう。
 手早く支度を整え、備え付けのテーブルへ。どかっと椅子に座るとリラは、きめの細かなパンに切り落した塩漬け肉をのせ、勢いよく口に運んだ。すぐさま顔を真っ赤にすると、胸元を叩きながら水で流し込む。昨日は思いもよらぬ邪魔が入ったため、丸一日ぶりの食事となった。

 つぎに、貯蔵庫から干し肉や日持ちする黒パンをかき集めて大袋に詰め込んだ。外はいっそう白さを増し、空気の震えが活気を運ぶ。
 リラは、ぽんっと手を打った。
「よし決めた。こうなったからには、エルトランという人をとことん調べてやる。そうだな……まずは彼が勤めていた研究室を当たろう。何か手がかりになる話を聞けるはずだ」
 相手を探り先手を取る。盗まれた魔術書についても同様だ。空腹が満たされたとたん意気が高まってきた。
「得意な魔術はなんだろう。やっぱり異端研究が怪しい。あと、好みや癖も知りたいし、考え方だって私とはきっと違う」
 日頃より、(はる)か過去の歴史を相手に研究をしているのだから、得体の知れない魔術師にも迫れるはずだ。また、身分を隠しての調査は有利に働く。

「それにあの日、吹雪の中でエルトランを追いかけた人がいる、と噂されているけれど、いったい誰なのかな……。でも、よくよく考えてみれば、その人がしっかりしていないから、わたしがこんな目にあうんじゃないか。もし見つけたら絶対にとっちめてやる」
 無性に腹が立ってきた。リラは、ぶつぶつ(つぶや)きながら部屋に戻ると納戸(なんど)から荷物を引っ張り出した。

 丈夫さが売りの革の長靴(ちょうか)に、使い古されて擦り切れてはいるが、雨風を防ぐための外套(がいとう)と毛布、それと飲み水を入れる革袋。旅支度は手慣れたもの、とはいえ黒衣以外に持ち合わせがなく、魔術師であることを伏せろという指示をどうしたものか……。

 ウトロに至る道のひとつは、聖地ポロイヤートへの巡礼(じゅんれい)路でもある。いっそのこと巡礼者の列に紛れてしまおうかなどと、寝床に腰かけて天井を眺めていたところ、扉を打つ音が響いた。

 扉をあけると青白い顔がぬうっと覗くので、リラはあやうく跳び上がりそうになる。半年ほど前から雇われている初老の用務係で、生気の乏しい目には恨めしげな光をたたえていた。昨日の昼下がりに本部役員の遣いでやってきたのもこの男だったため、面識はなくても、そもそもの印象がよくない。

「リラさん、ネイドルさんからのお届け物ですよ」

 枯れ木のうろを抜ける風のような声だった。ネイドルとは、リラに指示を下した役員のうち、

恰幅(かっぷく)のよいほうを指すはずだ。
 うろ覚えなのは魔術の思考法を乱用し、わざと記憶を遮っているためで、〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と、脇にいた〈金切り声の丸眼鏡、くせ者〉ぐらいの認識しかない。昨日の執務室での件については、ひとつの整理もついていなかった。そういえば、追って詳細を伝える、と言われた気がしないでもない。

「あら、たしか……フルミドさん、でよかったかしら?」
 ふふふ、と男は笑う。手渡されたのは、まず、封書と明るい色調の衣服。つづいてリラは、布にくるまれた棒状のものを受け取るが、ずっしりと手首に加わる重さに驚いた。包みを解くと、鞘におさまった剣が姿をあらわにする。

「これは、なに……」
「……剣ですねえ、剣」
 リラは片頬が引きつるのを感じた。フルミドを見ると、油の切れたからくり人形のように首をかしげるばかり。
 ――大道芸をやれって言われた覚えなんてない。
 答えを探すように柄を握って引き出すと、磨き抜かれた剣身が黒曜石色(こくようせきいろ)の瞳を映す。飾り物ではなかった。

 いっぽうの衣服だが――こちらは剣士風のものだ。それを両手で広げたまま、リラは言葉を失った。しげしげと眺めていたフルミドは、そのうちに、どうしてか満足げな顔で帰っていった。
 封書には、ネイドルよりの指示書と、蝋引(ろうび)き紙の証書が入っていた。証書は、冒険者協会に所属する〈ヴィルジット〉という名の剣士であることを証明する内容だけれど、真偽はきわめて怪しいものだ。それから、見たくもない指示書には短く、こう書かれていた。
 機密の保護を最優先とせよ。任務のあいだは、身分を隠すために旅の剣士として振る舞うように。
「何よこれ! ふざけるのもいい加減にして!」
 震える手で指示書を破り捨てる衝動に駆られた。極秘調査に向けた変装なのに、わざわざ目立つ格好をする意味がわからない。リラは寝床に放り出された衣服をじっとりと睨みつけた。
「あの人たちは正気なの? もしかして本当のところ、わたしをここから追い出したいだけじゃないの」
 けれども、貴重な時間を無駄にはできない。彼らにしても、学院の一大事である以上は何か考えがあるのだ、と思いたかった。

 気を取り直すと、もういちど剣を手にして引き抜いた。細身に作られているため、片手でも十分に扱えそうだ。幼い頃、里を訪れた旅人にねだり、柄を握らせてもらったことが懐かしい。
 ただ、旅の荷物に加えて、これほど邪魔なものを所持していると、身振り手振りをともなう呪文の詠唱にとって妨げとなりかねない。

 つぎに、春草色(はるくさいろ)をした剣士の旅服に腕を通す。
「――これは……悪くない」
 肌に伝わる感覚に目を見張った。緻密(ちみつ)に織られた生地は、しなやかなうえ丈夫に出来ている。独特な縫い合わせ方は手足の自由を妨げることがない。さらに、詰め綿や当て布が施され、防具としても頼もしい。左側で交差する腰ベルトには剣を帯びることができるようだ。

 ともすれば愛用の黒衣よりも身軽に動けるかもしれない。それのみか剣士の出で立ちであれば、証書や偽名とも相まって事件に関わりやすくなる。
 送りつけてきた相手のことなど頭からとうに消えていた。

 ふと、姿見にちらりと目をやった。鏡面に映るのは、開いて立つ癖が抜けない行儀の悪い足、肩にも届かない黒髪に縁どられた、(うり)のような丸顔、そして、暗幕のような長衣に替わる、春草色の旅服。

 その姿に、四年前の旅で知り合った、勇敢な女剣士の記憶を重ね合わせていた。
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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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