第二章 帰る場所(4)
文字数 2,551文字
数千年の昔、人類は自らが引き起こした天変地異より逃れるために、母なる大地を捨て、未知の大海へと漕ぎ出した。伝説にうたわれるポロイの大船団だ。人々が苦難を乗り越えた末に新たな大地を踏みしめた時、そこではすでに、ゴブリンをはじめとした闇の
数百年に及ぶ人間との争いの果てに、彼らの多くは深い森や
魔物とは利益をもたらすことなく害をなす生物、と定義される。彼らは、それぞれが独自性をもつ生物にもかかわらず、人間への有益性のみで命の価値を定められていた。
古代国家における名高い魔術師であり、哲学者としても数多くの著書を残したカンプは、〈自然哲学〉においてつぎのように書き記す。
「この世のすべての命は、我々人類が、よりよく役立てていくために存在する。そこにこそ魔術の意義があるのではないか」
カンプは、あるがままの生命に価値を認めないばかりか、後年には有害な生物や種族の駆除、さらには浄化を高らかに唱えた。先鋭的な思想でもなんでもない。当時の人間社会を覆っていた、自然に対するありふれた認識だ。
自らの尊さを疑わない人間も恐ろしい魔物も、等しく自然の一部だという師の教えをかたくなに守るリラだが、同行者を守り、生き延びるために、ゴブリンの命をいとわず奪った。相反する選択には、これからも向き合っていくことになるだろう。
消えた賢者、ゼラコイは言う。
「太古の支配者たちが追い求めた魔術とは、すなわち力であるが、光の千年を
されど、現在も物事の本質は変わらない。魔術師が、より効率のよい魔術を求めて競い合う姿を、魔力の暴走により滅び去った古代王国の
リラの生まれた故郷は、気の遠くなるほど彼方にある山岳地帯。そこは、厳しい自然に囲まれた小さくて貧しい集落だ。
十歳の夏のことだった。ちょうど夏至を迎える頃、どこからやってきたのか、年老いた魔術師が外れに小屋を構えて住みついた。暮らしに役立つ技術を研究するのだという。
彼は、痩せた山肌にへばりついて暮らす人たちのため、魔術や知識を惜しみなく役立て、欠かせない存在となっていく。
冬に祖父を亡くしたばかりで寂しがっていたリラはよく
麦畑のように、こがね色に輝く幼い日の情景こそ、リラの原点だった。
「先生……ロウマン先生……」
自分の声に驚き我に返った。疲れていつの間にか眠っていたようだ。リラが目を覚ましたのは私室の寝床だった。
目をこすりながら明かり窓を見る。外は薄暗く、じきに夜が訪れるだろう。先ほどはひどく疲れていて、大事な研究資料の上だというのに行儀悪く顔を伏せたことを思いだす。――はっ! と気がつき跳ね起きた。なぜ自分の部屋で寝ているのだろう。ぼやけた頭で
研究室の机で眠ってしまったあと、仲間の研究員たちが戻ってきたのだ。夕暮れ時だったため、誰ともなく灯りの準備を始めたところ、薄暗い中、机にうつ伏せた人影を見つけて皆が驚く。
昼下がりの役員室への呼び出しを心配する彼らに、リラは力なく告げた。
「学院から……ある役目を言い渡されて、明後日には町を出なければいけないの……。大事な仕事を任されていたのに、仕上げられなくて、ごめんなさい」
それ以上を話すことは禁じられている。彼らは深くうなだれたリラの心境を察すると部屋まで送り届けてくれたのだった。
カンタベルでの立場が恵まれているとはいえないが、研究室には、リラに白い目を向ける者はいない。独学で魔術を身につけた学者や変わり者の室長、小心者の貴族など、年齢や生まれも違う多様な立場の者たちだ。
ここへの配属は、故郷の師であるロウマンとも親しい者の働きかけがあってのことだった。
リラは狭くて老朽化著しい〈第三・古代史研究室〉を気に入っていたし、彼らと一丸となって古代史に挑みつづける日々を愛していた。何も、山積みの発掘品や書物だけを友とするのではない。そこはリラの帰るべき場所だった。
「朝か……、あと一日」
故郷を遠く離れまでして魔術を学んだのは、人が生きていくための助けになりたい、という身の丈知らずな憧れからだ。ウトロ村におもむき、事件に悩む人々の支えとなる。それこそ、めざしてきたものではなかったか。
また、探求には危険がつきものだ。つい先月など、不用心なアマダ室長が、城館跡を守護する魔法仕掛けの石像群を作動させてしまい、命からがら逃げきったばかりだ。貴重な遺跡を荒らす盗掘師たちとは、これまでに何度も激しく争っており、今後もそれは変わらないだろう。
たとえ破れかぶれだったとしても、リラはのしかかるものを払いのけ、逃げずに立ち向かうための活力を取り戻せたのだった。
「どんな
そう思える力をくれたのは、いままでに出会った人たちだ。握り締めた手に力が入る。――と同時に、腹の虫が高らかに抗議した。昨日より何も口にしていないのだから当然だ。空腹になると、つい悲観的になるからいけない。
身支度もそこそこ、杖を片手に飛び出した。廊下の曲がり角で思いついたように足を止め、いったん戻ると、今度は丈夫な大袋をもういっぽうの手に、せわしなく部屋をあとにした。
第三章につづく