第二章 帰る場所(4)

文字数 2,551文字

   * * * 

 数千年の昔、人類は自らが引き起こした天変地異より逃れるために、母なる大地を捨て、未知の大海へと漕ぎ出した。伝説にうたわれるポロイの大船団だ。人々が苦難を乗り越えた末に新たな大地を踏みしめた時、そこではすでに、ゴブリンをはじめとした闇の眷族(けんぞく)と呼ばれる魔物たちが原始的な文明を営んでいた。

 数百年に及ぶ人間との争いの果てに、彼らの多くは深い森や辺境(へんきょう)の地へと追いやられていったが、その後も両者は絶えず衝突を繰り返してきた。
 僻地(へきち)の人々ほど魔物によって暮らしを脅かされているが、地震や疫病のようなものだと割り切るか、そうでなければ自衛の手立てを講じるしかない。小さな集落の場合は、リラが同行した戦いのように冒険者を雇い入れて解決を図ることが一般的だ。

 魔物とは利益をもたらすことなく害をなす生物、と定義される。彼らは、それぞれが独自性をもつ生物にもかかわらず、人間への有益性のみで命の価値を定められていた。
 古代国家における名高い魔術師であり、哲学者としても数多くの著書を残したカンプは、〈自然哲学〉においてつぎのように書き記す。
「この世のすべての命は、我々人類が、よりよく役立てていくために存在する。そこにこそ魔術の意義があるのではないか」
 カンプは、あるがままの生命に価値を認めないばかりか、後年には有害な生物や種族の駆除、さらには浄化を高らかに唱えた。先鋭的な思想でもなんでもない。当時の人間社会を覆っていた、自然に対するありふれた認識だ。

 自らの尊さを疑わない人間も恐ろしい魔物も、等しく自然の一部だという師の教えをかたくなに守るリラだが、同行者を守り、生き延びるために、ゴブリンの命をいとわず奪った。相反する選択には、これからも向き合っていくことになるだろう。

 消えた賢者、ゼラコイは言う。
「太古の支配者たちが追い求めた魔術とは、すなわち力であるが、光の千年を謳歌(おうか)した彼らの、悲惨な末路は言うに及ばない。いまを生きる我々が、愚かな(てつ)を踏む必要はないのだ」
 されど、現在も物事の本質は変わらない。魔術師が、より効率のよい魔術を求めて競い合う姿を、魔力の暴走により滅び去った古代王国の終焉(しゅうえん)になぞらえる者もいる。


 リラの生まれた故郷は、気の遠くなるほど彼方にある山岳地帯。そこは、厳しい自然に囲まれた小さくて貧しい集落だ。
 十歳の夏のことだった。ちょうど夏至を迎える頃、どこからやってきたのか、年老いた魔術師が外れに小屋を構えて住みついた。暮らしに役立つ技術を研究するのだという。
 彼は、痩せた山肌にへばりついて暮らす人たちのため、魔術や知識を惜しみなく役立て、欠かせない存在となっていく。
 冬に祖父を亡くしたばかりで寂しがっていたリラはよく(なつ)き、助手を気どっては、暇を見つけて研究小屋に入り浸っていた。そこで読み書きや歴史、薬草の調合、魔術の基礎に至るまで、さまざまなことを教わった。カンタベル学院で学ぶ道を示してくれたのが、その老魔術師だ。
 麦畑のように、こがね色に輝く幼い日の情景こそ、リラの原点だった。


「先生……ロウマン先生……」
 自分の声に驚き我に返った。疲れていつの間にか眠っていたようだ。リラが目を覚ましたのは私室の寝床だった。
 目をこすりながら明かり窓を見る。外は薄暗く、じきに夜が訪れるだろう。先ほどはひどく疲れていて、大事な研究資料の上だというのに行儀悪く顔を伏せたことを思いだす。――はっ! と気がつき跳ね起きた。なぜ自分の部屋で寝ているのだろう。ぼやけた頭で曖昧(あいまい)な記憶をたどった。

 研究室の机で眠ってしまったあと、仲間の研究員たちが戻ってきたのだ。夕暮れ時だったため、誰ともなく灯りの準備を始めたところ、薄暗い中、机にうつ伏せた人影を見つけて皆が驚く。
 昼下がりの役員室への呼び出しを心配する彼らに、リラは力なく告げた。
「学院から……ある役目を言い渡されて、明後日には町を出なければいけないの……。大事な仕事を任されていたのに、仕上げられなくて、ごめんなさい」
 それ以上を話すことは禁じられている。彼らは深くうなだれたリラの心境を察すると部屋まで送り届けてくれたのだった。

 カンタベルでの立場が恵まれているとはいえないが、研究室には、リラに白い目を向ける者はいない。独学で魔術を身につけた学者や変わり者の室長、小心者の貴族など、年齢や生まれも違う多様な立場の者たちだ。
 ここへの配属は、故郷の師であるロウマンとも親しい者の働きかけがあってのことだった。

 リラは狭くて老朽化著しい〈第三・古代史研究室〉を気に入っていたし、彼らと一丸となって古代史に挑みつづける日々を愛していた。何も、山積みの発掘品や書物だけを友とするのではない。そこはリラの帰るべき場所だった。

「朝か……、あと一日」
 (よい)の口ではなく、出発までに残された一日の始まりだ。立ち上がってみると体が軽い。状況はまるで好転しておらず、困難きわまりないが、リラをふたたび迷宮の闇へと引きずり込むようなことはしなかった。
 故郷を遠く離れまでして魔術を学んだのは、人が生きていくための助けになりたい、という身の丈知らずな憧れからだ。ウトロ村におもむき、事件に悩む人々の支えとなる。それこそ、めざしてきたものではなかったか。

 また、探求には危険がつきものだ。つい先月など、不用心なアマダ室長が、城館跡を守護する魔法仕掛けの石像群を作動させてしまい、命からがら逃げきったばかりだ。貴重な遺跡を荒らす盗掘師たちとは、これまでに何度も激しく争っており、今後もそれは変わらないだろう。
 たとえ破れかぶれだったとしても、リラはのしかかるものを払いのけ、逃げずに立ち向かうための活力を取り戻せたのだった。

「どんな窮地(きゅうち)だって乗り越えてみせる」
 そう思える力をくれたのは、いままでに出会った人たちだ。握り締めた手に力が入る。――と同時に、腹の虫が高らかに抗議した。昨日より何も口にしていないのだから当然だ。空腹になると、つい悲観的になるからいけない。

 身支度もそこそこ、杖を片手に飛び出した。廊下の曲がり角で思いついたように足を止め、いったん戻ると、今度は丈夫な大袋をもういっぽうの手に、せわしなく部屋をあとにした。


第三章につづく
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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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