第五章 アマダの研究室(3)
文字数 4,305文字
東地区の研究施設群において、ひときわ古ぼけた第十五研究棟は、この数十年のあいだ、絶えず傾きを増していた。
学院が命運を賭けて敷地を広げ始めたその昔、事業のついでに旧敷地より移築されたものにすぎなかった。いまにも倒壊しそうなたたずまいは、おもな施設の建築に人手を取られたあげく、大工が仕事を投げ出した
なれ
の果てだ。あばら家はそれでも、集う者たちの探求心で、いまにも膨れ上がりそうだった。
他の部門が逃げるように移転していったあと、ただひとつ残された〈第三・古代史研究室〉は、手狭なうえに散らかっていてほこりっぽい。空き部屋を物置きに使える点と、大きく切られた窓が十分な光をとり込む点に限っては、誰ひとり文句を言わなかった。
アマダは、ぼさぼさ頭を掻きまわしていた。
彼の大机を研究員たちが取り囲んでいた。広げられた図面を前に、腕を組んで首をかしげ、興奮と
書物に風を通すため、空き部屋に山積みとなっている資料を運び出していた時のこと。アマダは、ふと広げた図面が頭の片隅に引っかかり、そわそわと落ち着かないでいた。休息を挟んで見返したところ、ひとつの可能性に気がついて、集まった者たちと議論を交わしていたのだ。
「ところで、あれからリラの様子はどうなんだ? こんな時に不在だなんて……困るよなあ、まったく」
すこしばかり太った体を椅子に沈め、アマダは不満を口にした。ひざを打つような結論が出ないために話の目先を変えたのだ。言いつつ、卓上に伸ばした手が空をつかむ。
「さっき、あの子の部屋に行ったのだけれど留守だったわ。よほど出発の準備で忙しいのよ、鍵もかけずに出ていくなんて」
ひとりの研究員が答えた。昨夕、リラを寮の部屋まで送り届けたのが彼女だ。アマダと同じく、リラがカンタベルに来るより前から歴史研究に従事している。
「そうか……まあ元気そうで何よりだ。とはいえ、休憩中にあの
笑い声につづき、噂をすればなんとやら。扉を勢いよく開け放ち、息を切らせて飛び込んできたのはリラだ。数日後にアマダは
「ごめんなさい! 今日は書物の陰干しだっていうのに、まるで忘れていたわ」
自分の心配ばかりで、大事な仕事がすっぽり抜けていた。アマダが身を乗り出す。
「そんな事はどうでもいいから、早くこっちへ来てこれを見てみろ! たいへんなことになるぞ」
「ええっ!?」
待ち兼ねていたような室長の出迎えに驚いた。大きな眼鏡から
「いやいや、ちょっと待つんだアマダ君。彼女は大事な役目があると言っていただろう。いまはそれどころじゃないし、旅の準備だってあるはず。――たしか、出発は明日だったね」
長衣に身を包んだ年配の男が釘を刺す。リラに向けた口調は至って穏やかだ。そこへ女の研究員が割って入る。
「もう休んでいなくても大丈夫なのね! なんだか顔色もいいし安心したわ。昨日のあなたといったら、それは、見ていられないほどの弱りようだったのよ」
駆け寄ると、リラの両肩を揺さぶり、顔を覗き込んだ。
「ええ……、ええ、もう平気! 心配かけてごめんなさいベルカさん。それから、昨日は部屋まで送ってくれてありがとう。――そう、出発は明日の朝。町の東門から出る
それぞれに忙しく応じながら、アマダを囲む輪に入るが、棚に忘れ去られた香草茶器の一式を、ちらりと横目に捉えると、あからさまに顔をむくれさせた。
広げられたものは、遺跡群チャタンにある遺構の調査をもとに作成した見取り図だ。
「いまさらだが、これがどうも気になってな。なぜだかわかるか、リラ」
こういうときのアマダは、決まって答えを導き出している。課題を与えられたほうは、図面の前に立って真剣な表情を作った。
昨年のこと。研究室の面々は、活動費を工面するためにチャタンでの作業を請け負った。入り組んだ通路が地下深くに伸びる以外はたいした発見もなく、調査が打ち切られていた区画の再検証だ。
測量という地味な役目は、危険な生物との遭遇があった割に得たものはなく、手短に終わらせて学院へと引き上げたのだった。作成した図面には、石室や通路の寸法が詳細に記されている。
視線が集中するなか、リラは頭に描いた地下構造物の、ある階層と階層のあいだに妙な開きを見つけた。苦労して測ったのだから図面に狂いはない。
「わかった! 隠し部屋ね。いいえ、もっと大きなものだと思う」
言い当てて見せると、アマダは誰よりも喜んで手を打ち鳴らした。
「さすがは魔術師! そう、そうなんだ。おれたちの地道な活動が、いよいよ
リラは一本指で、得意気に鼻をこするが、きっかけを与えられていなければ疑問にも感じなかった。魔術の思考法を習得していないアマダが答えにたどり着けたのは驚きだ。けれども、その口調は芝居じみており「何かへんだな……」と不審な顔で、
男はあきれたように首を振り、おっとりと話した。
「明日から君が不在だというのに、アマダ君がすぐにでもチャタンに下りるなんて言いだしてねえ。いくらなんでも無謀すぎる。だからさ、我々で説得していたところなんだよ」
キャンタベリーの町から南西に半日、奇妙な真円を描く巨大な
そこには無数の遺跡がひしめいており、競い合うようにして立つ塔の高さもさることながら、地下に向けても木の根っこのように、深く複雑に伸びていた。
古代史を知るうえで不可欠な資料だけでなく財宝が眠っている可能性も高い。ただし、濃霧と密林に覆われた中心部へ行くほど、恐ろしい魔獣と出くわす危険が増すため、いまだ全貌はあきらかにされていなかった。
「でも、ちょうどよかった。君からも何か言ってやっておくれよ。わたしだって本当は、行きたい気持ちがやまやまなんだけどねえ」
問題の遺跡はチャタンの円環近くにあり、調査のあとは人の手で管理されている。それでも安全と言い切れないのは、隠し部屋が、侵入者を排除する罠や強力な番人に守られている可能性が高いからだ。足を踏み入れるには魔術に長けた者、それも実戦経験の豊富な者が欠かせない。
研究は、
突然、リラが図面に両手を突く。目を伏せるが、すぐさま
「ちょっと待って、わたしも行く! いつ戻ってこられるか分からないけれど……こんな機会めったとないのだから。それに――」
アマダを睨むと、たくらみ顔で声を低くした。
「――今回もどんなに怖い魔物がいるかわからないわよ。魔術師がひとりでも多いほうが安心でしょ?」
つい先月の探索では、あわや大惨事。安全と認定されたはずの
魔術に
「やはり、そうくると思ったよ。よし、わかった。リラが役目から戻るのを待つとしよう。また、君の力を頼ることになりそうだ」
「やった! ありがとうアマダさん」
両手を合わせて跳びはねそうになるリラの横では、はしゃぐ子を見守る親のような顔で、年配の魔術師がため息を漏らした。
「やれやれ……、命拾いしたよ。またあんなのが襲ってきたら、わたしなんかの魔術じゃあ、どうしようもないからねえ」
アマダが思いとどまったことで胸を
ただし、温和な人柄とも相まって、戦いにはとんと向いていない。
リラの帰りを待ってチャタンに出発する。当面の方針が決まると、他の者が口々に話し始めた。
「この遺跡はもともと王族の
「もしもだ……、黄金都市の手がかりを見つけることができたら大発見じゃないか!」
「いやいや、あんなもの、根も葉もない噂だろう。いまとなっては誰も信じちゃいないさ。それでも、財宝を探し当てたとしたら、おれたちは大金持ちだな」
見つかったものはすべて研究資料となるため、盗み取ることは禁じられている。若い彼らは冗談で言うが、チャタン周辺には、遺跡からの
卓越した盗掘技能をもつ住人たちは、盗品を古物商に売りさばいてしまい、貴金属の細工に至ってはすべて溶かしてしまうため、研究者たちとのいさかいが絶えない。
リラは両手を腰に、真面目くさって口を挟んだ。
「黄金は尊いものだから、独り占めしたり身に着けたりすること、それから、奪い合うことだって山の神はお望みにならない、っていうのが故郷での教えよ」
永遠に色あせない、こがね色の輝きは、人間の
「そらきた、またリラの小言が始まったぞ」
若い研究員たちが肩をすぼめ、くつくつと笑い合った。言動には細心の注意を払っている、とリラは主張するけれど、周囲の見解が一致するとは限らない。
「もう、
足を開いて指を突き出す。
「――わたしがいないのをいいことに、香草茶だって飲んでいない!」