「まだこんな所にいやがったのか、この……、ろくすっぽ字も読めん田舎者めが!」
震える手で杖を突き出されると、リラは身構えるどころか口に手をやり、くすくすと笑う。
「お久しぶりね、ブルニさん。いつから中央棟の配属になったの? それから、あなたに読み書きを教えてあげた女の子のことなんて、とっくの昔にお忘れかしら?」
ブルニと呼ばれた片目の老人は、庭園で働く
庭師たちと同じく、負傷兵の保護制度によって雇われていた。過去のいくさでは、よほどの目にあったのか、他人と打ち解けようとはしない。昼夜を分かたず酒気を帯びているのは、それを忘れんがためだろう。
「ふん、とっとと荷物をまとめて山奥にすっこんでしまえ。
駱馬の乳でも
搾っておればええのに、いったいなんの用だ」
「あら、何も知らないのね。クルルの里では駱馬の乳搾りなんて誰もやらないわ。だって、搾ったところで、ちっとも出ないんですもの。……でもありがとう。わたしを心配してくれているのね」
カンタベルで暮らし始めた頃のリラには、魚料理以外にも、いくつかの怖いものがあった。ひとつは厨房の恐ろしい調理人、もうひとつが学生寮の
守衛を務めていたこの男だ。子供嫌いで、だれかれ構わず
憎まれ口を叩き、消灯の時刻を過ぎてうろつく生徒を見つけては杖で
小突きまわすものだから、酔いどれの老人に近寄ろうとする者はいなかった。
深夜、学生寮の廊下でばったり出くわしたリラを、ブルニは、ほんの気まぐれから見逃してやったことがある。酒を切らしてしまったブルニが眠れずに困っていると、今度は、リラが食料庫からこっそりと
拝借したヌルイカ酒を差し入れた。字が読めず、陰で笑いものにされていたブルニに読み書きを教えたのもリラだ。
昼間から
酒瓶を提げた姿を見かけても、彼女はとやかく言わなかった。
「もしも仕事がうまくいったら、いちど里へ帰れるかもしれなくて……。そのために必要なことを調べにきたの」
ブルニは右目を丸くして、淀んだ息を吹き出すと、顔をしかめてそっぽを向いた。
「なんだ……そうか。おまえには、そっちのほうがええだろう。これ以上つまらん話を聞かされたら酒がまずうなるわい。もうわかったから、早うあっちへ行ってしまえ!」
リラは、杖で小突かれるまま抵抗もせず、振り返り気味に言い残す。
「そうだ! いま、すこしだけお金持ちなの。きっと、近いうちに差し入れするから楽しみに待っていて」
「馬鹿たれ! そんな金、どうせまた、
ろく
でもないもんに決まっておるわ!」
「あと、お願いだから初等部の生徒には乱暴しないでね」
「ふん、どの口が抜かしおる。おまえなんぞがわしに言えた義理か、この悪童め!」
毒突く声を背に入口をくぐる。視界が開けた所は、壁に沿って二段に渡された
架け
床通路の真下だ。円形空間の壁一面が書物で埋められた光景は、初見でなくても息を
呑む。
頭上をめぐる架け床は中央で円状に交わり、空いた中心には巨大な
天球儀が吊り下げられている。アーチ構造で支えられた天井には、英雄ポロイの
叙事詩が淡い色彩によって描かれ、高窓から差し込む光で明け方の空のように照らし出されていた。
書架の列は侵入者を
拒むように入り組んで、迷わず
文献を探すにはコツがいる。また、書架はどれも背が高く、移動式のはしごが欠かせない。リラの真上では、長衣の男が浮遊術で宙に浮かびながら、高所に手を伸ばしていた。
広げた巻物を囲んで議論を白熱させる一団がいるため、静けさとは程遠い。
閲覧台の下には、
喧騒などお構いなしにあくびをする数匹の猫が見える。彼らは書架の上や、柱に巻きついた
螺旋階段にも、はばかることなく陣取るが、それを追い払おうとする者は見られない。
書物にとって
厄介なのは湿気や盗難ではなかった。製本に使われる
糊に引きつけられ、本をかじりに集まる
鼠だ。カンタベル設立以来、司書たちのいかなる手立てをもくぐり抜けてきた鼠に対しては、のちに賢者と称される若者が数匹の猫を閲覧室に放すまで、打つ手なしとされていた。
猫は古来、人間の暮らしに
馴染んできたため、魔術との相性もよいとされる。学院では研究目的の飼育――猫をいくさに駆り出すための魔術まで研究されていた――だったが、天職を得た彼らは技能をいかんなく発揮し、日がな一日寝ていても、うるさく言われずに過ごせる生活を手に入れた。
現在、通風孔から気ままに出入りするうちに、市場や船着き場、旧敷地など、至る所で
眷属を増やしては
街猫や廃墟猫と化している。
閲覧室が焼け落ちて
瓦礫の山となったのは二百年近く前のことだ。当時、世の中はいくさに明け暮れており、戦火は発足して間もない学院をも呑み込んだ。魔術師たちは、燃え上がる書物の山が
灰塵と
帰していく光景を前に、ただ立ち尽くすしかなかったという。
無力さを痛感した者たちによる
研鑽は、強力な攻撃呪文の発見や、のちの戦乱で魔術が大きな役割を果たす
礎となった。
学院の発展とともに閲覧室の規模も拡大した現在、
蔵書の数は十万冊ともいわれる。分野は多岐にわたり、各部門の研究記録や魔法学、神学、医学はもちろん、地学、天文学、海洋学等々……
枚挙にいとまがない。
いっぽうで、現場において熟練技術が受け継がれていくような分野では、学問としての系統立てが遅れているために、わずかな書籍が収まるのみだ。
リラを挟んでは、
疫学や史学の書架がそびえるように並ぶ。通い慣れた場所なので迷うはずもないが、書棚の角から
ふい
と現れた人影に身を硬くした。
紫紺色の長衣をまとう、目を引くほど明るい髪の若い男だ。
携える杖は立派なものだが、中ほどにある補修の跡が痛々しい。リラに気づくと視線をそらし、すれ違いざまに言い残した。
「おれは
家督の継承権を失った。きさまのおかげで人生は台無しだ……。あの日の屈辱、忘れたわけではないぞ」
リラも忘れようがない十六歳の秋。いちどだけ、親友のためと思い自ら決闘を申し込んだことがある。ところが旧敷地で待ち構えていたのはふたり、卑怯にも背後を突いて攻撃呪文を放ってくるような相手だった。
不意打ちを仕掛けたにもかかわらず、〈山の娘〉に無様な敗北を喫し、今日に至るまで
嘲笑の的となってしまったが、彼にすればどんな手段を用いてでも負けられない立場だったのだ。
――ひとりじゃ何もできやしないくせに! 優しかったフローデルは、あなたのせいで学院からいなくなったんだ。
リラは親友の無念を晴らすべく、相手が名門貴族の子弟であることなどお構いなしに、決闘による報復をしたのだった。月日は流れても、歩み寄る気になれるわけがない。
そういえば、決闘に明け暮れていた頃、体中に傷をこしらえたまま、この閲覧室に足を運んだのはなぜだったのだろう……。リラは思いだそうとするが、どういうわけか、思考は途切れるばかりだった。