第八章 うごめく者たち(2)

文字数 2,785文字

「まだこんな所にいやがったのか、この……、ろくすっぽ字も読めん田舎者めが!」
 震える手で杖を突き出されると、リラは身構えるどころか口に手をやり、くすくすと笑う。
「お久しぶりね、ブルニさん。いつから中央棟の配属になったの? それから、あなたに読み書きを教えてあげた女の子のことなんて、とっくの昔にお忘れかしら?」

 ブルニと呼ばれた片目の老人は、庭園で働く庭師(にわし)たちと同じく、負傷兵の保護制度によって雇われていた。過去のいくさでは、よほどの目にあったのか、他人と打ち解けようとはしない。昼夜を分かたず酒気を帯びているのは、それを忘れんがためだろう。
「ふん、とっとと荷物をまとめて山奥にすっこんでしまえ。駱馬(リャマ)の乳でも(しぼ)っておればええのに、いったいなんの用だ」
「あら、何も知らないのね。クルルの里では駱馬の乳搾りなんて誰もやらないわ。だって、搾ったところで、ちっとも出ないんですもの。……でもありがとう。わたしを心配してくれているのね」

 カンタベルで暮らし始めた頃のリラには、魚料理以外にも、いくつかの怖いものがあった。ひとつは厨房の恐ろしい調理人、もうひとつが学生寮の守衛(しゅえい)を務めていたこの男だ。子供嫌いで、だれかれ構わず(にく)まれ口を叩き、消灯の時刻を過ぎてうろつく生徒を見つけては杖で小突(こづ)きまわすものだから、酔いどれの老人に近寄ろうとする者はいなかった。

 深夜、学生寮の廊下でばったり出くわしたリラを、ブルニは、ほんの気まぐれから見逃してやったことがある。酒を切らしてしまったブルニが眠れずに困っていると、今度は、リラが食料庫からこっそりと拝借(はいしゃく)したヌルイカ酒を差し入れた。字が読めず、陰で笑いものにされていたブルニに読み書きを教えたのもリラだ。
 昼間から酒瓶(さかびん)を提げた姿を見かけても、彼女はとやかく言わなかった。

「もしも仕事がうまくいったら、いちど里へ帰れるかもしれなくて……。そのために必要なことを調べにきたの」
 ブルニは右目を丸くして、淀んだ息を吹き出すと、顔をしかめてそっぽを向いた。
「なんだ……そうか。おまえには、そっちのほうがええだろう。これ以上つまらん話を聞かされたら酒がまずうなるわい。もうわかったから、早うあっちへ行ってしまえ!」
 リラは、杖で小突かれるまま抵抗もせず、振り返り気味に言い残す。
「そうだ! いま、すこしだけお金持ちなの。きっと、近いうちに差し入れするから楽しみに待っていて」
「馬鹿たれ! そんな金、どうせまた、

でもないもんに決まっておるわ!」
「あと、お願いだから初等部の生徒には乱暴しないでね」
「ふん、どの口が抜かしおる。おまえなんぞがわしに言えた義理か、この悪童め!」

 毒突く声を背に入口をくぐる。視界が開けた所は、壁に沿って二段に渡された()床通路(ゆかつうろ)の真下だ。円形空間の壁一面が書物で埋められた光景は、初見でなくても息を()む。
 頭上をめぐる架け床は中央で円状に交わり、空いた中心には巨大な天球儀(てんきゅうぎ)が吊り下げられている。アーチ構造で支えられた天井には、英雄ポロイの叙事詩(じょじし)が淡い色彩によって描かれ、高窓から差し込む光で明け方の空のように照らし出されていた。

 書架(しょか)の列は侵入者を(こば)むように入り組んで、迷わず文献(ぶんけん)を探すにはコツがいる。また、書架はどれも背が高く、移動式のはしごが欠かせない。リラの真上では、長衣の男が浮遊術で宙に浮かびながら、高所に手を伸ばしていた。

 広げた巻物を囲んで議論を白熱させる一団がいるため、静けさとは程遠い。閲覧台(えつらんだい)の下には、喧騒(けんそう)などお構いなしにあくびをする数匹の猫が見える。彼らは書架の上や、柱に巻きついた螺旋(らせん)階段にも、はばかることなく陣取るが、それを追い払おうとする者は見られない。

 書物にとって厄介(やっかい)なのは湿気や盗難ではなかった。製本に使われる(のり)に引きつけられ、本をかじりに集まる(ねずみ)だ。カンタベル設立以来、司書たちのいかなる手立てをもくぐり抜けてきた鼠に対しては、のちに賢者と称される若者が数匹の猫を閲覧室に放すまで、打つ手なしとされていた。
 猫は古来、人間の暮らしに馴染(なじ)んできたため、魔術との相性もよいとされる。学院では研究目的の飼育――猫をいくさに駆り出すための魔術まで研究されていた――だったが、天職を得た彼らは技能をいかんなく発揮し、日がな一日寝ていても、うるさく言われずに過ごせる生活を手に入れた。
 現在、通風孔から気ままに出入りするうちに、市場や船着き場、旧敷地など、至る所で眷属(けんぞく)を増やしては街猫(まちねこ)や廃墟猫と化している。

 閲覧室が焼け落ちて瓦礫(がれき)の山となったのは二百年近く前のことだ。当時、世の中はいくさに明け暮れており、戦火は発足して間もない学院をも呑み込んだ。魔術師たちは、燃え上がる書物の山が灰塵(かいじん)()していく光景を前に、ただ立ち尽くすしかなかったという。
 無力さを痛感した者たちによる研鑽(けんさん)は、強力な攻撃呪文の発見や、のちの戦乱で魔術が大きな役割を果たす(いしずえ)となった。

 学院の発展とともに閲覧室の規模も拡大した現在、蔵書(ぞうしょ)の数は十万冊ともいわれる。分野は多岐にわたり、各部門の研究記録や魔法学、神学、医学はもちろん、地学、天文学、海洋学等々……枚挙(まいきょ)にいとまがない。
 いっぽうで、現場において熟練技術が受け継がれていくような分野では、学問としての系統立てが遅れているために、わずかな書籍が収まるのみだ。

 リラを挟んでは、疫学(えきがく)や史学の書架がそびえるように並ぶ。通い慣れた場所なので迷うはずもないが、書棚の角から

と現れた人影に身を硬くした。
 紫紺色(しこんいろ)の長衣をまとう、目を引くほど明るい髪の若い男だ。(たずさ)える杖は立派なものだが、中ほどにある補修の跡が痛々しい。リラに気づくと視線をそらし、すれ違いざまに言い残した。
「おれは家督(かとく)の継承権を失った。きさまのおかげで人生は台無しだ……。あの日の屈辱、忘れたわけではないぞ」

 リラも忘れようがない十六歳の秋。いちどだけ、親友のためと思い自ら決闘を申し込んだことがある。ところが旧敷地で待ち構えていたのはふたり、卑怯にも背後を突いて攻撃呪文を放ってくるような相手だった。
 不意打ちを仕掛けたにもかかわらず、〈山の娘〉に無様な敗北を喫し、今日に至るまで嘲笑(ちょうしょう)の的となってしまったが、彼にすればどんな手段を用いてでも負けられない立場だったのだ。
 ――ひとりじゃ何もできやしないくせに! 優しかったフローデルは、あなたのせいで学院からいなくなったんだ。
 リラは親友の無念を晴らすべく、相手が名門貴族の子弟であることなどお構いなしに、決闘による報復をしたのだった。月日は流れても、歩み寄る気になれるわけがない。

 そういえば、決闘に明け暮れていた頃、体中に傷をこしらえたまま、この閲覧室に足を運んだのはなぜだったのだろう……。リラは思いだそうとするが、どういうわけか、思考は途切れるばかりだった。
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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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