第四章 奔走(1)
文字数 3,745文字
扉を押しあけたとたん、けたたましい声がリラの
待ち伏せていたのは痩せた長衣姿の男だ。流木のような腕で杖を突き出すが、
リラは思わず肩をすぼめたけれど、取り乱しては訪れた目的を果たせない。耳にやろうとした手を下ろし、何食わぬ顔で用件を切り出そうとしたところ、出し抜けに男の手が伸びてきて首根っこをつかまれてしまう。
「ふん、なにやつかと思えば薄汚い〈山の娘〉ではないか!」
「痛い! いきなり何するの、離してよ!」
払いのけようとするが、
男が突き飛ばすように手を放す。よろめきながらも踏みとどまれたのは、険しい山道を走り回って身についた敏捷性あってのことだ。
そこは、天井が高く設けられた広大な研究室の中央だった。
「ここは、きさまごとき
退路を断つように杖を構える男は、「お見通しだ」とでも言いたげだが、察するに、侵入者を感知する魔術を用いたのだ。取り囲む者たちの視線にはあきらかな敵意が混じっている。業務を邪魔されたから、ではなさそうだ。
リラは無言で襟を整え、わざとらしく
「あなたのような下っ端じゃ、てんで話にならない」
男が目を見開き、それまでのしたり顔を小刻みに震わせ始めた。声を張り上げようとした瞬間、出鼻をくじくようにリラは言い放つ。
「逃亡者エルトランはここにいたのね! あの事件についてお尋ねしたいのだけれど、よろしい?」
今度は、遠巻きに様子をうかがう者たちの耳にも届いた。
* * *
フルミドが去ったあと、リラはエルトランの所属していた研究室と、彼の居室を訪れるため、西の区画へと向かった。
明日からの任務において首尾よくエルトランを探し当てた先には、魔術の応酬による戦いが待ち構えている。訓練や、作法に従った決闘ではなく、真剣勝負による命のやりとりだ。
リラは定められたことのように受け止めていたが、根っからの研究者である彼女は、運命なんて不確かなものに未来をゆだねる気など、さらさらなかった。無事に生きて帰る方法を模索するためだった。
「彼の性格や
新しい研究対象――と呼ぶにはいささか深刻ではあるが――を思い、ぶつぶつと呟きながら回廊を急ぐ。慎重派を自称するリラは、出発までにエルトランの人となりを捉えておくつもりだった。
また、会いたい人がいるし、
彼女は残された時間を「忙しい、忙しい……」とこぼしながら学院中を走り回る事となる。
右手は回廊の内側にあたり、植え込みや水路からなる庭園が広がっていた。その向こうにある北の区画には、本部中央棟をはじめとして学生寮や学舎が立ち並ぶ。対する南側には従事者の居住区や研究施設群があった。
振り返ると日はすでに高い。学生たちは講義の最中だ。ふと、廃屋だなんだと
「いまごろきっと朝の休憩中で、みんなして香草茶でも飲んでいるんだろう」
昨夕、
それはそうと、彼女には思い違いがある。「風味よし、体によし」と同僚たちに勧める香草茶だが、あとを引く苦味のため、出されるたびに誰もが
幾人かの研究員や年老いた庭師たち、運搬作業を補助する、魔法仕掛けの
数十年前の戦乱では、重傷を負ったことにより仕事を失った兵士たちや、家族を亡くした者たちが、生活の基盤を失ったり、野盗と化したりする問題が起きたため、国は対策として彼らを保護的に雇用する制度を設けた。ここでも大勢が庭師をはじめ、守衛や用務係として従事している。
木立の広がる左手には、杉の木ほどの高さをもつ円塔がまばらに立っていた。有力な魔術師が、ひとり、研究と向き合うために建てたものだが、人との交わりを拒む
一介の魔術師のなかにも閉鎖的気質の者がいて、ときに、机を並べる者同士が互いの研究内容を知らない、といった
リラの思い描くエルトランもこのような人物だが、わずかな知識での憶測はやめるべきだろう。ついさっきフルミドに諭されたばかりだ。
故郷の老師も口癖のように言っていた。
「リラよ、決して結論を急がず、山道を行くように人生を歩みなさい」
いつも意気込んでは気持ちばかりはやる少女に、温かい手のひらを振って見せ、ひげを優しく揺らしたものだ。
前方に目をやると、古い
その向こう側は旧学院敷地と呼ばれる廃墟で、いくつもの建造物が
学院を中心に興ったキャンタベリーの町が、経済都市へと成長するために拡大をつづけた結果であった。都市計画から取り残されて数十年、西の端にて、ひっそりと往時の姿をとどめているのだ。
攻撃魔術によって倒壊した壁や引きはがされた敷石、そして、決闘の舞台となった高屋根の
エルトランが失踪の直前まで夜な夜な出入りしていた、と用務係のフルミドは言う。おそらく、鉄柵をくぐり侵入したのだろう。ただ、旧敷地は広大で、時間もなく、条例を破っての侵入は許されないため、調査はあきらめるしかなかった。
とはいえ、手がかりのなかった話も、フルミドのおかげでエルトランの長衣の裾ぐらいはつかめそうだ。気がかりなのは彼らの関係だった。
「ひどい目にあったのに『あの方を恨んではいないですよ』って言っていたなあ……。確かに、あそこへ侵入していたエルトランを訴えてもおかしくないのに、そうはしなかった」
何か複雑な事情を感じるが、これでよかったのだと自分に言い聞かせた。
石畳の道は起伏をともない北へ弧を描く。上りきった木陰で足を止めると、リラは
学院が命運を賭けて敷地を広げたその昔、中央棟の移築をあとに回してまで工事が進められたという。随所の装飾が貴族建築のような優雅さではなく、重々しい凄味を漂わせていた。目的地は目の前だ。
開かれた鉄門の向こうに人影はないようだが、門番代わりの土人形が数体、ぎこちない歩みで前庭を行き来しているのが見える。単純な運搬作業に使役される魔法仕掛けの偶人だが、自律した能力を与える魔法構文は失われたままで、ここでは
頭上では一羽の
チャタンで切り出される黒い石を積み上げた外壁は、まるで難攻不落の城塞で、窓には多数の弓が侵入者に矢を浴びせかけようと構えられている気がしてならない。
ありもしない錯覚を振り払うと鉄門を突っきった。まとわりつくような気配はその前から感じていた。
足を踏み入れた所は天井を高く設けたロビーだ。奥の暗がりにいた魔術師たちが、ぼそぼそした談話を中断すると、訪問者に無関心な目を向ける。リラがつくり笑顔で通り過ぎたところ、背後でふたたび声がした。背中に視線を感じるため、うろうろと怪しい行動もとれなくなった。
息が詰まりそうな通路を進み、数ある研究部門のなかから〈高位魔術研究室〉と銅板のかかった入口を見つける。リラは扉を打つ手を止めた。門前払いを食らうことも考えられるからだ。
「ここの人たちもエルトランのせいで迷惑を受けているのだから、調査にだって協力的なはず。きっと話のわかる人たちだ」
覚悟を決めて扉を押しあけたとたん、待ち伏せていた魔術師に手荒い出迎えを受けたため、はずみで裏切り者エルトランの名を叩きつけてしまった、というしだいである。