第六章 マレッタの重すぎる課題(1)

文字数 2,507文字

 マレッタ・トウヤは緋色(ひいろ)の髪が張りついた(ひたい)を拭う。たくし上げた袖からは引き締まった腕が誇らしげに伸びていた。
 食堂に居座って談笑していた学生の一団が、午後の講義へ引き上げていく姿を見送ると、ふうっと息をつく。彼女の一日は今日も順調に過ぎていこうとしていた。

 近頃の若い者は魚が苦手だの、豆のスープやキノコを残すだの、好き嫌いが多くていけない。そんな学生の偏食をしかりつつも、食べやすく味付けを変えた品を特別に出してやる。
 また、多感な年頃である彼らは大人が思うより複雑な悩みを抱えているものだ。マレッタは多忙な(かたわ)ら、毎日のように学業や恋愛の話も聞いてやらなければならなかった。
 そうしながら新しい献立を考え、食材を発注するための指示を行う。かれこれ二十年以上を、こうして学院に勤めてきた。

 厨房の裏口から差し込む光を何者かが遮った。食料庫の管理を任されるチャドリが、のっそりと大きな体を入れてきたのだ。常ならば、つまみ食いに訪れてマレッタたちに追い返されるのだが、厨房はいま、あと片づけでごった返している。おこぼれなど、ありつけるはずもない。
 調理人たちはつっけんどんに追いやろうとしたけれど、なにやらマレッタに用事らしい。チャドリから何事かを告げられた彼女は、すこしのあいだ腕を組んでいたが、あとを若い者に任せると小走りに裏口を出た。

 食料庫まで来て呆然(ぼうぜん)とする。昼過ぎには、いつも決まって到着するはずの食材が半分も届いていないのだ。このままだと明日の昼、何百人という育ち盛りの学生たちを満足に食べさせることができない。
「見ての通りでさァ……、どう考えても足りねえ」
 追いついたチャドリは、説明するのも(わずら)わしそうに上役を見ると、荷車の上、申しわけ程度に積まれた木箱をふたつ軽々と持ち上げ、空きが目立つ棚へと運びにかかる。
「こりゃあたいへんだよ、いったい何があったんだい? 見ればフランパーナからの船荷がひとつもないね」

 マレッタも水梨(みずなし)(あんず)、ホダ芋がぎっしり詰まった重い木箱をひょいと持ち上げ、チャドリに手渡していく。家柄を鼻にかけるような学生も彼女の前では小さくなるのだった。
 見当たらない荷物は、港町フランパーナから川を経由して届くはずの塩や香辛料、魚の塩漬けだ。悪天候で船が出ないときには陸路を使い、遅れて到着する場合もあるが、このところは至って晴天つづきだった。

「船着き場のやつらが言うには、出たらしいですぜ、海賊が……」
「海賊? 今日び珍しくないかい。でも、なんだって海賊なんかが、うちらの仕入れと関係あんのさ。どうも納得いかないねえ」
 マレッタは片方の眉を吊り上げ、いぶかしむ。いくら海賊が出たといっても海路を運ばれてくるほどの食材はなく、仕入れにはなんら影響がないはずだ。

 木箱をしまい終えたチャドリは、ホダ芋を一つひとつ手に取って吟味しながら答えた。
「それが、どうやら海賊はシューリール川――」
「――なるほど、それでこちら側の船乗りたちも、こぞって怖気(おじけ)づいちまったってわけだ」
「……そのようでさァ」
 海賊行為による被害が出ているのは、ずっと東の山中からポウトリ湖を経て、フランパーナへとそそぐシューリール川だが、噂が広まったために、キャンタベリーとフランパーナ間の輸送にまで支障を及ぼしているのだった。

「チャドリ、ちょいと学生寮をまわって厨房の倉庫を調べておくれ。この調子じゃ夕食だってどうなることやら」
「へェ」
 数日もすれば陸路での輸送が活発になり、物資の供給も元通りになるだろうが、それまで手をこまねいてはいられない。
「それと、いますぐ人を(つの)ってちょうだい。足りないものは市場まで直接買いつけに行くよ!」
「へェ」


 厨房に戻ったマレッタは、よく響く声で調理人たちに状況を伝え、市場へ買いつけに出るための指示を与えた。大急ぎで食堂の長机を拭いていると、廊下から騒がしい声が聞こえてきたので、ふと顔を上げる。屋外での訓練に向け、学生たちが慌ただしく出かけていくところだった。

 その喧騒(けんそう)の中、ひとり、ぽつんとたたずむ姿に気がついた。墨染(すみぞ)め色の長衣に、魔術師のものとしては若干短い、古びた琥珀色(こはくいろ)の杖を抱え、足を開いて立っている。

「あんれ!? リラじゃないかい、今日は珍しいことばっかりだ」
 前掛けで手を拭きながら駆け寄った。互いに抱擁(ほうよう)を交わすが、片方はすこし苦しそうだ。
「あんた、大きくなったねえ」
「会うたびにそればっかり……、マレッタ。半年ぶりよ」
「わはは、よく来てくれたね。ちょいとバタバタしてるけど、まあ、その辺にでもかけとくれ」

 マレッタは来客の背中を押して食堂内にまねき入れた。リラは厨房に目をやると申しわけなさそうにする。
「ごめんなさい、たいへんな時に来てしまって……。やっぱりわたし、帰ったほうがいいみたい」
 学舎の大食堂まで、二十も歳の離れた友人を訪ねて来たのだけれど、いつになく慌ただしい空気に、声をかけてよいものか迷っていたのだ。

「なんてことはないよ。わけあって仕入れがうまくいかなくてねえ。このあと、みんなして市場へ買い出しさ!」
 自慢げに腕を見せ、ぽんと叩く。
「やっぱり忙しいのね、仕事の邪魔をするといけないから……」
 リラは断ろうとして手のひらを向けた。赤くなった手を見たマレッタは、「ふうん」と肩をすぼめて苦笑い。
「あんたが来たってことは、また悩み事か問題を抱えているんだろ? どうしてわかったのって顔してるねえ、まったく。ふだんは顔も出しやしないくせに」
 おとなしく(すす)められるままリラは、座席にすとんと腰を落とす。

「その手だって、どうしたのさ、マメなんかこさえちゃって。ひさしぶりに喧嘩(けんか)でもしたのかい」
「あはは、いろいろとありすぎて……」
 慌てて袖に手を引っ込めた。研究室を出たあとのこと、午睡(ごすい)の場所と決めている、人目につかない木立の中、剣の稽古(けいこ)に力が入りすぎたようだ。
「そりゃあ、いろいろあるさ。あんた若いんだもの、なおさらだ」
「えっと、何から話そうかな」
 ゆっくりでいいから話してごらん、とマレッタは言うが、すでに人が集まり始めている。悠長(ゆうちょう)に話している場合ではなさそうだ。
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登場人物紹介

おもな登場人物 ※五十音順


〈アトワーズ〉【四章 七章 九章】

学院の魔術師範を務めていた老人。出身とする漂泊の民トルシャンが、盗掘師たちの遠縁であることや、敷地の片隅に天幕を張って暮らしていたこと、毎度のようにリラをかばっていたことから、役員たちに「荒れ地生まれの変わり者」と煙たがられている。リラの師であるロウマンとは、過去の大いくさを生き抜いた戦友。リラに、亡くした娘の面影を見ていた。


〈アマダ〉【二章 五章】
リラが所属する〈第三・古代史研究室〉のすこし太った室長。「うだつの上がらない、あばら家の亭主」と揶揄されている。気さくで人懐っこそうな顔をしているが、がさつで繊細さなど持ち合わせてはいない。彼の衝動的な行動で研究員たちは振り回され、たびたび危険な目にあわされている。生まれは港町の裕福な商家だが、わけあって学者になる道を選んだ。


〈ウルイ〉【五章 九章】

〈第三・古代史研究室〉では最古参となる年配の魔術師で、独学による魔術は、なぜか探索に向いたものばかり。のんびりとした人柄だが、自由気ままな室長を諭すこともある。リラに対しては、とくに優しく接するようだ。アマダのせいで危機に瀕することの多い研究室の面々だが、彼のような、おっとりした者がどうやってくぐり抜けてきたのかは不明である。


〈エルトラン〉【一章~】

学院の書庫に侵入して重要な書物を盗み出した男。高位魔術研究室に所属する優秀な魔術師であるが、異端魔術の研究に手を染めていたという噂が絶えない。吹雪の中での追撃を振り切ったあとは行方をくらませているが、東の森林地帯に潜伏し、ウトロの事件に関わっているのではないか、と目されている。出自についても諸説あり、得体の知れない人物である。


〈ジュナン〉【二章 三章】
冒険者の一団に属する駆け出しの剣士。魔物退治のあと、しばらくリラと行動を共にする。一人前だと認められたいがために護衛の役目を不服がったり、戦いを前に緊張した表情を見せたりするなど、初々しさの抜けない彼女だが、どこで身につけたのか、洗練された剣の腕をもつ。また、ドラゴンに襲われて生き延びたのだから、強運の持ち主というほかない。

〈ネイドル〉【一章 三章 四章】
カンタベルの運営に関わっている重役員だが、魔術や学問への造詣は深くない。リラを呼びつけて威圧的な態度で書物奪還を指示した。腹いせのために〈成金趣味、もしくはむっつり顔〉と名付けられていることを本人は知る由もない。貴族会という目の上のこぶとエルトランの事件に悩まされているが、彼の関心はもっぱら、美術品の収集や美食に向けられている。

〈フルミド〉【三章 五章 八章】
学院に雇われて半年となる初老の用務係。役員の遣いでリラの研究室を訪れ、本部中央棟への呼び出しを告げた。生気に乏しい風貌からは想像できない、器用さと気配りの細やかさをもち合わせている。噂話が好きで人間観察を趣味とするため、リラに助言したり、そのうろたえる姿を見て楽しんだり。さらには、任務に向けた足掛かりをリラに与えることとなる。

〈ボナルティ〉【一章 三章 四章 八章】
いつもネイドルの背後に控えている丸眼鏡の小男。彼も同じく役員の地位にあるが、金切り声でわめき立てる姿は、まるで口うるさい官吏だ。リラが、単なる腰巾着だろう、と見て油断したのも無理はない。彼の言い分はこうだ。ただ飯を食わしてやっているのだから恩を返せ。さらに返済金の免除と帰郷の許しという甘美な言葉で、リラの反抗心を完全にくじいた。

〈マレッタ・トウヤ〉【六章】
カンタベル学院に勤めて二十余年、学生食堂の厨房を仕切る調理人である。口達者で腕っ節が強く、たとえ貴族の子弟であろうが容赦せずに叱りつけるため、学生たちに恐れられていた。容姿についての表記は少ないが、大勢からの求婚を受けたことがあり、力強い人間性とも相まって魅力的な人物のようだ。我が子と同年代のリラとは、固い友情で結ばれている。

〈リラ〉【序章~】    
カンタベル学院で歴史研究に従事する魔術師。険しい山に囲まれたクルルの里で生まれ育つが、放浪の老魔術師に才能を見出されたことから山を下り、同学院において魔術を学んだ。故郷の山道で鍛えられた俊敏性と、丈夫な体をもつ。本人は慎重派だと主張するが、根っからの研究者体質で、とかく興味が先走るため、周囲の見解が必ずしも一致するとは限らない。

〈ロウマン〉【序章 二章 五章】
放浪の果て、クルルの里にやってきた老魔術師。山での厳しい暮らしを送る人々の支えとなるべく里の外れに住み着いた。そこで出会った少女の才能を見出し、弟子に迎える。医術にも長けているが、魔術しかり「世の中には万能なものなど存在しない」と弟子を諭す。また、学院で魔術師範を務めるアトワーズとは、過去のいくさにおいて生死を共にした仲だった。

〈ロスロー〉【四章】

立派な体格をした、学院でも屈指の実力をもつ魔術師。攻撃魔術の達人であり、学院内外で立てた功績によって称号を授与されている。貴族の出身であることを誇示しないなど、自らには徹底した実力主義を課すいっぽう、伝統や格式を重んじる傾向は強い。最近、酒館で朝まで飲む姿が目撃されている。ふだん堅物なだけあって、酒が入ると面倒な人物に違いない。

その他の登場人物 ※五十音順


〈ヴィルジット〉【二章 三章】

重役員のネイドルによって、リラに与えられた偽名。冒険者協会の証書には剣士とある。

 

〈カドマク・ニルセン〉【五章】

ウトロの山奥で金脈を発見した探検家。四度目の探索では、部隊もろとも消息を絶った。

 

〈セノルカ・バリン〉〈ベイケット・クラン〉〈オハラス〉【八章】

二十年ほど前の除名者記録では「学院条例の著しい違反のために処分となった」とある。

 

〈ゼラコイ〉【二章 八章】

閲覧室に猫を放ったり、戦場魔術の廃止を訴えたりした魔術師。消えた賢者として有名。

 

〈チャドリ〉【六章】

学舎の厨房において食材庫の管理を任されている。ものぐさだが、料理長の信頼は厚い。

 

〈テルゼン〉【八章】

トツカヌと話していた若い魔術師。紫紺色の長衣を着ており、身分が高い人物のようだ。

 

〈トツカヌ〉【八章】

立派な体格をした老人。テルゼンには不満げな態度を見せる。酒を飲まないと眠れない。

 

〈ナージャ〉【七章】

アトワーズの教え子。六年前に卒業していることから、リラよりすこし上級生のようだ。

 

〈ブルニ〉【八章 十章】

いくさでの悲惨な経験がもとで人間不信に陥った守衛の老人。リラにはすこし心を開く。

 

〈ベルカ〉【五章】

アマダと共に、歴史研究に従事している学者。思慮の欠ける室長に詰め寄ることがある。

 

〈ポロイ〉【二章 五章 八章】

二千年前の災厄にて大船団を率い、滅亡寸前まで追い込まれた人類を新大陸へと導いた。


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